(どうせ聞いても馬鹿にされるだけだろうけど)
「なぁオニイチャン」
頬杖を付きながら気怠げに喋るダンテに対し、
テーブル向かいの片割れは顔も上げずに本に目を落とし続けている。
今は知っている。あれは、文字に目を向けることで考え事に耽っているのだ。そんな兄の気を引きたかった頃の感覚はもう忘れてしまったのに、物静かに本を携える姿はついこの間まで見慣れた姿を思い起こさせる。
「完全な人間だったらって思ったことないか?」
「もうなった」
ない、愚かな考えだ、無視などの反応を想定していたダンテは、想定外だった即時の返答に自分がなぜそんな問を発したのかの理由すら頭から吹き飛んだ。
(きっと、なんとなくだろう。それより)
遅れてバージルの返答の意味を考え、答えはすぐ目の前にあることに気付く。
兄の手元の古びた本に書かれた『V』の文字。
それは、その『名前の持ち主』が肌身放さなかった詩集だ。
ダンテには今も昔も内容に興味はない。それが『あの日』の兄の持ち物だったことも知らなかった。けれどバージルには今も昔も、異なるとはいえ意味のあるものなのだろう。
バージルは一度、閻魔刀の力によって完全な魔と完全な人に分かたれた。
強さゆえの弱さ、弱さゆえの強さの両極端を経験した今の彼の精神はどのようなものなのだろう。まるで変わっていないように見えて、ふとした仕草に変化を感じることもある。
一言でダンテを黙らせたバージルは、間を空けながらようやく顔を上げた。
ほら今も。
これまでほとんど見た記憶がない、口の端を上げて笑う双子の兄の姿は、自分と瓜二つのそれではなく臆病ゆえに皮肉屋だった黒い男を思い出させる。
「俺が」
バージルは自分を指して、それから言い直す。
「…俺たちがただの人間だったら、最初の『赤い墓』で死んでいただろうな」
そう言って、閻魔刀を操る切れ味の良い指先をダンテに向けた。
不思議と、その刃は届くようで届かない実感がある。どれだけ近づいたとしても、自分たちの足元は大きな断崖で隔たっているような感覚。かつて、自分の手を斬り払い魔界の奥底に身を投げた兄の姿はいつまでもダンテの瞼の裏にちらつく。
「………」
あの時こうしていれば、こうじゃなかったら。
そんな後悔はしたことがないと言いたいが、バージル相手にだけはその考えが時折脳裏を過ぎる。
共に人と魔を半々に分け合った筈が、辿った人生は不条理なほどに違う。人に交わり生きていくよう導かれた自分、人に交わることなく生き抜かなければならなかった兄。
母の死が全ての起点で、何が間違いで何が正しさなのか、少なくとも自分が断罪することではない。
ただ感じているだけだ。
『ユリゼン』が引き起こした騒動でレッドグレイブ市は壊滅し、老いも若きも隔てなく命を落とした。
それはかつて、生家を襲われ母を喪った自分たちの姿なのではなかったか。
非難したいわけではなく、ただそれを思い出して口に出す。
「レッドグレイブはもうない」
「そうだ。俺が取り込み、食らった」
そのとおり。バージルはきっと後悔などしていないだろう。ただ自らが成した行為として受け止めているだけだ。かつて子を成して消えたように──そこに倫理や功罪の介在する余地はなく。
悪魔の力を切望するがゆえ、人の世には到底許されない行動を繰り返す。だが、ダンテに到底兄を糾弾する気は起きない。同情は尚更。
人の命がどれだけ軽いか、悪魔相手の稼業に関われば嫌でも身に沁みる。人の運命は悪魔にかかれば弄ぶためのものであり糧を得る手段でしかない。
そうだ、だから最初の問に行き着いたのだった。
俺たちがスパーダに関わらない者だったら。
俺たちが純粋に人間として生まれていたら、こんな運命ではなかったのかもしれないと。
そしてその下らない感傷は一刀両断された…俺たちは半魔だからこそ生き延びたのだ。
そして、結果的にレッドグレイブの人間の命でバージルは永らえた。死にたくない、と願った一人の男の願い通りに。
誰かは、誰かの犠牲の上に生きている。
残酷な現実だ。
「それで、“遊び”がしたいのか?」
ぱたん、と本を閉じてバージルはダンテに対し臨戦態勢を取る。俺たちには、遊びも対話も喧嘩もみんな同じ意味だ。
「お陰様で、“お喋り”はもう十分だ。お昼寝の時間にしないか?」
応じる気のないダンテのはぐらかしに、バージルは鼻白んで矛を引っ込めた。
本当に残酷な現実だ。
膨大な犠牲があったというのに、それでたったひとつ得難きものを得た。
(あんたが生きて、俺の側にいる。それが俺には…)
噛み締めた言葉をいつものとおり飲み込んで、ダンテは頬杖のまま目を閉じる。