余裕のある大人「朝比奈先生。」
夏の暑い化学準備室の扉を開け先生の名前を呼ぶ。そうするとパソコンに向けられていた視線がこちらを向く。
「どうした?なにか用か?」
「いや、対した用事はないんですけど、ただ会いたくて来ちゃいました!」
そう言って設置されているソファーに腰掛けると軽い溜息が聞こえた。だって本当に会いたかったのだから仕方ないだろう。
「……夏休み入ったっていうのにお前はよく律儀に登校してくるねぇ。嫌じゃないの?」
若干の呆れが混じった表情で俺を見つめる。そりゃそうか平日はほぼ毎日 朝比奈先生に顔を見せているし、化学の補習がある訳でも無い。
「いやなワケないじゃないですか!」
「でもお前…家帰っても俺と顔合わせるじゃねーか。」
「家での貴方と学校での貴方は違いますよ?」
…今更だが俺 相田智紀(あいだ とものり)は化学教師の朝比奈 新(あさひな あらた)先生と付き合っている。
付き合っているということはもちろん誰にも言ってない。男と ましてや先生と付き合っていることがバレたら大変なことになるだろう。
朝比奈先生の机は相変わらず何かの資料や教科書が乱雑に置かれている。温度や日付を写すデジタル時計には8月8日 11:36 28℃と表示されている。
化学準備室にはクーラーが設置されているが窓が空いているだけでクーラーなどつけていない。外からは五月蝿いぐらい元気な蝉の鳴き声が聞こえてくる。
じわりと汗が滲んできた。
朝比奈先生は暑いのかワイシャツの第2ボタンまで開けている。…何故クーラーを付けない?
ソファーに座りそんなことを考えながら辺りを眺めていると先生はパソコンにまた視線を戻し仕事を始めていた。
キーボードの音と蝉の声しか聞こえないこの空間は何故か凄く居心地の良いような気がした。
…暑いけど。
「………俺がここにくる理由…。」
「…………ん?」
「俺が、この化学準備室にくる理由は会いたいからってだけじゃないです」
「…そうなの?」
キーボードを打つ手を止め俺のほうに体を向ける。次の一言が言い出せずに無言で俯いていると朝比奈先生は俺の方に近付いてきて目線を合わせてくれた
「どした?」
「……あの広い家に1人とか……寂しいんですよ…。」
段々と恥ずかしくなって語尾が小さくなる。
体育座りになり顔を隠す。
「……………ぷ、…はっ、ははっはっ!」
「んな、わ、笑うことじゃなくないですか!?」
「ははははっ…ひぃー…いや、だって……」
「いつも俺の事馬鹿にしますよね…なんなんですかほんと…。」
「いやいや…案外可愛いとこあるねぇ…。」
笑って涙目になりながら俺の頭をポンポンと叩く。
「そうかー寂しいかぁ……じゃあいつでもここにおいで。歓迎するよ」
いつもの気だるそうな顔じゃなくて柔らかく微笑みながら言う。
「………言われなくても……そうしますっ!」
恥ずかしくなってソファーから立ち上がるときょとんとした表情で俺を見つめる
「あれ、もう帰るの?あと少しで仕事終わるし今日はもう何も無いから一緒に帰れるよ?」
「……っ……ま、まだ帰りません…待ちます…っ」
大人しくソファーに座るといい子だな。と頭を撫でられた。
ほんと、ずるいなこの人は。