いつかの話。【1】 一年の何度か、師はエンバーグロウに赴き大聖堂に向かう。その間ヨルンは大聖堂の神官や聖火騎士に預けられ、広間で師匠を待ちながら神官さまの話を聞いたり見様見真似で祈ったりしたりと他の子どもたちと同じように過ごす遊びに勤しむ。そうして時間を潰していると師匠が迎えに来て、また盗餓人狩りの仕事へと戻っていく。
ヨルンが遊んでいる間に師匠が教会から金を受け取り、仕事の情報を仕入れていたことを知ったのは師匠に拾われて年が二回りほどしたあるく日のことだった。
具体的な仕事を教わり始めた頃のことだ。盗餓人狩りにも支援者がおり、その支援者は聖火教会であること。枢機卿団と呼ばれる教会の実務を担う者たちから仲介人を通し依頼を受け、仕事場に向かう。その報酬として金銭や物資を受け取り、また仕事を受ける。盗餓人狩りの罪を背負うのは、人々を導く聖火を守るためでもあるのだと師匠は語った。そして師匠が行う冥銭に扱う金銭は教会から受け取った金を使っているのだという。私たちは金のために盗餓人を狩るのではなく、盗餓人のためにそして人々のために金を稼ぐのだと。ヨルンの髪を撫でながらそう言っていたのを覚えている。
当時のヨルンは”そういうものなのか”と特に疑問に思わなかった。冷静に考えれば聖火教会は盗餓人狩りという汚れ仕事を押し付けて、自分たちだけは潔白なのだと言い張っているようなものだが。かといって教会がどうこうしようがヨルンにとってはどうだっていいことだった、盗餓人を狩り、顔も知らぬ誰かの命を守る。ヨルンが知る”祈り”は、たったそれだけだった。
あれやこれやを知ったころ、今回も師匠が報告に向かった。幼いヨルンは今までと同じように広間で神官さまの話を聞いたり、ボケて勝手に人を孫だと勘違いした優しいおばあさんの相手をしたりしていた。
そんなとき、ふと周りで遊んでいた子どもの内の一人が転んだ。ボール遊びをしていたらしく、そのままボールはころころ転がって通路のほうへ。その先は薄暗く、怖がった子どもはボールを取りに行けずに困っていた。
「取ってくるよ」
困って怖がった子どもが泣きそうだったので、当時の幼いヨルンはそのボールを取りに行くことにした。
「いいの? あの先、くらいよ……?」
「ん。あれくらいなら、見える」
「すごいや! じゃあおねがいっ、無くしたらボールを買ってくれたおじいちゃんが泣いちゃうから……」
困っている人がいたら声をかける、という単純な教えを実践しただけのことだった。ボールを追いかけて通路に向かうと、ころころそのままボールは階段の下へと落ちていくのが見えた。広間で待っていなさいと師匠に言われたのを思い出したが、ボールを取って戻るぐらいはできると思ったのでヨルンはそのまま階段を降りることにした。
するとそこで、ヨルンはボールとそれ以外のものを見つけた。
「……あら、かわいいお客さんだこと。これがさっき転がってきたけれど、あなたのものかしら」
懺悔室がある地下一階、ボールを抱えた女性はまるで話に聞く聖女のような銀色の髪をしていた。まるで夜の間に瞬く流れ星のようで、きらきらしていたのを随分と印象的に覚えている。
「違う。……他の子のです。俺は、代わりに取りに来ただけ」
「そっか」
女性はボールをヨルンに手渡すと、「優しいのね」と言った。ヨルンは首を傾げた、それを言われた意味がよく分からなかったのだ。
「君、お名前は?」
「……ヨルン」
「素直な子。あまり知らない大人に名前を教えてはいけませんよ、悪い人に利用されてしまうことだってあるのだから」
「あなたは、悪い人なんですか?」
「どうかしらね。君にはどう見える?」
「……、分かりません。知らないので」
「ふふ……っ、君、面白い子ね」
いたずらでもされているような扱いにヨルンは戸惑ったが、すぐに立ち去るという気も中々起きなくてさらに戸惑った。同じ髪の色をしていたからだろうか、それとも目の引く何かがあったのだろうか。どうにせよヨルンはその人から目を離せなかった。
「綺麗な目」
女性はヨルンの頬を撫でるとそう呟く。女性がヨルンを見るその目は、師匠がヨルンに向ける目ととても良く似ていた。──憐憫と同情に満ちた、それでいて愛おしいものを見る、そういう目だった。
「私はフィナ、この奥の部屋で懺悔を聞く仕事をしているの」
「ざんげ……とは、なんですか?」
「君にはあまり必要のないものでしょうね」
「そうですか」
──それが、フィナとの出会いだった。
懺悔室の主、これから時折出会ってはどうでもいい話を交わすことになる不思議な女の子。ヨルンにとっては唯一といってもいい、聖火教会に属する友人だった。
「長居させちゃった、そろそろ戻ってあげて。きっと待っているわ」
「ん。……さようなら」
「えぇ、さようなら。また今度ね」
フィナに促されて幼き日のヨルンはボールを抱えて階段を上る。ふと「また今度?」と振り返ったが、そこにはもうフィナの姿はなかった。
彼女との”また今度”が師匠を亡くし正式に仕事を引き継ぐことになる何年も後のことになることとは、当時のヨルンには想像もつかないことだった。
■
フィナがヨルンの名を明確に覚えたのは、彼が初めてエンバーグロウの懺悔室を訪れた時のことだった。
詳しいことは知らないが、彼のお師匠さまが亡くなったのだという。そして正式に盗餓人狩りの仕事を引き継ぐことになったのだろう、聖火の代わりに罪を背負うという可哀そうな役目を引き受けた彼の姿はひどく痛々しく憐れにみえたものだ。
懺悔室に来たからには不安があるのだろう、フィナは彼が言葉を口にすることを待ったが、彼は一向に何も話さない。フィナは怪訝に思ったが、すぐに納得した。……彼は懺悔の仕方も知らなかったのだ。時間だけを消費して彼が懺悔室から出ていくと、フィナは思わず席を立っていた。
「懺悔の仕方も知らないのね、あなた」
彼の前に姿をさらした。永遠の時を生きるセラフィナの肉体は老いることがない、なので人前に立つことは避けていた。しかし、その日はどうしてか気まぐれが勝ったのだ。……そもそもヨルンがフィナのことを覚えているとは思わなかった、ともいうのだが。
しかし当てが外れた。
「……フィナ?」
彼はフィナを覚えていたのだ。何年も前のことだというのに、名前までしっかりと。どうして覚えているかは分からないが、印象的深かったのかもしれないと彼は言う。
「久しぶりね、ヨルン」
「あぁ。久しぶり、フィナ」
少しばかり話をした。仕事のことやこれから向かう職場のこと、たいしたことではなかったしフィナの目的にはあまり役に立たない話だったが、獣どものどうでもいい話に比べれば遥かに気楽なものだったことを覚えている。
……フィナは時折ヨルンと会うようになった。彼がエンバーグロウに訪れるのは年に何回か、忘れた頃に見かけたら話す程度のものだ。
「君は何も言わないのね」
そうしてふと気がついた。
「どういう意味だ?」
「私の姿のこと、気がついていないわけではないでしょう」
彼はどうだっていい話はするが、フィナに関することは聞かなかったのだ。
「……いや、妙だなとは思うが。…………」
「言って」
「…………女性にそういうことを聞くと、天罰が降るのだろう?」
困ったような恐る恐るといったような顔で言われたそんな台詞に、フィナは思わず笑い出すのを堪えられなかった。
全くいいお師匠さまだ、懺悔の仕方は教えなかった癖に女の子の扱いだけは一丁前に叩き込んでいるとは。
「……! ふふ、それもそうね……っ」
「おかしなことだったか……?」
「ふははっごめんなさいね、違うのよ。なんだか身構えた私がおかしくって……あははっ」
笑ったなんて何十年ぶりのことだった。
だから、だったのだろうか。それからまた年月が立ったある日、セラフィナは復讐に生きる人生の中で唯一のミスを犯した。ミスというよりかは怠惰や怠慢、油断に近しいものだったろう。
どうしてそんな話を今更しようと思ったのか、フィナ自身にもよく分からない。
「昔話をしてあげる」
たまたま彼と会ったその日が、祖父の亡くなった命日だったからだろうか。……多分、そのせいだ。
「頼んでいない」
「じゃあ勝手にします」
「はぁ……、」
その日フィナは、“セラフィナ”は祖父との思い出を語った。かつてあった幸せだった日々、突如失われた愛しい日々。理不尽に奪われた昔日のために、復讐のために生きてきたことを。
「全部成し遂げたら、私は叱られるでしょうね」
「だがお前はやるんだろう」
「止める?」
「いや、別に。好きにしたらいいんじゃないか」
“俺にはどうでもいい話だしな”と本当に興味がないようにため息をついたその薄情さは、憎悪の炎に焼かれるセラフィナにはどうにも冷ややかで心地がいい。
罪人が住まうエンバーグロウのさらにその日陰で、息を殺すようにセラフィナは祈る。
あぁ、全ての死を願う人間に裁きが降りますように。
「フィナの願いが叶ったら、俺も晴れて地獄行きだな」
「お師匠さまに会えるわね」
「怒られるだろうな……」
どうか全ての優しい人間に、祝福がありますように。