とあるマルガの記録私は孤児院で楽しげに遊ぶ子供達を横目に部屋の隅で体育座りをして塞ぎ込んでいる。別に悪い事があった訳じゃない。これが日常。私は見えないものが見える。そのせいで疎まれて、嫌われて、蔑まれる。それが嫌でここにいる。孤児院にいる他の子達も私の事を変な人だと思っているみたいだけど、そんな事はどうでも良かった。ただここで静かに暮らせればそれでいいと思っていたから。それなのに―――。
「やあ、こんにちは」
そう言って私の前に現れた青年がいた。見た目は二十代前半ぐらいだろうか? 茶色い髪をしていて、瞳の色は金色だった。この人は一体誰だろう……? 私が戸惑っていると彼は笑顔のまま口を開いた。
「僕は君を迎えに来たんだ。君はこれから僕と一緒に暮らすんだよ?」
「えっ……どうしてですか?」
「だって君の事が気に入ったからさ!」
彼の言葉を聞いて困惑する。今までずっと一人で過ごしてきたけど、それでも孤独には慣れていた筈なのに何故か胸がざわついた。彼が怖かった訳ではない。ただ、初めて向けられた優しさに戸惑いを覚えたのだ。すると彼の背後に黒い影が現れた。それはまるで巨大な蛇のような姿をしていた。私は咄嵯に悲鳴を上げそうになるがそれを堪える。しかし、私の様子がおかしい事に気が付いたのか彼は背後を振り返る。そして黒い影を見て驚いたように目を見開いた後、またすぐに元の表情に戻った。それから私に視線を向けると再び口を開く。
「大丈夫だよ。あれは異世界の一部だからね」
「…………」
「さぁ行こうか! 僕の家に案内してあげるよ!!」
「あっ……」
彼に手を引かれるがまま部屋を出る。そして廊下に出て少し歩いた所で立ち止まった。
「院長先生に許可は取ったんですか?許可なく引き取られる訳にはいかないです」「ああ、問題ないよ。もう取ってあるからね!」
「…そうですか」
驚いて思わず声を上げるが彼は気にした様子もなく歩き出した。
「ほら、早く行かないと日が暮れてしまうよ?」
「あの……本当に良いのでしょうか?」
「うん、勿論だとも!じゃあ行くよー」
「はい……」
こうして私は見知らぬ男性の家に引き取られる事となった。背後の視線がとても痛い。だって私の背後には…。怖くて振り向けない。
「おやおや。ムル、何ですかねあの男は。マルガを引き取るとのたまい、連れていくとは。まあ、それはどうでも良い事です。彼も特殊な存在という事の方が気になりますね。私(わたくし)達の事は見えていない様ですが」
ムルは腕組みをしてにこやかに笑うだけでナアジュの質問には答えず二人の頭上を飛んでいった。ナアジュは何かを察したのかいつも通り困った様に笑ってマルガに付いていった。
***
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
玄関に入ると使用人達が出迎えた。彼等は私を見るなり怪しげな目で見てくる。私はその目を直視出来ず俯いた。
「旦那様、その子は?」
「僕の新しい家族になる子だよ」
私は俯いたまま何も答えない。
「…。」
「皆、仲良くするように。さてと……じゃあ早速だけど仕事に取り掛かろうかな。マルガ、手伝ってくれるかい?」
私は小さく頷き彼に付いていく。書斎の扉を開けると私を中へと促す。私は黙って部屋の中央にある椅子へ腰かけた。彼は私の隣に立つと口を開く。
「まずは自己紹介から始めようか。僕はプロシュエール。気軽にプロシュと呼んでくれ。職業は小説家をしている。よろしくね」
「……はい。よろしくお願いします」
「さて、君は何故ここに連れて来られたと思う?……ああ、別に深い意味はないんだ。ただ君に興味があってね。それに君はとても面白い」
「えっ……」「そうだなぁ……。君の瞳はまるで空に浮かぶ月のようだ。神秘的で美しい。でもどこか虚ろで冷たい印象を受ける。それがとても魅力的だ」
「……」
「ふむ。まだ緊張しているのかな?まぁいいか。さぁ、本題に入ろう。君は『異世界』を知っているかい?」
「…いいえ」
「では教えてあげよう。この世界とは別に存在するもう一つの世界。そこでは魔術が存在し、人々はそれを行使して暮らしている。そして魔術師達は自分達の事をこう呼ぶ。"異能者"と」
「異能力者は人によって違う力を持っている。例えば炎を操るとか水を生み出すなんていう単純なものから、未来予知をする者や時を止める力を持つ者もいる。しかし大抵の人間はごく普通の人間と同じ見た目で、一見すると見分けるのは難しい。僕も最初は分からなかったよ」
「そんな世界で生きる者達の物語を書いた小説の筆者でもある。興味はあるかい?」
私は首を横に降る。意味が分からない。
「そうだろうね。だが、いつか読む事になるかもしれない。まあ、読んでみて損は無い筈だよ。この本はあげる。読み終わったら感想を教えてくれ」
本の表紙を暫く眺めてから本の感想を述べる事が仕事なのかと問い掛けてみた。
「そういうわけじゃないけどね。ただ、君に興味を持っただけだ」
「……答えになっていません」「ははは!確かにそうだね。でも気にしなくて良いんだよ。さて、今日はもう遅いし部屋に戻って休むといい。明日になったら色々と説明しよう」
「……分かりました」「お休み、マルガ」
「…お休みなさいませ」
彼に一礼し、書斎を後にした。私は外に待機していた使用人に連れられ、与えられた自室に入りベッドに座る。そして、二人と向き合う事にした。
「ムル…ナアジュ…。その…私…。」
二人ともただ笑うだけで何も言わない。
「何か言って…何か言ってよ…!耐えられない…私分からないの…何にも分からないよ!」
私はパニックを起こし、過呼吸になり、泣き崩れる事しか出来ない。
「あぁぁぁ……あぁぁぁ……」
二人が近寄ってくる気配を感じる。ナアジュが私の顔を覗き込むように屈み、耳元で囁く。
「あの人間はかなりの変人ですが富を持ち、優しくしてくれる。貴女の見える事など気にしない稀有な存在。彼を受け入れ、幸福になってみてはいかがでしょう」「っ……」「怯えなくても大丈夫ですよ。彼は私達のように貴女を傷付けはしません。憶測ですけれどね」
「うぅ……」
ナアジュは立ち上がり、私から離れる。ムルは私を見下ろしながら言った。
「人の子を信じるのも一興。何かあれば私が守りますよ。守護天使ですので」
「…うん」
相変わらず何を考えてるのか理解できない二人だけれど。そして、その言葉が本当なのか分からないけれど。気味が悪いぐらい優しい気がするけれどいつも通りの二人だと思う事にしたら落ち着いてきた。そうだ、本。
私は貰った本を開けてみる。表紙の裏には題名が書かれていた。
『異世界の日常』
「……読まないと」
私は本を読み始めた。難解で私には到底理解出来そうもない。でも、二人に聞くのは気が進まない。取り敢えず、栞を挟んで眠る事にした。
***
「おはようマルガ。よく眠れたかな?」
「慣れない環境だったのであまり…」
朝食を食べ終えると、使用人が紅茶を出してくれた。美味しい。
「ところで昨日渡した本はどうだった?気に入ってくれたなら嬉しいんだがね」
「…難しくて理解出来ませんでした」
私にお世辞など言えない。そんな事が言えるほど上手く生きてはいない。「そうか。でも、落ち込まなくていい。じっくりと紐解いていけば面白くなると思うよ。ああ、あとこの屋敷の案内をしてあげよう。君は知らない事が多いだろうからね」
「はい」
私は彼の後ろについて歩く。長い廊下や広い庭。中庭。食堂。図書室。応接間。大浴場。様々な場所を見て回った。最後に辿り着いた場所は書庫。沢山の書棚がある。
「ここが書庫だよ。ここは僕以外の人間は入れないようになっている。だから安心して自由に使って構わないよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ僕は昼食の準備に取り掛かるとするよ。また後で会おう。何か聞きたいことがあればいつでも聞いてくれて良いよ。それでは失礼するよ」
彼は去っていった。私は本を手に取る。
「彼の書いた小説。多分理解出来ないだろうけど…」ページをめくる。
それは、一人の少女の話だった。
彼女はある日不思議な夢を見るようになる。夢の中の少女はとても美しく、優しかった。しかし、次第に彼女の周りの人間達は不幸に見舞われる事になる。
最初は小さな出来事だった。だが、徐々に悪化していく状況の中、ついに彼女にまで被害が及ぶ。そして、彼女が死の危機に陥った時、奇跡が起きる。
『何これ……』
夢の中の少女が突然苦しみ出す。全身の皮膚が焼け爛れていく。
『やめて……』
次の瞬間、彼女を中心に爆発が起こる。爆風により周囲の建物は倒壊し、地面は裂ける。
『嫌ぁ!』
悪夢のような光景が広がる中、彼女は必死に逃げようとする。だが、足は動かない。
『助けて……!』
そこで目が覚める。彼女は慌てて飛び起きる。そして、自分が涙を流している事に気付く。
『あれは、一体なんなの?』
その日から毎日同じ夢を見るようになった。
それから数ヶ月経つと今度は彼女の友人が襲われる。
『どうしてこんな事に……』
彼女は絶望に打ちひしがれながらも友人の身を案じていた。そんなある日、夢の中で友人は殺される。そして、現実でも命を落とす。と言ったものだった。
「…悲しいお話」
と虚空に呟いたつもりだったが気が付くと横に彼がいた。
「…!」
「君が泣いているのが見えてね。心配になって様子を見に来たんだよ」
私が泣いている?頬を触ると確かに濡れていた。
「これは……」
「この本を読んで悲しくなって泣けてきたのかい?」
「…そう…かもしれません」
「そうか。そうだよね。分かるよ」
彼は私の頭を撫でてくれる。身体が拒否反応を起こしてでビクンと跳ねてしまう。こういうのは慣れない。
「おっと、ごめんよ。君は感受性が強いんだね。普通はそこまで深く感情移入しないものだからさ」
「そうですか……。あの、一つ質問してもよろしいでしょうか」
「うん。何でも聞いてくれ」
「貴方は、この主人公の事をどう思っていますか」
「うーん。興味深い子だと思っているよ。彼女は僕の作品のヒロインの一人なんだ。彼女は僕にとって特別な存在でね」
「特別とはどういう意味でしょう」
「そうだねぇ。僕はこの作品に出てくる登場人物達全員を愛しているけれど、その中でも特に愛しているのは主人公だよ」
「そうなんですか」
「彼女は読者と同じ目線に立ってくれる。それがとても嬉しいんだ」
「なるほど……」
「あと、彼女は可愛い女の子だからね。守ってあげたくなるよ」
「そういうものなのですね」
私は本を棚に戻す。
「そろそろお昼にしようか。マルガ」彼は歩きだす。
「…はい」
私は彼と一緒に食堂に向かった。
「美味しいかい?」
「…はい」
今日の昼食はサンドイッチ。パンにはレタス、トマト、ハムなどが入っている。味付けは塩胡椒のみ。シンプルだけどとてもおいしい。
「どんな時でも笑ってくれないね」
「…。」
「まあ、いいけどさ。ほら、もう一口食べてみて」
彼に促され再び一口を齧る。
「美味しいです」
「それは良かった」
彼は満足げに微笑む。私は顔を見れずに俯く。
食事を終え、彼に問い掛ける。
「午前中はのんびりと読書を楽しんでしまいましたが午後は何をすれば良いですか?」「そうだね。じゃあ、一緒に買い物に行こうか。必要な物を買ってしまおう」
「良いんですか?」
「勿論。僕達は家族だからね。マルガ」
私達は屋敷を出て市場に向かう。
「ところでマルガ。君は何か欲しい物はあるかな?」
「…思い付きません」
「それなら適当に見て回ろうか」
「はい」
市場では様々な商品が売られている。野菜や果物、魚、肉類等々。それらを眺めながら歩く。
「マルガは何が食べたいかとかはあるかい?」
「好物はなく好き嫌いもないので…何も思い付かないです」
「そうか。じゃあ、色々と買っていくとするよ」
彼は手際よく食材を選んでいく。
「すみません。ちょっと通して貰えますか」
「ああ、悪いね。失礼するよ」
人混みの中をすり抜けていく。
「ごめんなさい…ごめんなさい」
私達の前を通り過ぎた人達に彼は声をかける。彼らは笑顔で応えてくれた。
「今日は随分と賑わっているね」「…そうみたいですね」
「この時間帯は特にね。マルガ、手を繋ごうか」
「遠慮します…」
優しくされればされる程苦しくて怖くて堪らなくなる。建物の屋根を見つめると二人が何一つ変わらない表情で此方を見ている。
「マルガ、どうかしたのかい?具合が悪いのかい?」
「いえ……」
「顔色が良く無いようだけれど……」
「平気です……」
「大丈夫じゃないだろう。少し休もうか」
「本当に何でもないんです……」
「……分かった。無理強いするつもりは無いよ」彼は私の頭を撫でる。そして微笑む。その優しさに耐えられず泣き出してしまいそうになる。私は下唇を強く噛んで堪えた。
「行きましょう……」
「うん。辛くなったらすぐに言うんだよ」
私達は歩き出す。
市場の喧騒が遠ざかる。人気の無い路地裏に入る。
「ここで休みましょう」
「そうだね」
彼が壁にもたれ掛かるのを見て、私はしゃがみ込む。
「マルガ、どうしたんだい?」
「…いつもの事です」
「そうか」
「…。」
「立てるかい?」
彼の手が差し出される。それを掴まずに自力で立ち上がる。
「歩けそうかい?」
「…はい」「もう少し頑張れるね?」
「はい」
私は彼と共に歩み始める。正直帰りたいと思っているが口にはしない。私がいけないんだ。私が…。
「ここだよ」
着いた先は小さな店だった。看板も無く扉の前には花瓶が置かれているだけ。とても営業しているようには見えない。
「……こんなところに店が?」
「ここは知る人ぞ知る名店でね。僕のお気に入りなんだ」
「そうなんですか」
「ほら、早く入りなよ」
促されて中に入ると店主らしき人が出迎えてくれる。
「いらっしゃいませ。お客様は二名で宜しいでしょうか?」
「二人だ」
「畏まりました。では、こちらへ」
奥の個室へと案内された。部屋の中にはテーブルと椅子があるだけの簡素な造り。
「何か御注文はございますか?」
「僕は珈琲だけでいいかな」
「私はミルクで」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
店員さんは静かに退室していった。
「良い雰囲気のお店ですね」
「そうだろう?僕も初めて来た時は驚いたよ」
「常連なんですか?」
「まぁね。仕事の合間とかによく来るんだよ」
「へぇ……」
「あ、マルガはこういう所苦手かい?」
「えっと……そういう訳じゃなくて、ちょっと緊張してるっていうか……」
「ああ、なるほど。確かに初めての場所だと少し不安になるよね」
「はい……」
暫くすると頼んでいた飲み物とお菓子が運ばれてきた。
「お待たせ致しました。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとう」
私達は何も言わずに黙々と飲み物を飲む。時折会話をする程度で基本的には無言の時間が続く。
「そろそろ帰ろうか」
「はい」
会計を済ませた後、二人で並んで歩く。
先程まで感じていた不安が少し和らいだ気がする。屋根には相変わらず二人がいる。
「マルガ」
不意に彼が立ち止まる。
返事の代わりに首を傾げる。
「君の好きなものを教えてくれないかい?」
「好きなもの?」
「うん。何かないかな?」
「…………」
「何でも構わないから教えて欲しいんだ」
「……特に無いです」
「本当に?」
「はい」
「うーん……困ったな」
彼は眉間にシワを寄せている。何に対して悩んでいるのか私には分からないけど、あまり関わりたくないので放っておく事にした。
「それなら質問を変えよう。君が一番楽しいと思う事は?」
「……」
一番楽しかった事……そんな記憶はない。首を横に振った。「じゃあ、辛いと思った事は?」
「それは…あります…よ」
「どんなことだい?」
多過ぎて答えに困る。取り敢えずろくでもないことばかりの人生だと答えておいた。改めて思い返せば酷いものばかりだ。私の思い出は全て血と苦痛の記憶で埋め尽くされている。彼は私の暗く落ち込んだ表情を見てそれ以上は質問してこなかった。何も語る事なく帰路へついた。夕食を摂り、自室へ戻ってきた。二人と話す。
「優しさが…辛いの…苦しいの…これが幸せなの?…分からないよ…」
ポロポロと涙を流す。泣きながら彼らに問い掛けた。意味なんてないと分かってても。すがるしかない。
「ねぇ、ムル。幸せって何?」
「天使にそれを問うんですか。人の子でも困る質問ですよ。私から言える事は貴女の精神状態でそれを得る事はない、ですかね。ひび割れた器に甘美な蜜を注いでも漏れ出てしまう。そう、貴女はひび割れた器。満たされる事もなければ受け入れる事も出来ない。ご理解いただけました?」
「…ナアジュ」
「私(わたくし)に振られましても。ムルが語った事が全てでしょう。邪神に問うても何も得られませんよ。そもそも価値観が違いますので。やはり、貴女が特別な子という事実が悉く幸福を拒む。そういう事なのでしょう」
ひび割れた器。普通じゃない。やっぱり私がおかしいんだ。私は無様に泣く事しか出来なかった。二人は微笑んでいる。その笑顔はいつも通りで歪なもの。優しさの欠片もない。分かってる分かってるけどけど…。その日は一晩中泣いていた。
***
次の日の朝。目が覚めた。
いつの間にか眠っていたようだ。目が腫れて痛い。
「おはようございます。マルガ」「外は快晴ですよ。暖かで過ごしやすい良い日です」
ムルとナアジュが私を見下ろしている。
「…っ!」
起き上がろうとした時だった。頭がクラリとしてベッドに倒れ込む。身体中に痛みが走った。
「人の子は実に脆い。眠っていても良いのですよ」
「えぇ、昨晩あれ程泣けば当然でしょう。人間はか弱いですね。貴女は特に。」
「ぁ……ぅ……」
二人が声を掛けてくれる。私の疎ましい日常が帰って来た気がする。扉をノックする音でそれを否定されたけど。
「失礼します。朝食の用意が出来ております」
使用人の声だ。扉が開かれる。
「あら、マルガさん。酷いお顔ですね。何かありました?」
心配してくれている使用人の顔をマトモに見る事が出来ずに俯く。
「……お気遣いなく…まだ…慣れない…だけです」
ボソボソと呟く事しか私には出来ない。「そうですか?なら良いのですが。では、どうぞ召し上がってくださいね。冷めないうちに。」
彼女はそのまま去って行った。
テーブルの上を見ると美味しそうな料理が並べられている。
「おはよう。マルガ。どうしたんだいその顔。辛い事があったらいつでも言ってくれて良いんだよ。僕達は家族なんだから」「お気遣い…ありがとうございます…」
彼は私を見て微笑む。家族…家族。彼は何度も私の事を家族だと言ってくるがはっきり言うと家族という言葉は好きじゃない。だって、それは呪いの言葉だから。私の血の繋がった本当の家族は生まれてきた時点で私を忌み子と罵り、捨てたのだから。
「さあ、食事にしよう。今日は暖かいスープがありますよ」
「……はい」
私は椅子に座ってスープを口に運ぶ。味なんて分からない。ただ、喉を通る感触だけが分かるだけ。今日は休ませてもらおう。吐き気までしてきた。
***
「マルガ様は大丈夫でしょうか。随分とお疲れの様子でしたが」
「大丈夫だよ。きっと」
部屋の前で彼と使用人の会話が聞こえる。
「それならば宜しいのですが。」「それにしてもあの子も可哀想な娘ですね。あんなに幼いのに」
「そうだねぇ。マルガはまだ子供なのに色々抱え込んでいて大変なんじゃないかい?」
「そうかもしれませんね。でも、マルガ様は良い子ですもの。これからもっと幸せになれるはずですわ」
「だと良いんだけどね」
「そういえばプロシュエール様はどうしてマルガ様をお引き取りに?」
そう、それは私も思った。気に入った。そんな理由にもならない理由で引き取るなんて訳が分からない。
「うーん、まぁ、色々とあってね」
彼は言葉を濁す。何故言わないの?疑念が私の胸を支配する。「……そろそろ時間なので行きますね」
「うん。頑張っておいで」
使用人は彼の言葉を聞いて部屋の前から去っていた。扉の向こうからは足音が遠ざかっていくのが聞こえてくる。沈黙が続く。その沈黙を破ったのは彼だった。
「……マルガ。君は僕達と一緒に居たくないかい?」
唐突に投げかけられた質問。分かる訳がない。
「いえ……。そういうわけでは……ありませんが……」
「じゃあ何が不満なんだい?言ってごらん」
「……別に何も無いですよ」
「嘘はよくないね。マルガはいつも何か隠してる。僕にはそれが分からないけど」
「……」
「言いたく無いのなら無理強いはしないよ。だけど、これだけは言える」
「……なんでしょう」
「僕達を。僕を信用してくれないか?」
「……。」
私は側にいる二人をすがるように見つめた。
「分かったと答えてしまいなさい。向こうが薄い言葉を投げるのならば此方は偽りの言葉で返せば良い。駆け引きですよ、マルガ」
「何かあればいくらでも対応出来ます。私(わたくし)達をそんな目で見つめるという事は私(わたくし)達を信用しているのでしょう?私(わたくし)達を頼らざるしかないのでしょう?ならば、やる事は分かりますね?」
私は分かりましたと答えた。何の感情も乗っていない声で。納得したのか彼が去っていく足音が聞こえる。
「良くできました。マルガ。偉いですよ」
「えぇ。信じるものは守護天使と邪神ですね」
二人が笑う。気味が悪いくらいに綺麗な笑顔だと思った。
***
「マルガ様、おはようございます」
「おはよう」
使用人が挨拶をする。私も返事をした。
「昨日はゆっくり眠れましたか?」
「はい。とてもよく寝れました」
私の声には感情が乗っていないだろう。言葉を発しているのは私自身だというのに他人事のように感じる。使用人の後ろには二人が立っている。普段と変わらない笑顔を浮かべて。
「そうですか。良かったです」
私はテーブルの上の食物を胃に詰める。味など感じない。生きる為に詰め込んでるだけ。食事という行為に幸福を感じた事はあまりない。それでも食べるのは、ただの習慣だから。食べなければ死んでしまうから。それだけの事。
「美味しいですか?」
「はい。とっても」
「なら、良かった。でも、少しいいかな」
「はい。どうぞ」
「君は僕の事が嫌いなのか?」
「いいえ。」
「そっか…。」
私は食事を終えると図書室に向かって本を読む。すれ違った際に彼が悲しそうな顔をしていた事はどうでもいい。正体を晒せば、何故私を引き取ったのか。それだけ答えれば元の私に戻るのに。
「今日は何を読まれるのでしょうか?」
私によく接してくれる使用人。昨日、扉の前で彼と話していた使用人が声を掛けてくる。私は何も答えない。彼女は困ったように笑って去っていった。私が無視をしている事に気付いていないのだろうか。それとも気にしていないのか。どちらにせよ、彼女にとってその程度の関係。私は本のページを捲る。この屋敷に来てからは読書ばかりしている気がする。読書は趣味という訳じゃないけど本を読んでいる間は現実を忘れられる。嫌なことなんて考えなくて済む。
「よっ」
声をかけられた。私は顔を上げる。そこにいたのは私よりも年下に見える少年だった。淡い青髪に青い瞳。まるで、海の底のような色。
彼の服装は使用人の制服ではなく貴族の子供が着るようなものだった。
「俺はアジュールって言うんだ!お前は名前なんだ?俺より歳上だと思うんだよ。まあ見たらだいたい解るが一応聞いとこうと思ってさ」
馴れ馴れしく話すアジュールという少年の圧に押されながらも名乗る事にした。何処からやって来たんだろうという疑問は一旦置いておいて。
「マルグリット…」
「へー、良い名前じゃん。なぁ、マルグリット。一緒に遊ぼうぜ!」
「……私は体力ないから楽しくないよ」「ん~、じゃあ散歩しよう。ほら、行くぞ」
アジュールが私の手を引く。強引に手を引かれると転びそうになるのだけど。彼はそれを理解してか、それとも偶然か。とにかくバランスが崩れないように歩いてくれる。私を引っ張っていくのに無理矢理引っ張ったりしない。
廊下に出るとアジュールが話しかけてきた。
「マルガはここに住んで長いのか?」
「…三日前に来たばっかり」
「へぇ。親はいないのかい?」
「…私は孤児だから」
「ふぅん。何でここに来たんだ?」
「…この屋敷の主である小説家のプロシュエール様に引き取られたの」
「成る程ねぇ」
「君は何処から来たの?」
「秘密!」
アジュールが悪戯っぽく笑う。彼は貴族の子供にしては珍しく子供っぽい性格をしている。そんな事を考えながら歩いていると中庭に出た。庭園と呼ぶにはあまりにも狭い庭。手入れもあまりされていないように見える。ただ花壇だけは綺麗に整えられていた。
「此処はね、昔はちゃんとした庭園があったんだけどプロシュエールが『こんなものいらない』とか言って壊したんだ。今は雑草しか生えてないけど」
アジュールは寂しそうに言った。穏やかに見えるのに意外な一面があるんだと思った。それから二人で他愛もない話をしていると不意に彼が口を開いた。
「なぁ、マルガは幽霊っていると思うか?」
その類いの事にはあまり答えたくない。私は見えるからそういうモノの存在を認めざるを得ない。
「えっと……居るんじゃないのかな」
「そっか。でも俺は信じていない。だってさ、見えないものを信じるなんて馬鹿げてるだろ」
アジュールは笑っていた。それは嘲笑に近い笑い方だった。何かを軽蔑するような。アジュールは続けて言う。
「例えばさ、マルガ。君は何が見えているんだ?」
「…何も」
突然何を言い出すの?と思った。顔に出てるかは分からない。それでもアジュールは気にも止めずに言葉を続けた。
「嘘つけ。お前は見えているはずだ。マルガはいつも何を見ているんだ?」
「訳の分からない事…言わないで」
「あはははっ、ごめんな!ちょっと意地悪し過ぎたみたいだ。俺はな、ずっとお前の事を見てるんだ。だからマルガが何を見ているかも知っている。お前はさ、見えないふりをして生きて自分を偽って生きてる。違うか?」
「…………」
「俺はそれが可哀想だと思うんだよ。マルガ、本当の自分を見せてみろよ。大丈夫、怖くなんかない。俺は優しいぞ?」
「…。」
私は何も言えないまま黙り込んだ。どうすればいいのか分からない。アジュールの言葉は不思議と心に染みる。まるで魔法のように。私の心に入り込んでくるようだった。私が悩んでいるのを見透かすようにアジュールが続ける。
「ほら、言っちまえよ。もう誰もお前を否定しないし傷付けない。ここには俺達しかいないんだから。なぁ、マルガ」
「……っ!」
止めて…!と思ったその時だった。背後の扉が勢いよく開いた。振り向くとそこには彼がいた。
「おい、アジュール。お前…!マルガにちょっかい出してたのか」
「うわー怖い怖い。別に悪い事はしてないぜ?ただマルガと話していただけだ」
「そうやってすぐ人を揶揄おうとするのは良くない。マルガ、こいつの言う事を真に受けるなよ」
「酷い言い草だな、プロシュエール。少しくらい良いじゃないか」
「良くはない。マルガをいじめるのはやめてくれ」
「はいはい。分かりましたよ」
彼がが私を見る。私は目を合わせられなかった。
「大丈夫か、マルガ」
「…。」
彼は心配そうな顔をしていたが何も言葉を返す事もなく俯く。そんな私達の様子を見てアジュールが笑う。そして言った。
「マルガも大変だよな。こんな奴に引き取られちまってさ」
「…。」
ずっと黙っていたが脳内に声が響く。
「『沈黙も悪くありませんしその場から逃げてしまってもいい。ですが、人の子達の戯言に呑まれる前に彼らの関係を聞いてみては?少しは心の靄も晴れるでしょう』」
ムルの声。アジュールに姿を見られない様にこうやって意識に直接語り掛けてくれてるんだ。ムルの声でぐちゃぐちゃに絡まった糸の様な感情が解れていくのを感じる。
「プロシュエール様とアジュール君の関係を聞かせてください。私そっちのけで話を進めないでください」
冷淡な声で私は問い掛けた。多分それはそれは感情のない人形の様な顔をしてるに違いないと思いながら。
「おっ、やっとこっち向いてくれた」
嬉しそうに微笑むアジュール。彼の顔を見ると無性に腹立たしくなってきた。この気持ちは何だろう。
「まあ、いいや。そうだな、俺はこいつに救われた。親にも見捨てられ、使用人達からも気味悪がられていた。そんな中、こいつだけが手を差し伸べてくれた。あの時、俺がどれだけ救われたか……」
彼は目を閉じ思い出に浸るように語った。その表情はどこか切なげだった。
「そうですか」
「ああ。それから色々あって、今は一緒に暮らしているって訳だ。どうだ?」
「初日に会わなかったのはどういう事です?」
アジュールを睨み付ける。…何でこんなに苛立っているの?私。
「ああ、あれね。ちょっとタイミングを逃してしまったというか、なんていうかなぁ。それとほら、マルガってばすぐに部屋に引き籠っちゃうしさ」
「…成る程」
腑に落ちる様な落ちない様な…モヤモヤする。彼にも聞いてみる事にした。
「プロシュエール様。何故初日に彼を紹介してくださらなかったのですか?」
苦笑いを浮かべながら彼は言う。
「ここで何を話してたか知らないけどもまあ、変わった奴だからマルガがここに慣れてから紹介しようと思ってたんだよ。ずっと調子悪そうにしてたろ?」
…仕方ないここは折れよう。気分が悪くなってきた。
「…分かりました。体調が優れないのでこれで失礼します。では」
私は一礼してその場を去った。お二方の顔は見たくもなかった。屋敷の中に戻り自室へと戻る。扉を開けるとムルとナアジュが出迎えてくれた。
「大変でしたね、マルガ。貴女が望むのならば孤児院へ帰ります?貴女が人の子達のせいで弱っていく様を見てはいられません」
「そこまでは考えられない…」
ベッドに腰掛けて頭を抱える。ムルは代わらずだけれどナアジュは普段より困った様に笑っている様な気がした。
「マルガ。お休みなさい」
ナアジュが目の前で手を叩く。そこで私の意識は途絶えた。
「ムル、彼等をどうするつもりですか。何かプランを練っている様に見えたんですが」
「私の友人達と友好的になっていただきます。小説家の人の子はきっと俗世以外の場所へと招待したら喜ぶでしょう。小さき人の子…いえ、風の妖精には本来の役割を思い出してもらいましょう。あの妖精は人と馴れ合い過ぎた」
ナアジュはこれから起こる事を全て理解して眠ったマルガを抱えた。
「マルガは任せてください」
「勿論です。守護天使としてマルガの側にいられないのは悲しい事ですがこれは私にしか出来ませんので」
ナアジュは黒い翼を生やし、窓を突き破って空へと消えていく。ナアジュの姿が完全に消えるのを見送るとムルの目が薄く開かれる。空気が一気に禍々しく重くなる。
***
プロシュエールとアジュールは寒気を覚えていた。その上、空気があまりに淀み過ぎている。呼吸をする度に胸が苦しくて仕方がない。足音が聞こえ二人はハッと振り返る。そこには赤紫髪で灰色スーツの青のコートを着た男がいた。でも、人間ではないとすぐに察する。その男の頭には植物で出来た光輪が浮いており、背中からは翼が生えていた。
「お前は誰だ?マルガはどこに行った」
「答える義務はありません」
「彼女は僕の大事な家族なんだ。早く返してくれないか」
「貴方のものではありませんよ」
目の前の天使の言葉には一切の感情を感じない。それなのに威圧感は凄まじかった。天使の浮かべる微笑みが不気味で仕方がない。
「質問を変えよう。何故ここに来た?」
「来たんじゃありません。ここにいました」
「やっぱりあの気配はお前だったんだな!」
アジュールが叫ぶ。
「ここは俺達の家だ!勝手に入って来るなんて許さないぞ!」
アジュールは身体に風を纏い、天使へ突っ込んでいく。
「よせ!」
と、プロシュエールが叫ぶも勢いが増すばかりで止まる気配はない。
赤紫髪の天使は微笑みを崩す事なくさらりとかわす。そして、アジュールの肩に手を置いた瞬間、彼の身体は凍りついたように動かなくなった。
「マルガにその正体を明かせばもっと親密になれましたよ。彼女が特別だと知っていたのに勿体ぶるからこうなるんです」
「…っ!」
赤紫髪の天使の手に魔力が集まる。すると、アジュールは悲鳴を上げ始めた。プロシュエールはその光景を見て思わず顔を背ける。
「やめろ……」
「ご友人でしょう?何故顔を背けるんです?構いませんけれど」
赤紫髪の天使はアジュールの心臓を掴み、魔力を流し込む。
「ああぁあ!!」
アジュールは身体を大きく痙攣させて地面に倒れ伏した。
「消えかけていた風の妖精に嫌われものだった貴族の子供が身体を与えるという献身的な行為により誕生したのが彼。それを引き取ったのが貴方。そうですよね」
天使がプロシュエールに問い掛ける。プロシュエールは震えながら答えた。
「そうだ……彼は風の妖精だ……」
「異世界を知りたくて、異能を知りたくて異世界に近い彼を。純真な彼を良い様に扱っていた。そうでしょう」
「良い様になんて…!」
「でも、利用はしてましたよね」
天使の言葉にプロシュエールは何も言えなくなる。
「マルガを引き取ったのも彼女の見える特性に惹かれたから。よく調べましたね。普通ならば陰鬱で社交性の低い地味な少女にしか見えない筈なのに。まあ、貴方の異世界の一部が教えたんでしょう。合ってますか」
「合っている……。僕は小説の為に異能力者を探していた。そこで見つけたのが彼女だった。まさか…!」
「はい、彼女は異能力者ではないですが特別な子です。証拠は目の前の私の存在ですね。ここにいたという言葉の真の意味。ご理解いただけましたか」
「お前は…お前は…」
狼狽えるプロシュエールを薄目で見つめて天使は言う。
「マルガの守護天使。それが私です。マルガは平凡な人の子では見えないものを見ているだけではないんですよ。私という特異な存在を連れている事が一番の能力となりますかね」
天使は軽く咳払いをして言葉を続ける。
「さて、ベラベラと喋り過ぎました。貴方の求める異世界へご招待しましょう。俗世で得られる情報は少ないですからね。私の友人達が手取り足取り何もかもを理解させてくれますよ」
天使の背後から大量の魑魅魍魎が現れる。そして、一部の化け物が咥えている人だったものを見て気が付いた。何の罪もない使用人達を殺させてしまった。己の不甲斐なさに悔し涙を流す。そして、にじり寄ってくる化け物達に怯えて尻餅を付く。
「ああ!ああっ!!許してくれぇ!!」
「何を許す必要があるのでしょう。悪事は働いていないでしょう。単に好奇心を満たしたかった。それだけ。私はその手助けをしたいだけです」
天使が手をかざすと化け物達は一斉にプロシュエールへと襲いかかる。
「うわぁああああ!!!」
悲鳴を上げながらプロシュエールは異形達によって飲み込まれていく。その様子を眺めていた天使は静かに呟く。
「お疲れ様でした。貴方の望む異世界を堪能していってください」
天使が歩き出すと同時に周囲の景色が変わる。何事も無かった様に快晴の空が広がる。残されたのは傷付いたアジュールだけだった。
***
私は目を覚ます。ここは…?花畑で眠っていた。辺り一面に色とりどりの花が咲き誇っている。
「おはようございます。マルガ」
「ナアジュ…どういう事?ここはどこ?」
「ムルの方がより良い説明をしてくれますよ。なので、私(わたくし)から何か言う事はありません。」
「…何かしたの?」
「そうですね。何かしらがあったのでこうやって避難している訳です」
「…私のせいであの人達が不幸になった。そういう事?」
「否定も肯定もしません。幸福の基準も不幸の基準も分かりませんので」
ナアジュは私の質問をのらりくらりとかわす。意地悪。
「そろそろムルが来ますよ。質問攻めにでもしたらいかがでしょう」
私の目の前に綺麗に着地するムル。そして、私の顔を見て微笑む。
「…お二方は?」
「遠くへ行かれましたよ」
「…私のせいでお二方は…死んだの?」
「殺してはいません。天使は血で穢れたりしません。私の友人達と戯れてもらっているだけです。小さき人の子の方は本来の役割を思い出してもらっただけですし」
答えになってない…と思う。でも、深く突っ込んで聞く気にはなれなかった。
「孤児院に戻れば良いの?」
「ええ。あの場所は貴女に相応しくなかったので」
「私の日常が…戻ってくる」
「そういう事です。貴方を本当に幸福にしてくれる存在はいつになったら現れるんでしょうね」
「…。」
「敢えて徒歩で戻りましょうか。景色を見ていれば少しは気分良くなりますよ。疲れたら言ってください」
「…分かった」
立ち上がってムルとナアジュを見つめて言う。
「ナアジュの事だから人の滅多に来ない場所に連れてきたんでしょ。…ねえ、手を繋いで?」
私はおかしい。そんなの分かってる。ムルはお二方以外にも酷い事をしたと思うし、ナアジュはそれを止めようともしなかった。嫌えばいい。憎めばいい。酷いと罵ればいい。でも出来ない。私には二人しかいないから。私を愛してくれるのは二人だけ。この二人が居なくなったら生きていけない。
「ほらマルガ、手を」
ナアジュが手を伸ばしてくれる。それを無視して抱き付いた。そして、泣きじゃくった。ナアジュは私を抱き上げて背中を擦りながら歩く。
「そう、貴女は私(わたくし)達にすがり続ければいい。貴女にしか認識出来ない特別な存在が私(わたくし)達なんですから」
ナアジュ耳元で甘く囁く。ナアジュに全体重を預けて安心感に包まれて眠ってしまおうか。そんな事を思っていたらふと、ムルの言葉を思い出す。『ひび割れた器に甘美な蜜を注いでも漏れ出てしまう。そう、貴女はひび割れた器。満たされる事もなければ受け入れる事も出来ない。』
「ねぇ、ムル。」
「はい、なんでしょう」
「私はひび割れた器なんでしょう。じゃあ、ムルとナアジュにどれだけ甘えても満たされないんじゃ…」
「それは貴女がひび割れた器だと気が付かない人の子の落ち度。ひびを塞ぎながら注ぐ事の出来ない注ぎ手が悪いんですよ。私達は理解している。愛していますよ。マルガ」ムルは私の頭を優しく撫でる。多幸感が脳を支配する。帰ろう。また虐げられてもムルとナアジュがいるんだから。