いつでも夜明け前が一番暗い目を閉じ、意識を飛ばす。
そこは例えるなら暗く閉ざされた闇の中。
しかし闇は彼にとって恐れるべきものではない。吸血鬼と人の間に、アドリアンの名をもって生を受けた彼に闇は揺り籠でもある。
闇の奥には扉がある。向こうとこちらを隔てるそれが開け放たれないよう、彼は留めているのだ。
生まれ育ったこの場所で。
この城の玉座で、アルカードの名で、魔王たる父を屠った。立ち向かう者とともに蘇り続ける父と戦い、日食の封印をもって幕を閉じた…筈だった。
だが呪いのごとき宿命は終わりはしなかった。
城から分かたれた魔王の魂は、転生を経て人の世に戻ったのだ。
それからは、有角幻也の名をもって父の転生体を見守り続けた。
たかが十数年。
彼がこれまで生き、これからも生きねばならない時間からすれば何ほどのものでもないが、有角には苦悩の時間でもあった。
転生体──来栖蒼真は成長とともに魔王への目覚めに近付いていく。それを阻止することはできないと悟り、苦肉の策で、日食の封印の中に蒼真を導いた。
ゴン、ゴンと扉を叩く音が聞こえるかのような、人では感知できない感覚に向けて闇の向こうから響いてくる。
(……)
有角はそちらへ意識を向けつつも、目下の考え事にふける。
(蒼真は…辿り着けるだろうか。城の最奥のさらに深部…邪悪の根源へ)
蒼真はそこへ至るだけの魂を示した。だから彼の魂はその正体を表し、道が開かれた。
そこへは魔王の魂を持つ蒼真自身しか入ることができない。魔力と魂、ふたつが揃うことを待つものの元へ。
キィ、と扉が僅かに開かれたような感覚と、待ちきれずにこちらへ這出ようとするもの。
だがそれを許すわけにはいかない。
(出てはこれまい。俺の力が及ぶ限り邪魔はさせない)
『それ』は扉を塞ぐ有角に靄のように忍び寄り、喉元に、腹に、目元に、憤るように絡みつこうとする。有角はそれを『力』で抑えつける。その繰り返しだ。
有角自身の力は、こうして、蒼真に邪悪な意思が一度に流れ込まないよう抑えることで消耗させられていた。
この城に残る者たちは非戦闘員も負傷者もおり、結界で守ることも必要だ。全員の残った力を集めても、蒼真に声を届けることしかできない。
訳のわからぬ歯痒さばかりがつのる。
「アル…、有角」
集中するため伏せていた目を開くと、焦茶色の癖毛が目に飛び込む。有角の知る限り彼の血統は皆こんな色の髪をしていた。
有角を覗き込むようにユリウスが立っている。
名前を呼び損ねることは、長く失われていた彼の記憶が戻った証だ。
「首尾はどうだ」
ユリウスの問に、有角は僅かに頷くだけで返す。
こうして護り続ける限り、蒼真は正気を保ち続けることはできるだろう。
──せめて監視の目が届く場所で覚醒させるしかないと、有角は蒼真を城に導いた。そしてそれは狙い通りに成された。
できることはここまでだ。
あとは蒼真次第。
その結果がどう転ぼうとも、だ。
「──………」
ユリウスは俯く有角から踵を返そうとしたが、視線を外そうとして、それを見てしまった。
近くにいたユリウスしか気付かない程度に。
膝の間で軽く組まれた色のない両手が…恐れに震えている。
「…何を恐れている?」
思わず問うと、有角は再び顔を上げた。
紛うことなき怯えの色をたたえた瞳を確かにユリウスは見てとる。
「……俺は、…、…俺が…」
有角の言葉はひどく頼りない。それを受け、ユリウスはより小声で問い返す。
「あいつが負けると思っているのか?」
「…………」
違う、そうではない、と有角は思う。
必ず勝てるとは思っていない。もし蒼真が邪悪な意思にのまれた時には、魔王の君臨を止めなければならない。これまでもそうしたように。
だが、蒼真が蒼真であることを有角は知った。
蒼真は、望んで闇の力を求めた人間とは違う。
力なく闇に蹂躙されるだけの民衆とも違う。
魔王になるということは、来栖蒼真としての生を根こそぎ奪われながら、来栖蒼真であり続けなければならないということだ。
終わりなき魔王としての宿命に落とされるのだ。
──そうさせないために、蒼真を殺さねばならない。
「………ユリウス」
有角の揺らぐ瞳が、彼が信を置く数少ない人間、ベルモンドの末裔に、縋るように注がれる。
笑っている気がする。
扉の向こう側の意思が。魔力の器となるべき者を、導いてくれて、感謝すると。
お前がそうしたのだと、恐れ、慄く有角を嘲笑っているように思えてならない。
「ドラキュラを止めるために蒼真を犠牲にすることは──正しいのか?俺は…お前がいぬ間に、取り返しのつかないことをしてしまったのか?」
ユリウスは努めて顔に出さず、心から驚いた。
(アルカード……変わったな…)
かつて共に戦った彼は、生い立ちと経験に裏打ちされた信念に真っ直ぐに従っていた。魔物を、闇に落ちた人間を手に掛けることを厭わなかった。それは闇と戦う者が迷ってはいけないことだ。
だが今の有角はこれほどに迷っている。臆している。世界を天秤にかけることであっても。
来栖蒼真というひとりの男の生を見守り続けた時間が、彼の何かを大きく変えたのだろうか。それとも、混沌というものの影響が有角に降りかかっているのか?
いずれにせよ、その問いに答えてやることは今はできない。
「まさかとは思うが…、いや、有角」
(蒼真を手にかける覚悟がないのか?)
ユリウスは、出かかった言葉を飲み込む。
万が一そうなったら、自分が蒼真との約束を果たせばいいだけだ。いまさら釈迦に説法しても意味はない。
「……蒼真を案じる気持ちは、今は信じることに使え。願うことにでもいい」
「願、う……」
「ああ、そうだ」
初めて聞く言葉のように繰り返す有角の肩を、ユリウスはぽんと叩いてやる。
「…あっちはもういつでもいけるらしい。蒼真に声が届いたら、一声かけてやれ」
事ここに至り初めて弱音を吐いた有角を、覚悟がないなどとは思わない。
言えるものなら伝えたかった。
魔王の宿命を蒼真に負わせることになったとしても、お前のせいではないのだと。
(…そんな慰めで、お前の心が軽くならないことは分かっちゃいるがな)
自分よりはるか永きを生きてきた存在を、このときほど身近に感じたことはなかった。
「これが最後のチャンスだ…」
有角は絞り出すように、蒼真への願いを言葉に乗せる。
「頼む……」
どうかお前を、俺に、殺させないでくれ。