いつかの話【3】 己の身を焼き続けている女だった。
煌々と瞬いて彼女の心臓を焼き続けるその火は、命を燃やして瞬く光はとても綺麗で。もしこの世界に神や天使がいるのならば、彼女のような存在だろうとヨルンは考えていた。優しく、激しく、冷淡で、感情的で、太陽のように白く煌々とした──己のためならばその全てを焼く、この世に最も誠実で無慈悲な存在なのだと。
死ぬことは嫌だが、彼女の炎に当てられて裁かれるぐらいならば納得できるとさえ。
「私は、人間を憎んだ」
暴走体が解け人間の姿に戻されたセラフィナは、命の残り火を吐息で撫でるように語る。
人間が憎い、彼女はそう言っていた。全ての死を望む人間が憎い、それを裁くことのない神が憎い、そんな神が抱く世界が憎いと。その憎悪は長い年月を生きたことで膨らみ、そして腐ることなく灼熱を抱き続けていた。
「真の闇は人間の内にあると思っていた」
彼女はただ、理不尽が許される世界に対し怒っていた。少なくともヨルンにはそう見えた。
通常、怒りは継続しないものだ。感情は発露に伴ってすさまじい消耗を体に要求する、一瞬の爆発ならば耐えられても長時間の燃焼に人の心はあまりにも燃費が悪い。だからヨルンも感情的になることを避けてきた、結局消耗するだけだと諦めていたのだ。だが、いやだからこそこれまでの旅でそれをやめることにしたヨルンには、なおさらセラフィナの怒りは膨大で途方もないことだと理解できてしまったのだ。
彼女の受け取った愛情は、それほど大きく大切なものだった。だからそれと同じ分、否それ以上に燃え上がる。心だけでは足らないと己の体を焼いて、それでも足りなければ友人を焼き、世界を焼いた。だがそれでも彼女には足りないのだ。
天に届くほどの、火が。
「だが……」
ふと、熱から覚めたようにセラフィナがこちらを見た。さざ波の立つ、湖のような。とても穏やかな笑みで。
初めて見た顔だった。
「君を見て来て、少し考えが変わった」
灼熱の迷宮にいるはずなのに、ヨルンには冷ややかな雪が降っているような感覚に顔を上げた。彼女と出会った懺悔室、そしてそこから出たときの温度だ。温かくて、冷ややかで、そのうち彼女も懺悔室から出てきてなんてことのない話をしたのを思い出す。
くだらない話をした。どうだっていい話をした。明日には忘れている話を、お互いぽつりぽつりとぼやいては適当に相槌をうって。”適当に聞き流してるな””お互い様でしょう”、”それもそうだな”。何度も似た会話をして、実にならないことばかりをして。
無駄な時間だけを、過ごして。
「君は……微かな光のようだ」
まるで人々の世間話で聞くような、血と炎の道を歩く自分たちには似つかわしくないほどに穏やかな日々は、もう二度と戻らないことをヨルンはようやっと自覚する。
「”天を目指す英雄は天をもがれ、灰となる。欲に身を任せるなかれ”」
セラフィナの指が虚空を撫でた。愛しいものに触れるように、壊れたものを憐れむように。
「”神は常に、観ている”」
火は消えて、彼女は倒れ伏す。静寂が戻った世界でようやっと眠ることが出来た彼女を、ヨルンはただ見つめていることしかできなかった。
声にならない何かが、喉を揺らしている。それがなんなのかヨルンにはよく分からなかった。だがしかし、死闘によって腕もまともに動かせず足さえも上がらないことがここまで憎らしいとは。
こんなことがあることさえ、ヨルンは知らなかった。
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「ヨルン、お前……」
「なんだ」
「……いや」
死闘を終えて残った静寂の中副団長のクレスが見たものは、これまでの旅で初めて見せるヨルンの土砂降りにあったかのような顔だった。
お互いボロボロだ、生きているのが不思議なぐらいだ。だがヨルンの消耗は己の比ではないのだろうことをクレスはよく分かっていた。
彼とセラフィナの間に何があったのかを、クレスは知らない。ただぼんやり知り合いだったのだと、そう聞いている。それ以上のことを聞こうとは思わなかったが。
「帰ろう」
「あぁ」
「……戻ったら、一緒に酒でも飲もう」
「その前に残務処理だ、教皇さまに今後のことを確認しなければならない。町の復旧に参加する連中をまとめないと」
ここまでぐちゃぐちゃになった団長をそのまま歩かせるほどクレスも鬼ではない。これはもう本当にめちゃくちゃになっている、分かる。これは頭と心が追い付いていないせいで空回りしはじめているやつだ。以前にもこんなことがあったので猶更である。
何から何までなんやかんやでうまくこなしてきたヨルンも、己自身の問題に関しては本当に不得手らしい。
「それは俺がやる」
「だが」
「いいから……っ」
でも、と首を振るヨルンの肩を掴んで彼を引き留める。
何があったのかは知らない。何を思っていたのかも分からない。今回は特に不可解な行動や作戦が目立った、ただそれでも彼にはそうするだけの理由があることだけは分かるのだ。
常に旅団を優先してきた彼が、そうするだけの理由が。
「こんな時ぐらい、お前を優先しろ……っ」
ヨルンは、クレスの行動に困惑しているようだった。茫然とクレスを見上げては、少しの間ぼうっとして。……そうしてそのうち、小さな声で「あぁ」と目を伏せる。
それでも頷いた彼はふらついた足でセラフィナの遺体の元へ歩き出した。そうして彼が彼女の傍に膝を付き、傅くところまで見届けたところでクレスは背を向ける。いつもの不可思議な行動も、今となっては少しばかり理解できる。ならば第三者であり仲間である自分が深く立ち入ることではないだろう。
「ヨルンは?」
「やることがあるそうだ」
「……そうか。ならこちらで出来ることを進めておこう」
撤収作業に加わり指示を飛ばしながら彼を待つ。ある程度のところで彼は何事もなかったように仲間の輪の中に戻ってきては、怪我をした団員に肩を貸していた。「大丈夫か?」「ありがとう」「気にするな」……すっかり普段通りなことに戸惑いながらも、まぁそういう切り替えの早さが取り柄の男だしなとクレスは息を吐く。
いつか話してくれる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。クレスにとってはそれぐらいの、取り留めのないことだった。
「……、」
そんなヨルンの様子を見つめているサザントスの目にクレスは気が付いていたが、口に出すまいと腹の底に収めておく。
「(それはそれで、今回の行動は後で面倒なことになるぞ……ヨルン……)」
お前聖火長に睨まれてたぞ。なんて言ったら、ただでさえフレイムグレースに入ることを嫌がった彼が猶の事雪国嫌いになってしまう。それはちょっとめんどくさいな、と諸々まとめてクレスは見なかったことにしたのだった。
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大聖堂の懺悔室。秘密の解かれた部屋には誰も興味を示すことはなくなり、むしろ問題が起きたこともあって好んで足を踏み入れる人間もいなくなった。
そんな部屋に、サザントスは今立っている。
フレイムグレースへの帰り道のことだった。多くの犠牲を伴いながらも採火燈と攫われたリンユウを取り戻した一行は、一旦エンバーグロウで足を止めた。距離的にも日程的にも強行軍だったため騎士団も旅団も疲弊がひどく、エンバーグロウとフレイムグレースを繋ぐ雪原の天候が荒れ足止めを受けたのだ。
一時の休息もかねて皆それぞれの場所へ向かうところ、聖火騎士団長とサザントスは今後のことに関して先んじて話をまとめたいと意見が一致した。そのために選ばれし者を呼んでくるよう頼まれたのだが、どこを探してもいない。一体どこへいったのやらと彼の仲間たちに話を聞いて回った先に、この懺悔室があったのだ。
「こんなところにいたのか、選ばれし者よ」
小さな懺悔室の真ん中で跪き静かに祈っている、そんな彼の背にサザントスは声をかけた。彼は顔を上げるも振り返ることはなく「何か用事か」と端的に返事をする。「ヒューゴが呼んでいる」と伝えれば、「わかった」と息を吐き立ち上がる。
「……どうした?」
「……、」
歩き出そうとしない選ばれし者に向けてサザントスは続けて声をかけるも、彼は懺悔の窓を──かつてセラフィナが潜んでいた席を見つめたままこう問いかけた。
「サザントス、彼女は何に見えた」
サザントスは考えることもなく答える。
「邪悪だ。それ以上も以下もない」
奇妙な沈黙が続く。ひどく張り詰めた空気の中、選ばれし者は「そうか」とだけ言い「先に行っててくれ、待たせはしない」とサザントスに退出を促す。それ以上語ることはないという雰囲気に気圧され、サザントスは懺悔室を出る。
……一度だけ振り返った。そこには懺悔室の微かな光源に照らされて浮き彫りになる、影と化した彼の背があった。