愉悦の深夜律紀は自室のデスクに向き合い、机の上に広がる報告書のコピーや証拠品の資料に目を通しながら、深いため息をついた。事件は予想以上に複雑で、手がかりも少なく、気づけば時刻は深夜を指していた。仕事が進展せず、焦りと苛立ちが募っていく。
そのとき、数回のノックが響く。
「……どうぞ」
扉が静かに開くと、夏無が入ってきた。彼女は律紀の様子を見て、すぐにその場の空気が重いことに気づく。困ったように小さく微笑むと、丁寧に紅茶を注いだ。
「律紀くん、少しお茶でも飲んで、休憩してください」
「……ありがとう、夏無」
律紀は少しだけ顔を上げ、夏無から渡されたカップを受け取った。彼の目はまだ書類に向けられたままだが、夏無の存在に、少しだけ心が軽くなるのを感じた。
「少し息抜きが必要ですね。お仕事、行き詰まっているようですし」
「嘆かわしいほどに手がかりが散らばりすぎている」
律紀は冷静な声で答えながらも、明らかに心の中で苛立ちが渦巻いているのが分かる。夏無は微笑みながら、紅茶を一口飲み、その後、少しだけ興味深そうに言った。視線の先は証拠品の資料に向いていた。
「もし私が犯人だったら、どうするかなぁ……」
律紀はその言葉に、好奇心由来の眼差しを向けた。
「夏無が犯人? もしそうだとしたら……証拠すら残さず、完璧にこなすだろうな。そして、犯行の動機を隠して、俺を焚きつけるようなことを言いながらも、冷静に様子を見ているだろう」
夏無はその答えに、楽しげに笑みを浮かべた。
「ふふっ!そうですか。やはり私、犯人向きかもしれませんね。おっしゃる通り。もし私が犯人だったら、証拠を残さず、律紀くんが気づかないように、少しずつ追い詰めていきます。でも、私が本当に愉しむのは、律紀くんが真実に気づく瞬間ですね。だから、ヒントは残しておくかもしれません」
律紀は少しの間黙って考え込む。そして、再び冷徹な口調で言う。
「お前の楽しみ方もわかるが、俺は見逃さない。お前が隠したことに必ず気づく」
「ふふ、律紀くんはそう言いますが、実際には……どうでしょう、刑事さん」
夏無の目にはどこか挑戦的な光が宿る。その視線に律紀はほんの少しだけ反応を見せ、視線を合わせた。
「お前が犯人なら、最初から隙を作らないだろう。……反対に、俺が犯人だったらどう思う?」
夏無は驚いたように眉を上げた。
「律紀くんが犯人、ですか?」
「そうだ。もし俺が犯人なら、どうすると思う?」
夏無は少しだけ黙り込む。考え込むような表情を浮かべ、最終的にゆっくりと答えた。
「もし律紀くんが犯人なら、目指すのは完全犯罪でしょう。証拠を残すことはないでしょうね。そして、あなたは現場が右往左往しているのを愉悦心地で俯瞰する」
その言葉に、律紀は口元を歪めた笑みを浮かべて答える。
「その通りだ」
夏無は満足そうに微笑みながら、カップを再び口に運んだ。
「俺が犯人なら、もっとシンプルにやる」
律紀の声は低く、冷静であった。彼はカップを置き、視線を夏無に向ける。
「まず、証拠を残さず、死体を見つけた時点で即座に警察に共有。自分の動きはすべて記録に残す。少しでも疑われたら、すぐに自身を証明できる状況にしておく。これはシンプルだが、なかなか効果的だ」
夏無は少しだけ目を細め、その言葉に対して思慮深く答える。
「なるほど。確かに、そんな方法もありえるかもしれません。しかし、この事件の犯人は、あなたほど賢くありませんよ」
その声には、確信とともに少しの微笑みが混じっていた。
「あなたのように計算し尽くされた犯行は、この事件の犯人には向かないでしょう」
律紀は一瞬、目を細め、くすりと笑った。
「お前みたいに完璧な頭を持っているわけじゃないからな」
彼はあえて何も言わず、ただ微笑みを浮かべてカップを持ち上げた。
「でも、こうして犯人像を語り合うのは、なかなか楽しいな」
夏無もゆっくりとカップを持ち上げ、律紀の顔を見つめた。
「私も同じ気持ちです。犯人側の思考回路に触れるのって、非常に興味深いですね。ある意味では警察ないし探偵とその犯人は同一の存在と言われるくらいです。事件を解決できるということは犯行を起こすための手段や思考を理解しているってことですよ。適度に休んで、無事事件を解決してくださいね。刑事さん」
「……ああ。ありがとう」
律紀はその言葉に満足げな笑みを浮かべ、ゆっくりと紅茶を口に運んだ。その仕草は優雅であり、どこか余裕を取り戻したようだった。