ナイトウォーク 前編「クラフトコーラ? って、なに?」
おかえりの抱擁のために両腕を広げていた七海は、おあずけを喰らった犬のようにその場で停止した。ただいまのあとは抱擁、というのは二人で暮らしはじめてからずっと暗黙の了解であったし、悠仁が日中バイトに出ているあいだはひとりで家に籠っている七海にとって大切な儀式のひとつだ。
「ハグは?」
「あ、ごめん」
促されて腕を広げた悠仁を、七海はいつもより強い力で抱きしめる。「え? 力強くない?」戸惑っている悠仁の声はきかなかったことにする。私は悪くないので。胸の内だけで言い訳をして、ぎゅうぎゅうと悠仁を締めつけた後、七海は悠仁の若くつるんとした額にくちづけた。
外から帰ってきたばかりだというのに、悠仁の身体はポカポカとあたたかい。逆に家のなかに籠っていた七海の方が冷えているくらいで、「わっ、冷たっ」と悠仁が七海の両手を包む。
「なんでこんな冷えてんの?」
「洗い物をしたからですかね」
「寒いんだからお湯使えよ!」
赤くなった七海の手に、悠仁が必死に息を吹きかけてあたためてくれる。七海としては悠仁の両手が熱いのでもうそれだけで充分あたたかいのだが、せっかくなので黙っておくことにした。
「それで、クラフトコーラがどうしました?」
悠仁不足を解消してすっかり満足した七海が話を本題にもどすと、今の今まですっかり忘れていたらしい悠仁がハッとして、右手に提げた紙袋を目の前にかざす。七海が受けとって中を覗くと、小さな瓶が入っている。
「お客さんからもらった」
茶色い液体で満たされた小瓶には、悠仁が口にしたクラフトコーラの名称が記してあった。まただ。悠仁は以前も、バイト先の常連客からナーベーラーンブシー(ヘチマの味噌煮)とアーサ汁を鍋のまま貰ってきていた。悠仁は近所のタコライス屋でアルバイトをしていて、本来ならば料理を提供する側であるのに、その愛嬌のためか客・スタッフ問わず、よく食べ物を貰ってくる。沖縄には県外の人間どころか外国人も多く住んでいるのだから、今さら東京から来た青年がもの珍しいわけでもなかろうに、悠仁は周囲からそれはもう可愛がられていた。理由なんて言わずもがな。
「でもなんかよくわかんなくて。炭酸水と混ぜたらコーラになるってこと?」
「まあ、そういうことじゃないですかね」
原材料が記された裏面を目でなぞるとなるほど、沖縄県産の黒糖やシークヮーサーや島とうがらしを使用しているらしい。他にもいろんなスパイスの名前がたくさん記されていて、なかなかに味が想像しがたい。
「夕食の後にでも飲んでみますか」
「ね! でも炭酸水ないから、俺買ってくるよ」
「ごはんが先です」
悠仁のために用意した鍋が、もう出来上がる。
沖縄といえど、夜はさすがに冷える。いくら気温が下がっても、精々13〜15℃、どんなに寒くても11℃は保っているとはいえ、東京と違って沖縄には風がある。台風かと疑うほど強く冷たい風が吹きつけるので、気温と体感温度が乖離しているのだ。外から帰ってきた悠仁がすぐにあたたかいものを食べられるよう準備してやりたい、と七海は考え、実際に実行していた。
「じゃ、食べた後に行く」
七海がうなずき、すぐに夕食となった。今夜は水炊きだ。家庭用の土鍋は、今や二人にとって幸せの象徴となっていた。
*
「えっ、一緒に行くの?」
夕食を終えてシャワーを済ませた後、宣言どおり買い物に行こうと靴を履いてドアを開けると、見送りにきたのかと思われた七海がアウターを羽織って靴を履きはじめたので、いってきますと言いかけていた悠仁は驚いた。
「いけませんか」
「そうじゃないけど、寒いよ? 大丈夫?」
「老人扱いしないでください」
「そんなふうには思ってないけどさ」
少しドアを開けただけで風が逃げ場を探すように入り込んでくるので、悠仁は寒さに弱い七海が心配だった。悠仁はいつものパーカーの上にジャケットを羽織っているので平気だが、さらにあたたかく着込んでいるはずの七海は、すでに肩を縮こませている。「無理しないで」と悠仁が七海の腕をコート越しにさすると、「君の手を借りるから大丈夫です」と七海は悠仁の左手をとり、そのまま自身のコートのポケットへ自分の右手もろとも突っ込んだ。
「いや、ナナミンの手でてんじゃん」
見るからに質の良さそうなコートのポケットに、成人男性二人分の手は収まりきらず、悠仁の手を奥へと押し込んだ七海の手は、ポケットからあふれていた。
「こっちの方がいいよ」悠仁は七海に握り込まれたままの手をコートのポケットから抜き、そのまま自身のジャケットのポケットへ導く。ただ悠仁のジャケットの方がポケットが大きいから、という理由でそうしただけだが、「君は漢前ですね」とこれだけのことで感心したように呟く七海に、悠仁はまだこども扱いされている、とムッとした。悠仁だってもう成人しているのに、こういった取るに足らない些細な振る舞いにさえ、七海は毎回新鮮な顔で驚いている。
「こんくらい、別に普通っしょ」
「普通なんですか」
「ん」
恋人なら、家族なら、そうだろう。そう思いはするものの、家族なら、に関しては、悠仁にも自信がなかった。悠仁には血の繋がった家族がいない。ずっと児童養護施設が悠仁の家であり、施設の職員と、悠仁と同じく措置されたこどもたちが、悠仁にとっての家族だった。大人もこどもも人が何度も入れ替わり、どれだけ上手くやっていても、十八になればもう帰ることのできない家。それでも、悠仁にはここしかなかった。七海と出会うまで。
「私以外の人と、こういうことはしないで」
ぎゅっ、と一層強く手を握られる。七海が珍しく見せた独占欲に、悠仁は笑った。うれしかった。七海は悠仁を悠仁として見てくれている。措置児童でも生徒でも患者でもなく、肩書きも何もない、『虎杖悠仁』を愛してくれている。
「ナナミンとしか、しないよ」
それは悠仁がいちばん求めていたものだった。
(前編おわり)