傷痕 その後「じゃあ此方にお座り下さい」
そう駅員に促され、傑はまだ少し顔色の悪い悟の背を優しく支えながらスチール製の椅子に並んで座った。
呼吸も元に戻り口数も増えてパッと見には落ち着いたようだけど、繋いだ手はまだ微かに震えている。
「お待たせしてすいませんでした」
「いえ、他の方々から事情も聞いてましたので大丈夫ですよ。それで彼の方からも話を聞きたいのですが」
「分かりました…悟、話せる?」
俯いたままの悟の背を優しく擦ってやりながら、傑は心配そうにその顔を覗き込んだ。
「…ん、大丈夫」
少し躊躇いながらも漸く顔を上げ、傑に頷いてみせた悟にその場にいた全員がホッと息をつく。
「では、まず触られた状況から伺えるかな?」
「は…い……」
テーブルの向かいに座る鉄道警察の1人が問い掛け、もう1人がやり取りを書き取り始めた。
「…あ、あの…俺が…」
「落ち着いて、ゆっくりで良いからね」
説明しなければと頭では分かっていても、まだ感情と上手く繋がらず唇を震わせる悟に、警察官が安心させるように微笑んでやる。
「…ぼうっと立ってたら…ケツに何かが当たって…でも一瞬だったし…気のせいかなって…」
「そっか、最初は気のせいだと思ったんだね」
視線を下げゆっくり言葉を紡いでいく悟の背を、大きな傑の手が支えるように優しく擦っていた。
「でも、その後も…何度も当たってくるし…変だなって思ってたら…掌が当たった感じがして…」
「まだ触られた訳じゃないんだ」
「すぐ離れたし…け…どまた当たってきて…っ」
記憶を辿るようにポツポツと言葉にしている悟の顔から、少しずつ血の気がスーっと引き傑と繋いでる手に力が籠められた。
「い…つの間にか…掌が…離れなく…なって…」
「…悟?」
「…な、撫で回すみた…いに動…いて…っ」
「君?大丈夫かい?」
「悟、落ち着いて、大丈夫だから」
「きっ、きも…ち悪いの…にう、ごけなくて…っ!」
その身に降りかかった悪意を一つ一つ露にしていく度に、綺麗な顔を歪ませ呼吸は徐々に早く荒く、身体の震えも止まらなくなる。
「って、掌がはな…れ…なくて…」
「悟っ!」
焦った傑が覗いた顔色はすでに蒼白で、溺れたように激しく息を吸い、目を見開き己れを守るように長身を縮める姿は見ていて痛々しい。
「…こ、怖…くて…俺……っ」
「悟もういい」
「やなの…にっ…も…揉ん…でき」
「もういいからっ!」
遂に蒼い綺麗な瞳からポロリと透明な雫が溢れると、これ以上見ていられなくなった傑が、乱れきった呼吸でガクガクと震える身体を言葉ごと抱き寄せた。
テーブルの向こうでは警察官が、ただならぬ様子の悟にどうすべきか迷い二人を見守るばかりで。
「怖いっ…すぐる…すぐぅ…っ!」
「大丈夫、もう嫌な手はないよ」
「すぐ…た…すけてっ…すぐる…」
「悟、私はここにいるよ」
「すぐぅ…こわ…すぐ…ぅ…」
すっかり恐怖に飲まれてしまった悟は、包み込まれた大きな腕の中に顔を埋めると、ギュッとその胸元を握り締め、苦しい息の下からひたすら愛しい人の名を呼び続ける。
そして傑は、過呼吸を起こしかけ震えの止まらない頼りない身体を優しく抱き直すと、落ち着かせるように小さな頭を撫でてやりながら、
「悟、私いるからね。落ち着いてゆっくり呼吸しようか」
その耳に柔らかい声を落とした。
「傑だよ、聞こえてる?…焦らなくて良いからね」
腕の中でコクりと頭が揺れる。
「…吸って…吐いて…うん、そう上手」
呼吸のタイミングを教えるようにポンポンと軽く背を叩いてやっていると、少しずつ悟の息が元に戻りだした。
それを確認して漸く安堵できた傑は、呆然とこちらを見ている警察官に向き直ると、
「すいませんが、ここ迄で良いでしょうか?」
眉を下げながら申し訳なさそうに願い出た。
「これ以上はツレの体調が心配ですので、連れて帰ってやりたいのですが」
「彼は大丈夫そうなのかね?」
「そうですね、過呼吸も治まったようですから。でも早くゆっくり休ませてやらないと」
パニックは抜けたとは言えまだ顔色が悪く、目を閉じ時折咳き込むような息を吐く悟の姿に心が痛む。
「そうだな、これ以上本人から話を聞くのは無理そうだし、他の乗客の証言もあるから、帰ってもらっても構わないよ」
「ありがとうございます」
退出の許可を得ることができ、これでもうこの忌々しい一件から悟を解放してやれると、傑もホッと一息ついた。
「さ、立てる悟?」
「…ん、平気」
傑は腕の中の身体をそっと離し先に立ち上がると、悟の手を取り引き上げ、多少フラつく身体を支えるようにその腰を引き寄せる。
「ただ、君の話も聞きたいから後日君だけでも良いのでまた来てくれないか?」
「そう…ですね。分かりました、改めてこちらに伺います」
「すまないがよろしく頼むよ」
「はい、それでは失礼します」