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    フェイジュニ♀

    嘘つきは恋人のはじまり⑥「諸事情あってさ、恋人が必要なんだよね」
     おれたちの関係をはじめたのは、クソDJの一言だ。
     だけど終わりの一言を待てるほど、おれには余裕も何もなくて。しばらく避けて、避けまくっておれが出した結論は、自分から別れを告げることだった。
     好きになって欲しかったのは本当だ。本物の恋人同士になりたかったのも本当。だけどその見込みが限りなく少ないのに、これ以上この気持ちを大事に大事に抱えられるほどおれは出来た人間じゃない。
     呼び出した屋上は真冬の夜らしく冷たい風が吹いていて、この恋を儚く散らすのにはちょうど良い場所だと思えた。
     来ないかもと思っていたソイツはおれよりも先に着いていたようで、姿を見るなりゆっくりとこちらに歩き出した。買い物帰りなのか大きな紙袋を持っている。前に見た女の人との時間を邪魔していたら申し訳ないとも思ったが、終わりくらいちゃんとしたい。
    「悪い、待たせた」
    「俺もいま来たところだから気にしないで。おチビちゃんから話があるって聞いたら嬉しくて少し早く着いちゃって」
    「ふふっ、なんだそれ…」
     別に好きでもなんでもない相手にまで、気を遣わせないように優しい嘘を吐いてくれる。それを軽薄だと思うやつもいるだろうが、おれはそういうところもクソDJの美点だと思っている。
     おれの好きになったところのひとつだ。
    「パトロール、寒かったでしょ」
    「まあぼちぼち」
    「うそ、鼻の頭真っ赤になってるよ」
     男らしい節くれだった指がおれの鼻にそっと触れる。見つめたら吸い込まれそうなマゼンタが少しずつ近づいてきて、キスでもしそうな距離に、クソDJが、いる。
     唇の代わりに鼻先だけが掠って、端正な顔が離れていく。最後の最後にも、キスだけはしてくれない。おれとクソDJは、偽物の恋人だからだ。
    「あのさ、それで…話なんだけど」
    「うん」
     冬の夜で良かった。泣きそうになって声が小さくなっても、この静けさならクソDJの耳までちゃんと届くだろうから。
     本当は言いたかった。鼻が赤いのは、寒いからだけじゃなくて、ここにくる途中ずっとお前と別れるための言葉を用意してたからだって。
    「おまえと恋人になってから、毎日悪くなかったよ」
    「…嬉しいな」
    「おまえは優しくて、たくさん甘やかしてくれて…頼ってほしいって言われたときは、おれのこと女の子扱いしてくれるんだって、それも嬉しかった」
    「そんなの当たり前でしょ」
    「どんどんおまえと離れたくなくなって、気持ちが膨らんで…自分がどんどんダメになっていくのが分かった」
    「え…」
    「もう誰かのことを憎らしく思いたくないし、お前のことをこれ以上好きにもなりたくない。だから…」
     別れてほしい。
     視界がぼやけてよく見えないけど、クソDJがおれのことをじっと見ていることは分かった。偽物の恋人なのに、少し優しくしてやっただけなのに、面倒なやつに声をかけてしまったと思うだろうか。
     それでもいい。もう二度と、おれを自分の都合に巻き込まないでいてくれるならそれで。

    「俺のこと、嫌いになった?」
     クソDJが聞いてきたのは、その一言だった。泣いてしまったせいか、クソDJの声まで震えて聞こえる。冷たい風が頬を突き刺すように去っていった。
    「もうわかんねー」
    「そっか」
     これ以上好きになりたくないと言ったり、分からないと言ったり。だけどどちらも本当のことだった。頭の中はぐちゃぐちゃで、もう自分の気持ちすらよく分からない。頭の中に浮かぶのは、クソDJと過ごした毎日のこと。本当の恋人みたいに優しくしてくれたひとりの男の顔だけだった。
     突然なにかに遮られたみたいに風が止んで、身体がきつく抱きしめられる。クソDJに抱きしめられていると分かったのは少し経ってからのことだった。
    「…おまえ、いまの話聞いてたか?はなせよ」
    「俺前に言ったよね。困ってるときは一番に俺を頼ってほしいって」
    「言ったけど、それがなんだよ…」
     忘れるわけがない。とはいえ困っていると頼りに行く前にあれこれ世話を焼いてくれていたから、実際に相談したことはほとんどなかった気がするが。それも別れたらおしまいだろう。ただの同僚の悩みを解決する義理はないはずだ。
    「俺にはさ、いまのおチビちゃんの話、助けてって言ってるように聞こえたんだけど」
    「……え」
    「やっと頼ってくれたね」
     身体が浮くくらい強い力で抱きしめられて、すこし痛いくらいだ。だけど寒い日に布団の中でいつも大事にあたためてくれていた腕と同じ力加減で、同じ匂いがすることがどうしても嬉しかった。
     助けてなんて言ってない。離れたいって言ったんだ。
     そんな強がりを吹き飛ばすくらいわがままな抱擁に、膜を張っていた涙が粒となって溢れ出る。大きな手が頭を撫でてくれるのが心地よかった。
     少し経って離れると、涙も落ち着いた。改めて言えるはずだ。
    「やっぱりおまえとは別れたい。好きな気持ちを抱えたまま、偽物の恋人は続けられないから」
    「……おチビちゃんが真面目で超頑固なの、忘れてた」
    「うるせー」
    「気持ちが分かった後でこんなことするの、ちょっとズルい気もするけど…」
     アハ、と聞き慣れた声で笑みをひとつこぼしたクソDJは、持ってきていた紙袋から小さなギフト用のジュエリーボックスを取り出した。そっと開かれた中にはリングの付いたペンダントが大事そうに仕舞われている。
    「おチビちゃん、おれと本当の恋人になってください」
    「…え」
    「もしかして、ダメ?さっきの言い方だと、本当の恋人同士になら、なってくれるかなと思ったんだけど」
    「そうだけど、それが出来ないから、別れようって…」
    「そもそも俺、一言もおチビちゃんのこと好きじゃないなんて言ってないよ」
     え、と驚いてムカつくほど整った顔を見上げると、悪戯な言葉とは裏腹に穏やかな表情をしていた。愛おしいと心の底から伝えてくるようなその目を、コイツは一体いつからおれに向けていたんだろう。
    「これ、つけてもいい?」
    「うん、いいけど…」
     ペンダントを器用におれの首元に飾ったクソDJは、やっぱり似合うだなんだと穏やかな声で褒めるから、聞いているこっちが恥ずかしくなってくる。
     本当の恋人になるかどうか、迷うはずもない返事を保留にしているのがモヤモヤした。
     だけどどうしても聞かなければならないことがあるのだ。
    「じゃあ、あの女の人は誰なんだよ…」
     いまおれの胸元に光っているペンダントと、あの日クソDJたちが消えていった方向にあるジュエリーショップは同じはずだ。
    「もしかして、見てたの?」
     それだけ呟いたクソDJは、甘えるようにおれの身体を抱きしめてのしかかってきた。
    「ダサいな、俺…いや、女の子といたこともだけど、買うとこ見られてたとか…」
    「ごまかすんじゃねーぞ」
    「ごまかすも何も、名前覚えてないくらい前のカノジョ。多分俺がジュエリーショップ入るとこ見て、あわよくば何か買ってもらおうと思ってたんじゃないの」
     確かにあのとき、抱きついていたのは女の人だけだった。向こうに歩いていく姿しか見ていないから、クソDJがどんな表情をしていたのかは見えなかったけど、よくよく思い返してみるとデートって雰囲気ではなかったのかもしれない。
    「じゃあ待ち合わせしてたわけじゃ…」
    「そんな訳ないでしょ。おチビちゃんのためのペンダント買いに行ったんだよ」
     クソDJが、おれのことだけを思って選んでくれたプレゼント。
     それだけで胸を覆っていたいやな感情が全部無くなってしまうくらいに嬉しかった。
    「…そっか」
     クソDJが選んでくれたそれをそっと手で触る。可愛らしいけれどシンプルなデザインは、おれが付けていても違和感がないだろう。色仕掛けだなんだと考えていたあの日の自分がバカらしく思える。クソDJはもうずっとおれのことを見ててくれていたというのに。
    「なあ、さっきの返事してもいい?」
    「うん、聞かせてほしいな」
    「その前に、もういっこ聞きたいんだ」
     なんで、偽物の恋人が必要だったんだ?
     そう聞くと、クソDJは目を丸くさせて、それから気まずそうに笑った。いまの破顔は、周りに人がいたらさぞ女の子たちをメロメロにしたことだろう。寒さで鼻が真っ赤になっていなければの話だが。
    「偽物の恋人が必要だった訳じゃなくて、おチビちゃんにお試しでもいいから付き合ってほしかったんだよね」
    「おれに…お試しで?」
     クソDJいわく、おれが恋をしている顔をしていたらしい。誰のことを考えているのか分からなくてモヤモヤしていたから、自分を意識してもらおうと嘘をついて偽物の恋人になったのだとか。
    「そんなのアリかよ…」
    「だってさ、あの時のおチビちゃん、甘いものでも食べてるんじゃないかってくらい幸せそうな顔してて…」
     誰にも渡したくなかったんだ。
     恋をしている顔だった。いつから、なんて野暮だ。こいつはずっと、おれに恋をしていたんだから。いままで一緒に過ごした時間を思い出すと、頬に熱が集まったのが分かった。
    「冷えちゃったね、帰ろっか」
     お互いに冷えきった手を繋いで、部屋までの道を歩く。こんなふわふわとした気持ちでこいつとここを歩くことになるなんて思ってもみなくて、我慢しようとすればするほど口角が上がってしまうのが分かった。
     寝る支度を済ませてちらりとクソDJのベッドを見ると、まるで当然とでもいうように布団の半分のスペースが空けられていた。おそるおそる自分から入ると、すでに人肌でじんわりとあたたかい。
     いつものように回された腕を邪魔しないように、今日はおれも抱きしめ返す。
    「あったかいね」
    「そうだな」
    「外してきちゃったの?」
     さらりと首筋を撫でられて、思わず身震いする。一緒に寝ることはあっても、抱きしめたり手を握ったりする以外の接触は思えば初めてだった。
    「無くしたらかなしいだろ…」
    「アハ、そうだね」
    「…どうして急に、ペンダントなんだよ」
     屋上にいる時から思っていたことがポロリと口から漏れた。「なぜ」や「なんで」が浮かびすぎて出す機会を無くしていたが、聞かないままなのはなんとなくモヤモヤする。
    「急に…やっぱり分かんないか」
    「やっぱり、ってなんだよ」
    「俺とおチビちゃんが付き合い始めて…といっても偽物の恋人になって、だけど…あれから一ヶ月めなんだよ、今日」
    「もうそんなに経つのか…」
    「だからケジメを付けたかったというか何というか…まあ俺にだってさ、カッコつけたいことはあるんだよ」
     好きな子の前ならね。
     そんな言葉にもどうしようもなくときめいて、恋をしてしまうから。早鐘のようになっている鼓動だけは回された手のひらごしに伝わってしまわないように、ぎゅっと両手を握る。
     あたたかくなった布団の中で端正な顔を見上げると、愛おしさを煮詰めたようなマゼンタの瞳が今度こそくっつくほど近くにいたから、目を瞑ってはじめてのキスを受け入れた。
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