初日の願いはあ。
晴れた闇の雲海の果てを見つめたナツメが、ふるりと身を震わせ細い息を零す。それが白く凍る間もなく、吹き荒ぶ風が小さな吐息を乱暴に攫っていった。
僅かに明るくなっていく地平の光に照らされて、徐々に変化していく橙の髪の色を仔細に記録しながら、カブラギは声をかける。
「…やはり上着がもう一枚必要だったな。それと、あまり崖に近付くな。落ちても知らんぞ」
「大丈夫ですよーう!あと、これ以上厚着したら動きにくくなっちゃいますって!」
平気です!、と耳を赤くしたナツメが昔のように元気に腕を振ってカブラギに答え、そしてまた空と地の向こうへと顔を向けた。
やれやれと肩をすくめるカブラギは、当然だが万一の場合に備えてナツメがこの最高峰の山の強風に煽られて落ちたとしても、即座に助けることのできる距離と位置関係を維持している。
…もしかしたら自分がそうしているのを解っていて、この娘はリスクをとっているのかもしれない。…だとしたらだいぶ甘やかし過ぎたか?
思案していると、食い入るように雲の果てを眺めていたナツメが叫んだ。
「組長っ!見て下さい!日の出です!初日の出ってやつですよ!」
顔を向けてみると、確かに太陽が雲の海から顔を覗かせ始めた所だった。雲から陽光が溢れ、煌々とした光が雲海を刺す様は神秘というものを感じる光景なのだろう。
特に、ここ数年前までデカダンス要塞の中から出る事ほぼなかったタンカーからしたら、心震える光景なのかもしれない。
だがカブラギはそれを一瞥だけして、カブラギはナツメを見ていた。
カブラギにとって、新しい年や初日の出とは、ただ日を表す数字が変わる区切りというだけの事象なのだ。
生きる意味も、己の何もかもを塗り替えたナツメという人間こそが、それこそタンカーのいう太陽に等しい存在なのだ。
単純であるが、カブラギという男はそれしか考えていないのだ。
そんなカブラギの視界に映るナツメは酷く興奮しているようだった。
日の出で感動して声を漏らす唇も、風の冷たさ故に赤くなった頬も、澄み渡る空の青を思わせる瞳を輝かせる様も、この娘の全てがカブラギの宝物だ。それを見逃すなんてとんでもない。
そう思いつつ見ていると、視線に気が付いたナツメが不満げに漏らす。
「………組長?ちゃんと日の出撮ってます?あとでアタシも見たいんですから、アタシばっかり見てたら怒りますよ?」
「撮ってる。心配するな」
嘘は言ってない。
あくまでナツメのついでだが、視界に入れているので編集すればどうとでもなる。
その返答に、カブラギに慣れたナツメは納得していなさそうに膨れていた。しかし、ふ…と表情筋を緩めたかと思うと、唐突にカブラギに飛びついてきた。
「なっ…!?おわ…ッ!」
いきなりの行動にどうにか雪に足を取られずに受け止める事に成功するカブラギを、きゅうと柔らかな熱が抱きしめた。
「あけましておめでとうございます、組長!今年も、来年も、その次も!ずーっと、一緒に居て下さいね!!!」
「…ああ、もちろんだ」
耳元で本当に嬉しそうな声がして、カブラギも抱きしめ返す。
カブラギはタンカーのいう神なんて概念は信じていない。
だが願うのならば、腕の中の太陽と共に居たいと思う。そして事実、太陽もそう願ってくれている。
事実に、極寒のはずの環境に関わらずじわりと温もりがコアに込み上げてくる。
「…これが幸せ、ってやつか」
「…組長がそう思うんなら、そういう事なんじゃないですか?」
どこかで聞いた言葉で返してくる事すら愛おしくて、けれど適切な言葉が見つからなくて、カブラギはナツメの冷えた頬に手を添えて柔らかな唇に口付ける事しかできなかった。
了