怒っているのかいないのか、どっちだよ。ラルフが腰から外した鞭を置くと、ごとんと重々しい音がまるで抗議のように聞こえた。
有事の際はすぐ手に取れる距離だ、許してもらおう。
ここエルゴスの館において、ラルフや他の継承者が持つヴァンパイアキラーはその身と同じく再現物だ。だがベルモンドやモリスが言うには、鞭は夜の一族への憎悪を力とし継承者を選ぶなど、人格こそないがまるで意志を持っているような代物だという。
ラルフの時代は鞭が吸血鬼への憎しみをまだ強く抱いていた頃。所有者曰く、半吸血鬼である有角が側にいると何かとうるさい、らしい。
だから、二人きりの時くらいは少しばかり身から離す。
それを気にした様子もなく、有角は身軽になったラルフの顔を覗き込んでくる。
闇のような瞳も髪色も、アルカードのものと思えば美しいと臆面もなくラルフは思う。
じっと見つめていると、有角がそっとラルフの頭を引き寄せた。
ねだられるままに重なった唇から舌を差し込むと、有角が擽ったそうに笑う。
「上機嫌だな」
「この姿だと、お前を傷付ける心配がなくていい」
「どういう……ああ。もしかして」
白い顎に指を掛けて促すと、有角はそっと唇を開いてみせた。
歯も舌も、一見して一般的な人間と変わりはない。つまりアルカードにはあるはずの鋭い牙が、変身後である有角にはない。
「人に溶け込むため力を抑えた姿だ。すぐ吸血鬼と分かる特徴があっては意味がない」
いや目立つだろその顔じゃ、と一抹の不安は飲み込み、ラルフは頷いた。
「なるほど。しかしその場合、吸血が必要になったら元の姿に戻る必要があるわけか」
「……は?」
有角は不思議な顔をした。
そういえば、本来の姿であってもアルカードが人の血を飲んでいるところは見たことがない。色濃くも短い付き合いの中で、人の血は必要ないのだと聞いた気はするが、吸血鬼の特性上まったく受け付けないということはあるまい。
ラルフの誤解を有角は察したようだ。
「言ったことはなかったか?俺は吸血を必要としない。必要あらば魔物の血で足りる」
「ほう…なるほど?」
言われて魔物に噛み付くアルカードを想像してみるが、どうもイメージとそぐわない。
「俺達と共に戦ってた時は一度も魔物から吸血したことないよな?」
「ない。昔はできなかった。というより、おそらくお前が想像するような吸血はしたことがない」
「…牙を使わずに吸血するって意味か?」
「そうだが」
有角の説明にラルフはまた首をひねる。
「ああ、お前には見せたことがなかったな。暗黒魔術を使うんだ」
「蝙蝠に変わったり、火の玉を出すあれか」
「それもあるが、血を生命力として取り込むことができる。うまく使えば魔物の血を取り込んで体力を回復できるという訳だ」
「それは口から飲むのとは違うのか」
「…違うな。食物とは違い………ああ、ちょうど、館の周りでうろつく輩がいる。共に来れば見せてやろう」
有角がラルフから身を離し、薄暗さを増してきた窓の外に視線をやる。魔術書から溢れ出た魔力は受肉して悪魔の形をなすこともあり、館から離れることができる有角が定期的に掃討しているのだ。
「興味がなくはない」
わざと迂遠な言い方をして、ラルフは有角の背を押した。
ほどなく、人型よりも大きな魔物が、ラルフが視認できるほど館の近くに誘き出されてくる。
血に飢えた悪魔は立ち止まった黒い影に襲いかかった。一方、動きを止めた有角の体表に赤く魔力の膜のようなものが浮かびあがる。
そして次の瞬間、有角の剣に刻まれた悪魔は噴水のように血を迸らせた。
「……はぁ……」
血が四方に飛び散る凄惨な光景の中、溜息のような、充足を噛みしめる吐息が有角から漏れるのをラルフは聞いた。
悪魔の血は見る間に有角の体に吸収されていく。身体を覆う赤い膜が血を濾過しているようで、肌に打ちかかった赤い飛沫は染み込むように消えていく。服も髪も同様、すべて黒だから分かりづらいが、それなりに浴びたはずの血は魔物が動きを止める頃には跡形もなくなっていた。
「気味が悪いか」
その一連を凝視していたラルフに有角は問う。
「お前ほどの美人でも…そう思うやつはいるだろうな」
「何だその言い方は…」
「だが、嫌悪は感じない」
ラルフは有角の言葉に被せるように言った。返事は、そうか、と素っ気ない一言。
そのままの意味か、ならよかったと言外に続くのか。
夜の一族の脅威をラルフは数多く見てきた。往々にして人を欺き糧にするものたちの存在は、人にとって恐怖と忌避の対象でしかない。
有角はどんな思いでこれをラルフに見せたのだろう。
(俺は気味が悪いとは思わない。だが…こいつを知らん奴には恐ろしく映るだろうな。仕方のないことだが)
魔物とはいえその命を喰らう様は間違いなくおそろしいものだ。
だが、アルカードが無為に人に牙を向けることはないと知っている以上、どうしてもラルフには腑に落ちないのだ。
(──)
ラルフはさり気なくナイフを取り出し、腕に軽く傷をつける。流れ出す血を指先で掬うと、血の玉が蕩けるように纏わりつく。
「アルカード」
呼ばれて振り向いた男の口にそれを突っ込んだ。
「ぅ?!」
指先に、生温く濡れた舌の感触。
「初体験の人の血の味はどうだ?」
「!」
言葉の意味を理解した瞬間、剣を持たない方の手で有角はラルフの手を振り払う。打擲される前に引っ込めたが、結構な勢いで通り過ぎた半吸血鬼の腕は驚きより怒りを多分に含んでいた。
それは当然だろう。悪ふざけを通り越し、完全に有角への侮辱だ。
ラルフを睨む有角の喉から唸りのように恨み言が漏れる。
「…血の味だと?お前も自分の血を口に含んだことはあるだろう。その味だ」
「そうか?」
「味覚が人と違うと言った覚えはない」
たしかに、生まれたときから人と同じ食事を摂っているならそうなるだろう。
「──戻る」
無体をなじりこそしないが憤りは治まらないらしく、言い捨てて足早に館へ向かう有角にラルフも付き従う。
有角は無言だ。
(まあ仕方ないな)
悪いと思うなら最初からしていない。ラルフの感情としては、試したかったというか、ぶち壊したかったにきっと近いのだ。
自分はこれほどにおぞましいのだ、と見せつけようとするようなアルカードの態度を。
だから今回は謝る気はない。ただ、少しばかり反省する部分がないでもない。
(…血の匂いだけでなく、俺の血がうまいとでも言ってほしかった?そうすればアルカードにもっと気に入ってもらえるとでも?)
そっちの方が余程おぞましいだろうと、ラルフは自分の短慮と執着に蓋をする。
「…ラルフ、傷は治療しておけ」
館の入口に辿り着くと、扉に手を掛けながら、有角は不承不承背後に声を掛ける。
「このくらい大した事ない」
元から自分でつけた傷だ。滲む血も圧迫すればすぐに止まるのだから、強がりでもなくラルフはそう答える。
「貸せ」
振り向いた有角は有無を言わさぬ力でラルフの腕を掴む。どこまでも意に沿わない相手に不機嫌そうな態度は隠さないまま。
「っ、」
ナイフの傷に色のない唇が触れ、濡れた舌に舐めあげられる。
生暖かくて冷ややかで、じりっと痛い。
「痛い」
非難の意を表すためだけに文句を言うと、流れる黒髪の間から鋭い目が見つめてくる。
「自業自得だ」
そう答える血で汚れた唇までが艶めかしくて、外にも関わらず触れたくなる。
ラルフへの意趣返しのつもりなのか、この煽り方は大変たちが悪い。
「悪かったよ」
ラルフは簡単に白旗をあげてみせた。
実感の籠もらない謝罪は空気のように軽く、有角は余計に不機嫌な顔をしながら、ラルフの傷に軽く噛みついた。牙はなくともさすがに痛い。
「分かった分かった。もうやるな、と言いたいならそう言えって」
「お前が言って聞くならそうするが。少しばかり肝に銘じてもらう必要があるようだからな」
どうやら本当に怒っている訳ではなさそうだが、大いに機嫌は損ねているようだ。その程度で済んで良かったと思うべきか。
(意地っ張りで嫌味で。そんな奴に惚れた俺も、全く困ったもんだ)
ため息混じりに呟くと、お前には負ける、と有角はまた嫌味を返してきた。