可愛いままで『可愛いままで』
「炭治郎が一緒に風呂に入ってくれない」
深刻に呟いた義勇の台詞に返ってきたのは、酔っぱらい達の爆笑であった。
「うひゃひゃひゃひゃ嫌われてやんのうひゃひゃひゃ」
「ざまァ!ざまァ!ぶはははは」
それらを無視して義勇は続ける。義勇とて、彼ら同様に酔っぱらいなのだ。
「暮らしを共にするようになってからずっと、一緒に風呂に入っていたのに。それに、風呂だけじゃない。寝室も別にしてほしいと言われた。その時の俺の気持ちがわかるか」
宇髄と不死川は畳をバンバンと叩いての大爆笑である。俺はこんなにつらいのにお前たちは……と目を据わらせて義勇は杯を呷る。
元柱三人、なんとはなしに定期的に集まっては、特に目的もなく開かれる飲みの席である。以前の自分達であれば、こんな集まりを持つなど考えもしなかったが、無惨が滅んだあの夜明けからこちら、互いの関係も少し変わってきている。何より、酔うまで飲むなどという事、以前であればする筈もなかった。
今はもう、鴉の声に耳を澄ます必要もない。
笑いの残る声で元音柱が言う。
「炭治郎も成長したんだろうよ。そのうち洗濯も別にしてくれって言い出すぜ。せつねぇだろうが、世の中の親父は皆同じ道を通るのよ」
「俺は親父じゃない」
だが……、と義勇は項垂れた。
「洗濯は既に別だ。以前間違えて炭治郎の褌を履いてしまったら、顔を真っ赤にして怒られた……」
「ぎゃははははは」
「あひゃひゃひゃひゃひゃ」
「つらい……」
「まァでも弟弟子離れする良い機会だろうよォ。お前ら距離が近すぎるとは思ってたぜ」
銚子を傾けながらの不死川の言に、宇髄もうなずく。
「まあなあ。お前らが一緒に暮らし始めたのには驚いたしな。炭治郎はともかく、冨岡が他人と暮らすとは思わなかったぜ」
「ああ……」
確かに彼らの言葉はもっともだ。さて何故そんな事になったのだったか。義勇はいい加減酔いの回ってきた頭で考える。
二人ともかたわだけど、共に暮らせば補いあえる。そんな事を言ったような、言われたような。
今生、生ある限りともに生きていきませんか、比翼之鳥のように、辛さも幸せも分けあって。
記憶のなか、今より少し幼い面差しをした少年が言う。春の日差しのような笑みで、炭治郎が、義勇の何より大事な弟弟子が微笑った。
「……なのに、どうして風呂も寝間も別なんだ」
ぼんやり呟く義勇に、宇髄が呆れたようにこだわるねぇと返す。
「炭治郎の頭を洗ってやるのは楽しい。背中を流すのも好きだ。体に刻まれた傷のひとつひとつを尊く思う。布団を並べて寝ると、寝息に安堵する。炭治郎は、時々、夢に魘される事があるが……そういう時に、すぐに起こしてやれるし……」
不死川と宇髄は、顔を見合わせた。
「俺は炭治郎を甘やかしたい。……炭治郎に手の届く所に居てほしいのに……」
「……マァ、わからねぇでもねぇがな、そういうの」
不死川が何処か柔らかな声を落とした。
「でも、それはテメェの勝手だぜ。兄貴分は、弟分にいつまでも手の内に居てほしいもんだがな」
いっちまうもんだ。あいつらは。いつの間にかこっちの背を追い越してな。
宇髄が、苦笑して言う。
「ま、干渉しすぎんのも程々にな。炭治郎はお前の子供でも弟でもねぇんだからよ」
それから宇髄が溢れる程に杯に酒を注いでくる。不死川がオラ、食え、と言ってつまみの胡瓜を押し付けてくるのを大人しく咀嚼して、義勇はもう一度呟いた。
「甘やかしたいのに……」
その後の記憶は無い。
ふと気づくと、視界が揺れていた。
「う゛……」
「あ、起きましたか義勇さん」
「……炭治郎……?」
「はい、俺です。宇髄さんの鎹鴉から、義勇さんが潰れてしまったって連絡をもらって」
片方しか動かせない腕で器用に義勇を背負って、炭治郎は夜道を歩いていた。遠くに星々が息を潜めたように瞬いている。
「もう少しで家に着きますから。寝ていていいですよ」
夜のしじまに響く声は、ひそやかだ。
「……降りる。おろせ」
「…………」
炭治郎は聞こえないふりをして、兄弟子をおろすつもりはないようだ。
義勇はほぅと息をついて炭治郎の背にもたれた。
「……お前は最近俺の言う事を聞かない。俺がお前を可愛がりたいのに」
「ええ?可愛がってくださるんですか、義勇さん」
「そうだ。たくさん撫でてやりたい。褒めてやりたい。お前は良い子だ。とても頑張っている。正直で、優しくて、一生懸命で、だから……」
それらすべて、かつて言ってやりたかった事だ。でも言えなかった。禰豆子を人間に戻し、家族の仇を討つと決めて、歯を食いしばり戦いの道を歩いている少年に、そんな事を言ってなんになるだろう。人を動かす原動力となるのは怒りだ。甘えはその対極にある。でも、ほんとうは甘やかしてやりたかった。優しく柔らかいものだけ手渡してやりたかった。刀などではなく。妹以外すべてを失い、その妹も鬼へと変貌し、それでも太陽のように温かく笑う義勇の弟弟子。
ずっとお前になんでもしてやりたかったよ。
でも出来なかった。
だから鬼が滅び、お前も俺も只人に戻って暮らせて、漸く許されたと思ったのに。
「なのに、お前は、風呂も寝間も別けろと言う……」
「ああ……すみません、それは、俺の方にも色々事情がありまして……」
「なんだ、その事情とは」
「うーん、もう少ししたら言いますね。俺も義勇さんに聞いて頂きたいお願いはあるので」
「今言え。今聞く」
「うーん……」
炭治郎は柔らかい苦笑の音を漏らして、後は何も言わない。
可愛い義勇の弟弟子。守っているつもりで、いつの間にか義勇の手をすり抜けていってしまった、その事に気づいたのは、醜く膨れ上がる無惨の肉塊を前に炭治郎が義勇を突き飛ばし飲み込まれてしまった時に漸くだった。
だから本当は知っている。この少年が、もう義勇の可愛いこどもでは無い事なんて。
それでも。
「……可愛いままでいてくれ」
この手の中に愛せる錯覚を許してほしい。もう少しだけで良いから。
「……はい、もう少しだけ」
鬼のいなくなった夜は優しい沈黙で、二人を包んでいる。
終