ゆきとおもひで「ここが力点で、こうなるから……」
遊星の手が滑らかに動き、数式を次々と書いていく。それを真剣な面持ちで相槌を打ちながら隣でアキが聞いていた。
「じゃあこれは……こういうことかしら?」
さらさらとアキの白い手がペンを動かして数列を並べていく。文字と数字の入り混じった式が何度も展開して、解が出た。
「ああ、正解だ」
「良かった」
緊張の糸が緩みほっと息をつく。苦手な分野の問題が解けたことが嬉しくて顔が綻んだ。
「流石アキだな。理解が早い。もう俺が教えることなんてないんじゃないか」
「ううん、遊星のおかげよ。この単元が特に苦手だったんだけど、先生の教え方が上手だから」
遊星を見やると、彼は笑って
「それは生徒が優秀だからだな」
と言った。
視界の隅で何かがちらついたような気がした。アキはそれを確かめるために何気なくそちらを見る。
「あっ 見て、遊星」
アキは遊星の裾を摘んで引っ張った。遊星がアキの指差す方に視線を動かす。
「雪だ」
窓の外は白い結晶がふわふわと降り始めていた。
「どおりで寒いわけだ」
「私、雪が降ってるのを見たのなんて本当に久しぶり」
そう言ってアキは席を立って窓に駆け寄る。細やかな綿毛のような白が街に下り立つ。それだけで見慣れた景色もどこか特別な感じがする。
「ああ、この辺で雪が降るなんて珍しいな」
「雪といえば、小さい頃にすごく沢山積もったことがあったわね」
「懐かしいな。サテライトもそこら中真っ白になっていて、マーサハウスのみんなで外に遊びにいった」
遊星もアキの隣に並び、窓から外の様子を眺めた。幼い頃の思い出に懐かしい気持ちでいっぱいになった。今日の雪はちらつく程度で積もるには至らないだろう。それをどことなく残念に思う。
「うちはね、お父さんもお母さんも大慌てだったわ。雪かきの道具なんて持ってないし、右往左往してて。喜んでたのは私だけ。雪だるま、作ったけ」
「今日は積もりそうにないのが残念だな」
「そうね」
アキが窓の玻璃はりに触れる。ひんやりとしていてとても冷たい。それだけ外が寒いということだろう。
「アキ、区切りがいいし温かいお茶でも淹れて休憩にしよう」
「ええ、そうね」
アキが頷くと遊星は窓の側を離れてキッチンへ向かう。
「紅茶で良かったか?」
「ええ、遊星と同じもので構わないわ」
遊星は戸棚から茶器を取り出して準備する。ティーポットに茶葉を入れ、電気ポットから湯を注いだ。ふわっと湯気が上がる。
アキも窓を離れて席に戻る。少し離れたところから遊星が茶を用意する所作をぼんやりと眺めた。
室内は遊星の立てる微かな音しかしない。今日のポッポタイムは二人以外、誰もいなかった。クロウは仕事へ、ブルーノもパーツの買い出しに出かけたらしい、ジャックはよく分からないがいつも通りだろう。いつもの皆が集まって、何かしら事件が起きて騒がしいポッポタイムも好きだったが、このゆっくりと時間が流れるような静かな空間も好きだなと思う。
「アキ」
優しく名前を呼ばれて取り留めのない思考から現実に引き戻される。遊星がカップを差し出している。
「ありがとう」
受け取ったマグカップは熱く、冷えた指先を温めてくれた。
「本当に寒いわね。最近、朝起きてベッドから出るのが辛いの」
「そうだな。ジャックなんか起きていてもリビングが暖まるまで絶対に降りてこないんだ。猫みたいだろ?」
「ふふ、本当ね。でも、どうせ遊星が徹夜してずっとガレージにいるから夜通し暖房が点きっぱなしなんでしょう?」
「……実はそうなんだ」
二人で笑った。
雪のせいか外の音もいつもより小さく感じ、室内には遊星とアキの声しかしない。まるでこの世界には二人きりみたいだ。
「今日みたいにね、すごく寒い日にはスケートリンクに行ったことを思い出すの」
アキがマグカップの縁をなぞる。
Dホイールの免許取得のため、遊星との特訓の一環で訪れた。そう昔のことではないのに、ずっと前のことのように思う。
「スケートリンクってこんなに寒いんだ、と思ってびっくりしたの。初めて行ったから知らなかった。考えてみたら当たり前なのにね。場内が暖かかったら氷が溶けちゃうもの!」
「それで今度は厚着していくと動いてるうちに暑くなって、結局脱いだりする羽目になるんだ」
「ふふ、楽しかったなぁ」
場内の冷えた空気も、初めて滑る氷の感覚も、握った遊星の手の熱さもすぐに思い出せる。
「……次の休みにでもまた一緒に行こう」
「本当に?」
遊星が頷くのを見て、アキの顔がぱあっと明るくなった。
「そんなに楽しかったのか?」
特訓の時のことだろう。
「今まで誰かと遊びに行くなんて、ほとんどしたことなかったから……」
サイコパワーで周りから倦厭けんえんされ、両親からも距離を置かれた過去。黒薔薇の魔女としてアルカディア・ムーブメントにいた苦い思い出。サイコパワーに目覚めてから誰かと純粋に友人関係を築くなんて縁遠いことだった。だから今、仲間たちとこうして普通の日常を過ごし、時に喧嘩し、協力し合う。当たり前の人間関係はアキにとって貴重で、得難いもののように感じられた。だから誰かと一緒に出かけて遊びに行く、なんてささやかなことがとても喜ばしかった。
「じゃあ、これからはたくさん出かけないとな」
「……一緒に行ってくれるの?」
「アキが嫌じゃなければ」
「そんなわけないじゃない。嬉しい」
アキが笑うと遊星も目元を緩ませた。
「じゃあ、そのためにももうひと頑張りするか」
「そうね。来月はテストがあるし、今のうちに復習しとかなきゃ」
「アキなら心配ないんじゃないか」
「そうでもないのよ。次のテスト範囲は苦手分野が多くなりそうだし、そのうえ広いから」
「真面目だな」
「そうでもないわよ。いつも遊星のおかげで何とかなってるの」
「そんな風に言われたら俺も頑張らないといけないな」
まだ温かいマグカップを机の向こうへ押しやって、教科書を引き寄せる。ぺらりとページを捲めくる。二人きりの勉強会はまだまだ続く。外で街を白く染めようとしている雪は、心に積もっていく気持ちのように静かで柔らかいのだった。