どうしてこんなことになったんだろうと考えて、あぁそうだ、冬弥が図書委員の仕事で席を外していたせいだと思い出した。誰もいない教室に、司センパイと2人きり。どこか興奮した面持ちでオレの指をしゃぶるセンパイを見て、これも何かの運命だったのかもしれないと思った。司センパイはオレの人差し指を口に含み、丹念に舌で舐めまわし、時折音を立てて吸い付いた。ぴちゃぴちゃという水音が、やけに大きく聞こえる。とんでもないことをされているのに、なぜか逃げる気にはなれなかった。目がセンパイの口元に釘付けになる。唾液でてらてらと光る唇の端から、犬のように鋭い牙が覗いていた。人間の歯は、普通こうはならない。
「…吸血鬼?」
オレが言うと、センパイはぴたりと動きを止めた。
「ヴァンパイアと呼んでくれ。その方がかっこいいからな」
唾液で濡れた人差し指を見る。紙で切ってできたはずの傷が、跡形もなく消えていた。
翌日。オレは学校の中庭で、ぴょんぴょん飛び跳ねている司センパイを見つけた。どうせまた虫でも出たのだろう。そっと忍び寄って、後ろから声をかけてやった。
「わっ!」
「ぎゃああっ!?」
胡瓜を見た猫のように、司センパイは跳ね上がる。
「な、何をするんだ彰人!驚かせるな!」
「いや、驚きすぎだろ。むしろオレの方が驚きましたよ」
「うぅ、そんなことを言ってる場合じゃ無い…!くくく、蜘蛛のやつが、オレの服に…!」
確かに、薄黄色のセンパイのカーディガンに、糸くずのような黒い塊がついているのがわかった。青褪めてガタガタ震えるセンパイを、これ以上虐めるのは流石に可哀想だ。手早く蜘蛛を追払って、声をかけた。
「はい。もう大丈夫ですよ」
「本当か…?」
薄目を開けて、センパイが自分の身体を確認する。蜘蛛がどこにもいないとわかると、ほっと息を吐いた。
「助かった…感謝するぞ、彰人!」
「センパイ、ヴァンパイアなのに蜘蛛苦手なんすね」
センパイの眉がぴくりと上がる。途端に表情が掻き消え、冷たい眼差しがオレの肌を貫いた。小さな蜘蛛で半泣きになっていたセンパイとは、まるで別人だ。
「ヴァンパイアにも人間と同じように、得手不得手があるんだ。それと彰人。わかっていると思うが、余計なことは言うなよ」
センパイはわざと歯を剥き出しにして、あの鋭い牙を見せつけてきた。人間の皮膚なんか、簡単に食い破れてしまいそうだ。血塗れの自分を想像し、少しだけ冷や汗をかいた。
「わかってますよ」
「それならいい」
一瞬のうちに、センパイの牙がなくなった。白昼夢を見ていたようだ。血を吸われた訳じゃないのに、なんだかクラクラしてしまった。
司センパイがヴァンパイアだとわかっても、特に生活が変化することはなかった。そもそも学年が違うから、会う機会も滅多にない。センパイを見かけたら、ちょっかいをかけたりかけなかったり。それが司センパイの望んでいた態度だったのだろう。ある日ふと、こんなことを言われた。
「お前、なかなか度胸があるな」
上から目線で少しむっとして、だがそんなものかと思い直した。ただの人間に言われるそれとはわけが違う。
「はぁ。アリガトウゴザイマス」
「なんだ。このオレが褒めたのだから、もっと調子に乗ってもいいんだぞ」
そう言う司センパイには、人間には持ち得ない威厳があった。思わず跪きたくなるような、大きな国の主のような威厳。ヴァンパイアを不死者の王と考える人もいるそうだから、その感覚は間違っていないのだろう。とにかく圧倒的な存在感で、司センパイはオレの前に君臨していた。だがセンパイのこんな姿を、本質を、この学校にいる人間は誰も知らない。
「センパイ、オレの血って、美味かったんですか?」
「どうしたんだ急に。美味かったぞ。今まで吸ったどの人間の血よりもな」
「ふぅん」
それを聞いたオレは、何故か心が満たされたような気がした。それで、ついこう言ってしまった。
「司センパイ、腹減ったら、オレの血飲んでも良いですよ」
センパイの目が瞬く。それから呆れたような顔をした。
「いらん。食料には困っていないんだ」
「でも、美味かったんだろ?」
「それはそうだが…」
そこで言葉を切って、司センパイは視線を彷徨わせた。やがて、困ったように眉を八の字にして言った。
「まぁ、そのうちな」
少しずつ、司センパイといる時間が増えた。懐かれた、とでも言えばいいのだろうか。気まぐれな野良猫と距離を詰めるように、司センパイはオレの日常に入り込んできた。悪い気はしなくて。いつの間にかオレは、司センパイに恋をしていた。種族の違いを前にしては、性別なんて些細な問題だ。オレを悩ませていたのは、気持ちを伝えることで、司センパイが離れてしまうんじゃないかということだった。それでも想いは日増しに募る。センパイが笑えば鼓動が早まり、指先が触れたら身体が熱くなった。心が乱れて、何も手につかない。いっそのこと伝えてしまえば楽になれるのだろうか。だけど、でも。
「辛い」
「何がだ?」
いつの間にか司センパイが隣にいて、肩が跳ね上がった。センパイは小首を傾げ、心配そうにオレを見ている。綺麗だと思って目を逸らすと、センパイはさらに下からオレの顔を覗き込んできた。あまりの近さに、反射的に後ずさる。
「何か悩みでもあるのか?」
「…いや」
「聞かせてみろ。話せば楽になるかもしれんぞ」
オレはもう限界だった。
「好きな人がいます」
「ほう」
「すげぇ好きで、好きすぎて、辛い」
「…そうなのか」
その声が妙に弱々しく聞こえてセンパイに目を向け、そうしてオレは驚いた。白い顔が、さらに青白くなっている。気づいているのかいないのか。センパイの表情は変わらない。いつものように歳上ぶって、司センパイは言った。
「告白する気はないのか?」
赤い唇に目を奪われる。気がつくとオレはセンパイの身体を引き寄せ、強引にキスをしていた。
「…好きです、司センパイ」
センパイはぽかんとしている。
「大好き」
駄目押しするように言うと、大きな瞳から涙が溢れた。
司センパイと恋人になった。最初は自分の正体を気にかけていた司センパイも、繰り返しキスをしているうちに真っ赤になって頷いた。ヴァンパイアといえども、恋の前では無力らしい。
ある日、いつも通り歌の練習を終えたオレは、司センパイと会うために通りを急いでいた。もうすっかり日は落ちて、肌寒いから余計に早く会いたいと思う。ふと、足音が聞こえて顔を上げた。目の前に1人の男が立っている。暗くて顔はよく見えない。その横を通り過ぎようとした瞬間、物凄い力で腕を掴まれた。
「いっ…!」
文句を言おうと顔を上げる。街灯に男の顔が照らされた。年頃はオレより少し上くらいだろうに、皺が深く傷のように走っている。恐ろしい形相で睨みつけられて身体が固まった。そのまま強い力で路地裏に連れ込まれる。オレだってそれなりに抵抗しているはずなのに男はびくともしない。まずい。本能が警鐘を鳴らしている。心臓が異常な速さで音を立てる。あっという間に硬いコンクリートに引き倒され、衝撃で頭が揺れた。下から無表情の男を見上げ、オレはようやく気がついた。
「お前、この前のイベントで、オレに負けたやつか」
無言のまま、男はオレを蹴りつける。
「はっ、やっぱりな」
もう一度蹴りつけられる。シンプルに痛い。
「この化け物め…!」
地を這うような低い声で男が言ったその時だった。よく聞き慣れた高笑いが響き渡ったのは。
「彰人が化け物だって?」
遅くなったオレを、心配して探しに来たのだろうか。不敵な笑みを浮かべた司センパイが、素早く男に踊りかかった。
「お前に本当の化け物の恐ろしさを教えてやろう」
センパイの口がぱかりと開く。月明かりに白い牙が煌めいた次の瞬間、センパイは男の首筋に食らいついていた。
「ぅあっ」
男の身体が大きく震える。センパイが口を離さずにいると、やがて男の膝がくの字に折れて、地面に崩れ落ちた。
「立て」
血で濡れた唇を拭い、センパイが命じる。男は糸で釣られたような不自然な動きで立ち上がった。すっかり気の抜けた表情で、ぼんやりと司センパイを見つめている。
「もう二度と、彰人の前に姿を見せるな。わかったら行け」
男はすぐに、元来た道を走って去っていった。風がびゅうと吹いて、木の葉がかさりと地面に落ちた。
「彰人、怪我をしたのは何処だ?」
司センパイがオレの前に屈み、擦りむいた手を取りぺろりと舐めた。
「まったく、人間というのは愚かだなぁ」
日が上り、またいつもの昼が来た。図書室はしんとしていて、その分外の音がよく聞こえる。
「あった」
オレが一生手にしないような本が詰まった棚の、奥の奥。そこに目当ての本はあった。『ヴァンパイアになる方法』。そんな捻りのないタイトルがあるかよ、と思ったが、見つけやすくて助かった。分厚いそれを手に取り、表紙をじっと見つめる。随分と古くて、埃っぽい。
「何を見てるんだ」
「っ冬弥」
さっと本を隠したが、すでに手遅れだったらしい。冬弥は眉を顰めた。
「ヴァンパイアになりたいのか?」
なんと答えるべきか、オレは迷った。黙り込むオレに冬弥が言う。
「司先輩か」
「知ってたのか」
「あぁ」
冬弥は司センパイの昔馴染みだ。なんとなく知っている気はしていた。
「お前もそうなのか?」
「いいや。俺は違う」
首を振る冬弥に、それは少し意外な感じがした。
「その本はやめておけ。偽物だ」
オレは大人しく、元の場所に本を戻す。
「…本物って置いてないのか?」
「…うちの書斎になら、もしかしたら」
「今日の放課後、行ってもいいか」
少し悩んだ後で、冬弥は小さく頷いた。
「俺はダンピールなんだ」
書斎の電気をつけて、冬弥はそう言った。
「ダンピー…?」
「ダンピール。人間と吸血鬼の混血だ」
「へぇ」
ヴァンパイアを知った後だからか、特段驚きはなきった。そういうのもいるだろうなぁ、くらいの感情だ。書斎には図書室と同じくらいたくさんの本が並んでいた。違うのはきちんと手入れされていることだ。
「お前ここ、勝手に入っていいのか?」
「平気だ。父さんの部屋は別にあるしな」
「ならいいけどよ」
ずらりと並んだ背表紙は、ごく普通の本ばかりのように見えた。小説やクラシックの専門書はあっても、ヴァンパイアになる方法について書かれた本は見当たらない。
「すまない彰人。俺も普段は読まない本だから、どこにあるのか忘れてしまった。手分けして探そう」
「わかった」
二手に分かれ目当ての本を探す。オレは必死に洋書じゃないことを祈った。
捜索開始から15分ほど経った頃だった。
「何をしている」
低い声が響き、思わず肩が震えた。書斎の入り口のところに、冬弥の父親が立っている。
「ヴァンパイアになる方法を書いた本を探しています」
父親の眉が上がり、視線がオレに向いた。
「まるで天馬のようなことを言うんだな」
「天馬?」
天馬と言えば、オレにとっては司センパイのことだ。しかし冬弥の父親にとっては、司センパイの父親か母親のことだろう。とにかく、センパイに関わりのある人物には違いない。
「司先輩のご両親も、元は人間だったということですか」
「あぁ。父親の方がそうだった」
それを聞いて希望が見えた。人間はヴァンパイアになれるとわかり、しかもその成功例が、割と身近にある。
「その方法、教えて貰えませんか」
「やめておけ。気が狂うぞ」
そう言う父親の眼差しには、憐れみの色が浮かんでいた。
「…司先輩のお父さんは、そんな風には見えませんが」
「あれは元々おかしかったからだ。とにかく馬鹿なことはするな。人間に生まれついたのであれば、それがお前の運命だ。無理に捻じ曲げれば不幸になる」
善良な大人の、経験に基づいた優しさ。オレには受け入れることができなかった。
「それでもオレは、司センパイと一緒にいたい。オレ達は男同士で、子供ができないんだ。オレが死んだ時、オレには残せるものが何もない。センパイを1人で残して逝くのは嫌だ」
司センパイは強い。それは十分知っている。だけど、オレが好きだと言ったら涙を流したんだ。冬弥の父親は、静かにオレを見下ろした。怯むことなく見つめ返すと、やがて呆れたようにため息をつく。
「彼は、君の考えを知っているのか」
「…」
「まずはよく話し合うことだな」
その時、冬弥の父親の背中から、ひょっこりと司センパイが顔を出した。ぽかんと口を開けるオレに、司センパイは平然と言った。
「冬弥に呼ばれた」
「すまない、呼んだ」
「…いや、むしろ助かった」
司センパイがオレの前に立つ。冬弥と冬弥の父親は、静かに部屋を出て行った。
「お前、本気なのか」
司センパイの声は震えていた。戸惑っているのかもしれない。
「はい」
「…そうか」
次の瞬間、身体がぐらりと揺れた。司センパイに抱きしめられたのだ。慌てて足に力を入れて、センパイの重みを受け止める。
「付き合い始めて、まだ1ヶ月にもならないのに?」
「はい」
「家族がお前を受け入れるとも限らないのに?」
「…はい」
「…馬鹿」
センパイの両手が、オレの顔を挟み込む。すぐに唇に柔らかい感触があった。間近にある司センパイの顔が涙で濡れて光っている。
「泣かないでくださいよ」
「すまない…嬉しくて」
そう言って、司センパイはふにゃりと笑う。
「人生…いや、ヴァンパイア生…?とにかく生きている間に、お前みたいな相手に出会えるなんて思っていなかったんだ。オレは今、宇宙で1番幸せだ」
「んな大袈裟な」
そう言いながらオレは、司センパイを抱く腕に、ぎゅっと力を込めていた。嬉しい、幸せだと言って泣く司センパイが、とにかく愛しくてたまらない。
「司センパイは、ヴァンパイアになる方法を知ってるんですか?」
「あぁ。なんなら、今すぐ変えることもできる」
「マジすか」
センパイはこくりと頷いた。
「だがその前に、1つだけお願いがある」
「お願い?」
「お前の血を吸わせて貰えないだろうか。ヴァンパイアは同族の血を吸えないんだ。お前の血はとても美味かったから、最後に一度だけ味わっておきたい」
何故か恥ずかしそうな司センパイが可愛すぎて、思わず笑ってしまった。
「なんだ、そんなことか」
ブレザーとパーカーを脱ぎ、ネクタイを緩めてシャツのボタンを数個外す。センパイの喉がごくりと鳴った。
「はい、どうぞ」
「…いただきます」
がぶり。首筋に食いつかれた。勢いの割に痛みはない。こんなものかと思っていると、身体が熱くなって、かと思えば冷たくなって、段々気が遠くなってきた。
「つか、さ…」
「…愛してるぞ、彰人」
「ん…」
「起きたか」
目を覚ますとオレは、冬弥の部屋のベッドに横たわっていた。
「…なんで」
「覚えていないのか?次の小テストの勉強をしていて、力尽きて寝てしまったんだ」
「…そうだっけ」
寝起きのせいか、頭がうまく働かない。寝る前のことを思いだそうとすると、頭の中に霧がかかった。
「きっと疲れていたんだろう。今日はもう帰った方がいい」
「悪い、そうする」
荷物を持って玄関に向かう。オレのスニーカーと同じくらいの大きさのローファーが並んで置いてあったのが、やけに頭に残った。