地獄の果てまで。 何かしらの都合が悪かったのだと思う。虫の居所が悪かっただとか、天気が悪かっただとか。おそらくそういった類の悪天候のような理不尽だった。
首切りといえばそう珍しい話ではなかった。盗餓人狩りが枢機卿団の庇護下にある以上、そういった不都合を押し付けられやすい。これまでも同業者が突如として指名手配を受け、聖火騎士団によって消されることはよくあった。
その番がとうとうヨルンに回ってきた。いやもしかしたら、来るべき時が来ただけなのかもしれない。以前理不尽な仕事を押し付けられそうになり、それを断った覚えがある。あれが何か悪さをしたのかもしれない。
走る、目眩し程度に追手は撒いたが安堵するには程遠い。このまま逃げるにせよどこかで身を隠すにせよ、負傷した体でどこまでいけるのかその算段さえつきそうにない。
どうにせよ詰みだ、ヨルンはそう思った。
「やっと追いついたぜ、ヨルン」
「エフレン……」
もはやここまでか、と現れた男を目にヨルンはため息をつく。
エフレン、異教を特定し裁きを与える裏方仕事を請け負う神官だ。枢機卿も味な真似をする。知り合いを差し向けられる可能性も考えてはいたが、よりにもよってエフレンか。
逃げきれない、そう悟ったヨルンは傍らの剣に手を添えた。逃げきれないなら倒すしかないだろう。……あまりそうはしたくなかったが、気絶させるまでは持っていけるはずだと己に言い聞かせながら。
しかし状況は思いもよらない方向へと転がっていく。
「何やってんだバカ、早くいくぞ」
「は、」
「いいから来い、追手に追いつかれるぞ」
エフレンはヨルンの腕を掴むとそのままずるずるとどこぞへと引っ張っていく。
敵意もなければ悪意もないその気配に戸惑いながら、ヨルンは連れられるままエフレンに抗議した。「何を考えている」のだと、「お前の仕事はこうではないだろう」と。
「今は何もいうな。……言いたいことぐらい分かってる、だから……何もいうな」
「っ……」
碌な説明もないまま、二人の逃避行は始まった。
正直、エフレンの存在には助けられるばかりだった。距離を稼ぐにせよ身を隠すにせよ、ヨルンは片足を怪我したまま無理矢理動いていたために常に微熱がある状態だった。エフレンがいなければ、そもそも雪原を越えることさえままならなかったはずだ。
旅の手筈を整えるのも、治療をするにも彼の手が必要だった。ヨルンは何度礼と謝罪を告げたかもう覚えていない。
しかし道中、エフレンは“何も言うな“の一点張りでヨルンに事情を話そうとはしなかった。それほど大きな事件が起きたのだろう、しかしそうなるまでの理由がヨルンには分からなかった。
幸いなのは旅団から離れていたことぐらいだった。ヨルンが指名手配を受けたのは、仕事の報告のためしばらく本隊から離れる旨を伝えた上で単独行動をしていた間の出来事だったのだ。
少なくとも自分がこうなってしまった被害を旅団が受けることはない。……エフレンを除いては、だが。
エフレンは何か悩んでいるようだった。しかし口を割る気配がなかったため、ヨルンはただ彼に引っ張られるまま追手から逃げ続けることしかできない。
積み重なっていく不安と歯痒さが喉を焼き始めた頃、エフレンはヨルンに向き直るとようやっと口を開いた。
「分かっちゃいると思うがお前さんの指名手配は事故だ。何があってもな。だからヨルン、自首なんて考えるんじゃねえぞ、今あの場所に戻ったら必要以上の罰を受けることになっちまう」
大きな事件が、と言うよりかは。よほどと言うべきか。
ボロ宿の一室でベッドに腰掛けたエフレンは、それだけ言うとまた黙り込んでしまった。
ひどく胸騒ぎがした。今まで追手を振り切りながら逃げに逃げてきたが、ことは想定した状況とは異なるのかもしれない。
「俺は何をしたことになったんだ」
「……」
「エフレン、教えてくれ」
「ダメだ、言えねえ」
「エフレン……」
「今はダメだ。ヨルン頼む……俺に、もう少し時間をくれ」
「…………、」
そこまで言われては引き下がるしかない。渋々、ヨルンはその日の追求をやめることにした。
こちらの様子に少しばかり安堵したのか、エフレンはため息をつくと「今日は一緒に寝ないか」と共寝を誘う。「今日もの間違いじゃないのか」と皮肉を言いながら彼の隣に横たわれば、エフレンはおずおずとヨルンを抱擁する。
「にしても、いつまで経っても慣れないな」
「し、仕方ないだろっ。傷つけるわけにゃいかねえし……」
「傷も何も、そこそこのことしてただろうに」
エフレンとはそういう仲だった。
することはしていたし、おそらく今こうして逃避行に手を貸してくれているのもそういう理由なのだとヨルンは思う。
ヨルン自身も手を貸してくれるのがエフレンでなければ助け自体を断っていただろう。巻き込むまいと、どこかのタイミングで姿を消したはずだ。
「ううううるさいぞ、もう寝ちまえっ。明日も歩くんだからさっさと寝ろ〜っ」
「はいはい。おやすみ、エフレン」
耳まで真っ赤になったエフレンを面白く感じながらも、ヨルンは彼の腕の中で瞼を閉じる。触れ合っているおかげで鼓動が聞こえてくる、まるで子守唄のようだ。
状況は芳しくないが、こうしていられるだけいい……のだろうか。
「(エフレンは今回のことを事故だとは言ったが、冤罪だとは言わなかった)」
──気がついては、いる。
だが今こうして彼の腕の中にいられるということは、そういうことだ。エフレンが時間が欲しいといったのなら待とう、それがヨルンにできる数少ない誠実だった。
温かな体温に触れたままヨルンは眠りにつく。胸の内に広がる痛みから、できるかぎり目を逸らさないように。
/
「……すげえ、もう寝ちまった」
エフレンは腕の中で寝こけるヨルンを眺めては思わずそうつぶやく。以前でもありえない光景に困惑しながらも、また当然だと納得しつつ彼の銀髪を撫でた。
よほど疲れているのだろう、みじろぎはするものの起きる気配がない。信頼してくれているからだと言うことも、エフレンにはよく分かっていた。
「……っ、」
だから尚更苦しかった。
「ヨルン……お前、やっぱ気がついてるんだよな」
エフレンは苦々しい思いを息と共に吐く。
今回ヨルンが指名手配を受けた理由は、冤罪でも何でもない。それでこそ至極真っ当な理由……盗餓人殺しが殺人だと訴えられたからだった。
かといって全てがまともというわけではなかった。盗餓人狩り全てが対象ならば筋は通る、しかし今回はヨルンのみが指名を受けている。彼個人を狙う理由はまだ分からないにせよ、どうにもきな臭い事情があるのは確かだ。
その中でエフレンは教会から指令を受けたのだ。異端と認められた盗餓人狩りを、潰せと。
エフレンは曲がったことは大嫌いだ、そして仲間を傷つけるのも傷つけられることも嫌いだ。それが親愛を寄せる相手ならば尚更だ。
だがもしヨルンが、教団の主張する異端であったなら。
エフレンの信じる道と相容れない悪であったなら、自分は彼を潰すのだろうか。
相容れないと知った彼は、自分を潰せというのだろうか。
「(いいや、んなことまだ分からないだろうが)」
最悪の想像を振り切るようにエフレンは頭を振り、存在を確かめるように彼の背を撫でる。
彼は殺人者だ、それは事実でどうしようもない。それを言ってしまえばエフレンも同罪である。異端を殺し、悪を断じるために生きてきた。彼もまた盗餓人を殺し、誰かを守るために生きている。
そこに何の違いがあったろうか。
ヨルンの側に立つとエフレンは己の悪を審問され続けることになる。それは苦しく、時として痛みさえ引き起こすほどのものだった。
だがそれでもエフレンはヨルンの側に立ちたいと願った。たとえ相容れないものだったとしてもそれは事実そこに在り、人を愛したものなのだから。
異端では、ある。悪でもある。罪人でもあった。──だが、それだけでは決してない。
「……どこまでだって行ってやる。お前を、ただの悪党で終わらせてたまるか」
その先にお互いの死があるのだとしても、エフレンはヨルンの手を離すことなどできやしないのだ。