ナイトウォーク 後編 炭酸水を買いに行く悠仁について行った七海ははじめ、悠仁は少し歩いた先にあるコンビニに行くものだと思っていた。しかし目的地と思い込んでいたコンビニを悠仁が完全にスルーしたので、「どこへ行くんですか?」と今さらながら行く先を確認する。
「サンエーだけど?」
悠仁はコンビニを通り越して少し歩いた先のローカルスーパーを指差した。沖縄県内ではショッピングモールや飲食店をいくつも運営するかなり大きな会社で、食品館なら県内の至るところで見かけるほど店舗の多い有名なスーパーだ。
「炭酸水を買うだけなら、コンビニでいいんじゃないですか」
「だってスーパーのが安いじゃん」
たしかに悠仁のいうとおりだ。しかし七海は知っている。サンエーは、寒い。空調がおそろしいほど低く設定されているので、店内を少し歩くだけで身体が冷えてしょうがない。ただでさえ風が吹きすさぶ夜道を歩いているのに、まるで冷蔵庫のように冷たい店内を想像して、七海は身震いした。もしや悠仁が外出前にいっていた「寒いよ」にはこれも含まれていたのだろうか。それならそうといってほしかったが、七海は七海で行き先を聞かなかったので、どちらか一方が悪いという話でもない。七海はせめて悠仁の手から伝わる熱を逃がさないよう、繋いだ手を隙間なくくっつけた。サンエーに入店してからがほんとうの勝負だ。
案の定冬でも変わらないサンエー店内の寒さを親の仇のように恨みながら炭酸水のペットボトルを大きな手で軽々と掴んだ七海は、「おっ、ピーマン安い」と暢気に店内を見て回ろうとする悠仁の左手を握り、「ピーマンは家にまだあるので帰りますよ」と急ぎ足でレジへと向かった。悠仁の左手を握る七海の右手が、悠仁とほんの少し離れていたあいだにすっかり冷え切ってしまっているので、悠仁は何もいえなかった。夜なのでレジも空いていて、あっというまに買い物終了だ。あとは来た道をもどるだけである。
炭酸水だけ入ったエコバッグは悠仁が右手に持ち、左手は行きと同様に七海の右手を握ってジャケットのポケットへしまい込んだ。相変わらず悠仁は寒くも何ともないのだが、七海の右手がかわいそうなくらいキンキンなので、少しでも熱を与えられないかとポケットの中で握ったりさすったりを繰り返した。
風は強いが、月や星がきれいな夜だった。藍色の、美しい夜。夜をともに過ごす相手がいるというだけで、世界はこんなにも満たされる。目に映るすべてのものに意味があるように思えてくる。たとえどんなに寒くても、七海が同じ気持ちを抱いていることを、悠仁は知っていた。それをお互いに承知しているということ自体、幸せなことだった。
*
帰宅して早々に七海のために電気ストーブをつけた悠仁は、悠仁のジャケットと自身のコートをハンガーラックにかけていた七海の手を引き、ストーブの前まで誘導した。
「寒いでしょ。なんかあったかいの飲む?」
「大丈夫です」と即答する七海は、そのままぎゅうっと悠仁を抱きしめた。「君にあたためてもらうので」
ふはっ、と笑った悠仁が、ソファの上に畳まれたブランケットに手をのばして、七海の大きな背中を包むように巻き込み、その上から七海と同じようにぎゅう、と抱きしめた。
しばらくそうしていたのちに、「あっ」と思い至って、「なんです?」と訝しむ七海に提案する。
「服ん中に手入れた方があったかいよ!」
ピシ、と固まった七海に気づかない悠仁は、悠仁の背中に回された七海の手を裾から招き入れる。七海の背中にかけていたブランケットは落ちてしまったが、それはあとでもいいだろう。悠仁の脇腹や背中に、七海の冷たい手が触れる。ストーブにあたって暑い悠仁としてはちょうどよかったのだが、七海がいつまで経っても動かないのを不審に思い顔を見上げると、恋人は明らかに動揺していた。
「ナナミン?」
「……こんなこと、よそではしてないですよね?」
「してないよ」
あからさまに安堵のため息をついた七海にムッとすると同時に、俺って信用ないのかなあと悠仁は少しだけ悲しい気持ちになる。
「……こんなん、他の人にするわけないじゃん」
ナナミンだからしたのに、言外にそう訴えると、ようやく動き出した七海が悠仁の素肌を抱きしめる。
「君を疑っているわけじゃないです。ただ君は、他者との距離が近いですし、人から好かれる性質だから心配で……」
七海の胸に顔を埋めたまま黙っている悠仁に、七海は胸の内で舌打ちをした。
「……すみません、これでは君を責めているみたいだ。……君はとても魅力的です。みんなが私のように君を好きになってしまう。それが、こわいんです。変な言い方をしてしまって、ごめんなさい」
「……ナナミンは、俺とのことが不安?」
「不安じゃないといえば、嘘になります」
でも、とつづけた七海に、ようやく悠仁が顔をあげる。きいたのは悠仁の方なのに、悠仁の大きな目が不安に揺れていたので、七海はひどく安心した。片方の一方的な思いは関係性を崩してしまうことを、悠仁よりいくつも歳を重ねた七海はよく知っている。
「君のいない人生など、考えられない」
大きく見開かれた瞳に映る自分の姿は、それはもうみっともない大人でしかなかったが、それでも自分をみつめる悠仁の瞳が夜空のようにきらきらと輝くので、いくら無様でも、情けなくとも、この子のために言葉を尽くすべきだと、七海は思った。
すっかり身体があたたまった二人(そもそもとして悠仁は冷えていなかったが)はさっそくグラスにクラフトコーラをほんの少しだけ注ぎ、今しがた買ったばかりの炭酸水と混ぜ合わせる。小瓶の裏の記載のとおり、炭酸水をだいたい3〜4倍で注ぐと、ねっとりとしたコーラシロップが薄まり、シュワシュワと弾けた。
「おおっ」
だいぶコーラらしくなってきて、悠仁が感嘆の声をあげるのを、七海は微笑ましくみつめた。コーラひとつでこんなにも楽しそうなこの子をいつまでもみつめていたいと心の底から願っていると、悠仁がグラスを一気に呷った。
「どうですか」
たずねた七海に、悠仁はいまいち冴えない顔をしている。
「う〜ん……」
思っていたのと違う、という表情の悠仁に、七海は思わず噴き出した。
「私にも味見させてください」
ん、と差し出されたグラスをふた口ほど舐めた七海は、「なるほど」とつぶやいてグラスを悠仁に返す。
「薬みたいな味しねぇ?」
がっかりした顔の悠仁に、「カルダモンが強すぎるんですね」と七海も感想を述べる。
「ナナミンは何でもわかるんだね」
「ただの年の功です。……少し待っててください」
そういって湯を沸かしはじめた七海は、戸棚に何種類かしまってある紅茶のうち、いちばんスタンダードな味のティーパックのパッケージを開けた。スーパーやコンビニなんかで買える、この家にある紅茶のなかでいちばん安いものだ。ほんとうはルピシアの茶葉を使いたいところだが、生憎今はマスカットと虎視眈眈と白桃煎茶と抹茶黒豆玄米茶しかなく、この場に適さない。せめてアッサムかオレンジポマンダーがあればな、と七海は思いを馳せたが、ないものはない。それでもまあそれなりに美味しくつくれる自信のある七海は、沸騰した湯にティーパックを放り込み、しっかり浸出させてから取りだすと、今度は牛乳を注ぐ。
「何つくってんの?」
「コーラとは全然違いますが、美味しいですよ」
大きめのマグカップを二つ持ってくるよう悠仁に頼んだ七海は、牛乳が沸騰する直前でコンロの火をとめた。それぞれのカップにミルクティーを注ぐと、クラフトコーラの小瓶を傾ける。
「コーラ入れんの?!」
「きっと美味しくなりますから」
どうぞ、と悠仁にマグカップを一つ手渡すと、「熱いので気をつけて」と添えてソファまで一緒に移動する。
さっき飲んだコーラですっかりクラフトビールへの信用がない悠仁は疑うような目でマグカップと七海を交互にみつめる。そのあいだにマグカップに口をつけた七海が、「……うん、悪くない」とつぶやき、「君も、どうぞ」ともう一度悠仁にすすめる。
「……いただきます」悠仁がおそるおそるカップに口をつけひと口飲み込むと、すぐさま驚きに目を瞠る。
「ナナミン、これ……!」
「チャイの味がするでしょう?」
「うん! え、なんで? すげー!」と途端に賑やかになる悠仁が可愛くて、七海はあまり動かない自覚のある表情筋が自然と緩むのを感じた。
「スパイスが強かったので、ミルクティーに混ぜたらチャイみたいになるんじゃないかと。元々甘いですから砂糖を入れる手間も省けますし」
「すげー美味いよ!」
「それはよかった」
すげーすげーと感動する悠仁に、この子の役に立つのなら、無駄だと思っていた悠仁に出会う前の時間も、そう悪いものではなかったのだと七海は気づき、そう思い至らせた悠仁の存在が、さらにこれからの七海という人間をかたちづくっていくのだという確信めいた幸福を、七海はひとり噛みしめていた。スパイスの香る、寒い夜のことだった。