いつかの話。【2】 サザントスが原初の洞窟に追いついたころには、全てが終わっていた。物静かな祭壇からは炎は消え、選ばれし者の手にあったはずの採火燈はセラフィナの元にある。先行したはずの選ばれし者はセラフィナと対峙してはいるものの、彼女の計画を阻止することは叶わなかったようだ。
聖女の皮を被った邪悪は出遅れたサザントスをみやると、まるで憐れなものをみるかのような目でさざ波の様に嘲笑う。どういった意味を含んだものなのかサザントスには分からなかった。しかし、問いかけを叫ぶ暇もなくセラフィナは黒呪炎に包まれて消える。
サザントスは選ばれし者へ……ヨルンへ視線をやる、”何をしていたのか”と。”一体何があったのか”と。選ばれし者は普段通り気だるげに、今サザントスの姿に気が付いたかのように小さく首を傾げた。サザントスの問いの意味自体を理解していないように、わざとらしく。
──疑念はあった。
黒幕の目的が採火燈にあると見たことで、聖火教会は急遽フレイムグレースの守りを固めることに決めた。それら諸々は敵をあぶりだすためでもあった、目的は分かっているが黒幕は用心深い。あちらから姿を現す舞台が必要だった。守りが突破されることも想定の範囲内ではあったが、サザントスにとって一つの計算違いがあった。採火燈が秘匿されている隠し部屋に、その採火燈がなかったのだ。
教皇は言う、選ばれし者がさらにもう一つの策を講じていたのだと。
敵の強襲に備える間に彼は言った、教皇と直接相談したいことがあると。聖火騎士団長の立ち合いの元、彼はその策を伝え……そして秘密裏に通したのだ。
『採火燈を、移動させた……?』
それは”黒幕の目的である採火燈を秘密裏に原初の洞窟に移す”といったものだと聞かされたサザントスは、ぞっとする気配に背筋が凍るのを感じた。それは黒幕の計画の足止めという目的ではなく、むしろその逆だとすぐさま理解してしまったからだ。だが同時に分からなくなった。どうして彼はそこまでのことを決断できたのか、教皇に直談判してまでそうする意図が理解できたとて受け入れられなかったのだ。
脈を打つ疑念が外に飛び出さぬようにサザントスは今一度彼を見る。あぁ、やはりおかしい。
「(戦闘痕がない……)」
セラフィナの正面に立っていたはずの彼は、ヨルンは剣を抜いていないのだ。敵意に対しすぐさまに反応し、悪意となれば迷わず剣を振るう彼がだ。サザントスの中には二つの予測があった、しかしこの目の前の状況はそれをありありと否定してくれるものである。
祭壇には争った形跡もなく、彼にも怪我一つ見当たらない。もし仮にヨルンがセラフィナを足止めするために一人先回りしていた、という目的で絶対にありえない光景だ。
つまり、彼は。自らの手でセラフィナに採火燈を差し出したのだ。足止めもせず、むしろ計画を推し進めるような行為を彼は実行した。秘密裏に採火燈を移動させたことも、聖火神の指輪を副団長に任せたった一人で原初の洞窟に先行していたことも、それで辻褄が合う。……合ってしまう。サザントスの頭の中の嫌な予感が空回りしカラカラと嫌な音を立てる。
真に裏切っているのは、誰だ?
「選ばれし者よ、貴様は……」
「フラれたよ」
「──何?」
意を決しサザントスは疑念を口にしようとしたところで、ヨルンはずいぶん間が悪く答えると肩をすくめては自嘲するような笑みを見せた。それは哀しんでいるようにも、この状況を愉しんでいるようにも思えるような、不可思議な表情だった。
「次の目的地はベルケインだ。急ごう、聖火長」
ことの全てを煙に巻いてヨルンはまた気だるそうに、どことなく重い足取りでサザントスの隣を通り過ぎる。その肩を掴んで問いただすこともできただろうに、サザントスはそうすることが出来なかった。
「……、」
すれ違った時に聞こえたひどく沈痛な吐息が、耳に張り付いてならない。
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時間を少し戻した原初の洞窟。目的を果たそうとし空振りを押し付けられたフィナ、あるいは復讐者セラフィナは呆れながらも祭壇の間に足を踏み入れる。
煌々と輝く聖火を忌々しく思いながらも、セラフィナはいたって冷静に歩みを止める。すると待ち合わせでもしていたかのように、或いは最初から待ち伏せでもしていたかのように聖火の影になる石柱の後ろから一人の青年が姿を現した。
「……ヨルン」
「遅かったな。寄り道でもしていたのか」
「えぇ、熱心な聖火長さまに口説かれてたの。いいでしょう」
「どうでもいい」
「お世辞でも興味を示すところよ、ここは」
ここにいるはずがない、選ばれし者であるヨルンは「そういうものか」と生返事をしてセラフィナを揶揄う。普段通りな様子にまたため息をつきながらもセラフィナはずっと彼の右手を見た、あるはずの気配がない。その代わり彼の手には採火燈が握られていた。
「指輪もなしに待つなんて、死にに来たのかしら」
舐められたものだと形だけの威嚇をしてみせれば、彼は「違うな。死ぬつもりもなければ、お前を止めるつもりもない」とあっさりした回答を見せる。
”犠牲者を増やしたくなかったんだ”と告げるヨルンの目は、すぐそばに聖火があってもなお黒々とした深紅の色をしていた。
「お前の目的は採火燈と聖火の種火だ。“だから”、先んじて採火燈の場所を移動させるよう教皇さまに頼んでおいた」
「……肝が冷えたわ。まさか代わりに置き手紙があるなんて」
“代わりに取っておいた、原初の火の元で待つ。”
そんな文言が書かれた置手紙を、セラフィナは拾い上げた瞬間に燃やした。手紙の主がヨルンであることも、彼が何を考えて採火燈を移動させたのかということも、この状況でふざけたことをしでかしてくれたことも含めて軽くいらっとしたからだった。
「義賊がよくやる手段だそうだ。ウィンゲート(ともだち)から教わった」
「また変なことを覚えて……」
真面目しか取り柄のない子が悪戯を覚えたら手に負えなくなるじゃないの、とセラフィナは目を細め微笑む。──これが最後だ。セラフィナは理解していた。セラフィナが、フィナが人間として友人と語らう時間はこれで最後になることを。
そして。
「フィナ、本当にいいんだな」
彼との穏やかな語らいも、ここまでだということも。
「……えぇ。私はセラフィナ、新たな神となってこの世界の罪悪を裁く者」
己の身を焼く炎は消えない。成すべきことを果たすまでこれはセラフィナの心を焼き、そして世界を焼き続けるだろう。戻り道はなくその果てに残るものもない。
復讐とは、走り続けることそのものだ。
その結果に意味はなく価値はない。ただ走り続けた時間と行動全てがかつてあった暖かな愛の証明になる。それでいいのだと、復讐者は現在と未来を捨てて昔日のため全てを焚べるのだ。
「──ずうっと前から、覚悟はできている」
私の全てを燃やして、私たちを潰した全てを焼こう。そのためならば私自身が何者になったってかまわない。いつか祈った神にも、そうして呪った神にもなろう。そうすることでしか私がこの身に受けた、そして愛しい家族が受けた残酷な仕打ちに釣り合わない。かの者たちは、あの獣たちはそれだけのことをしたのだから。私たちの世界が壊れるほどのことを、彼らはやったのだから。誰かの死を望む人間は裁かなければならない、誰かがやらなければならないのだ。
神様も、聖火も、決してそれを実行しようとはなさらなかった。
だから。
「そうか」
ふいに、ヨルンは採火燈をセラフィナに向けて投げ放った。
唐突のことでセラフィナは驚くも、なんとかそれを受け止める。空の採火燈は冷たく冷え切って、まるで普段の彼のようだとさえ錯覚してしまう。
「どういうつもり?」
セラフィナの問いにヨルンはすぐさま答えた。「簡単に言えば命乞いだ」と。
「お前は目的を果たすまで止まらない、このまま採火燈を防衛し続けたとしてもいつか根負けする。この戦いが続く限りこちらは出血を強いられる以上、フレイムグレースの住人たちも傷つき続ける。……俺たちはすでに負けている」
あぁやはりそうだ。思い描いた通りの動機にセラフィナは安堵する。彼が神の指輪をおいてきてまで、個人としてここまでのことを実行したその理由。意図的に採火燈を聖火教から離し、セラフィナの後押しを行うその行動の理由。
「……ここは、か弱く優しい者たちが集う地だ。誰かが助けてやらねば生きていけない」
彼は、ただ一人でも多くの人々を守りたかっただけなのだ。
「お前の言う……獣であったとしても、俺にとっては可愛げがあるものたちがいる。それを傷つけてほしくない」
”それで手打ちにならないか”と彼は人々の明日を乞う。随分と拙く幼い、小さな子どもがお菓子をせがむようなものだった。
何百年と気の遠くなる人生を生きてきたセラフィナにしてみれば戯言でしかない言葉である。だが、それでも。
「とんだ命乞いがあったものね、まったく」
幼い子どものお願いを聞かないほど、セラフィナも幼くはない。
仕方がない悪戯っ子に向けて「交渉するなら先に手渡すんじゃないの」と詰めの甘さを咎めれば、「……それもそうだな」と彼は目を逸らしては頬を掻く。彼もそれなりに無茶をやっている自覚はあったらしい。
「いいわ、その度胸に免じて引いてあげる」
「ありがとう。フィナ」
「……こちらこそ。ありがとう、ヨルン」
採火燈を手にセラフィナは目的を果たす。祭壇を照らしていた聖火は消え、ただ静かな暗闇だけが残る。それはまるでセラフィナの行く道を暗示するようなものだった。
「君には興味のないことだろうけれど、どうせなら見届けて。私が願いを果たす、その時を」
暗闇だけの世界を黒い炎が照らし、破滅への道を振り返ることなくセラフィナは進む。
「ベルケインで待っているわ」
その道の果て、私の全てが燃え尽きようとも。私は■のために走ったのだとこの世界に叩きつけるために。