師匠が師匠なら弟子も弟子店内はほどよく賑わっていた。カウンター席に並んで座る二人の前には、湯気の立つ料理とグラスが並んでいる。
そんな中、クロバがふいに声をかけた。
「なあ」
ジャックは箸を止め、わずかに目線を上げる。
「……なんだ」
「この前、ナワバリバトル、行ってたらしいな」
その言葉にジャックは一瞬目を瞬かせたが、すぐにそれを訂正した。
「いや。レギュレーションは確か、ガチヤグラだったか」
「え、ガチマッチ……!?」
ジャックの返答にクロバは目を丸くする。驚きと、ほんの少しの焦りが混ざっている。
「ルールにこだわりはない」
「そっちの方がナワバリよりもルールが難しいんだぞ」
「そうなのか」
「知らずにやってたのかよ……」
呆れ混じりに言い、クロバはため息をついた。しかしジャックはムッと眉間に皺を寄せる。
「ルールはもちろん熟知している。なめるな」
彼の意外な返事に、クロバは疑問に思いながらも訊ねる。
「ジャック、もしかして結構行ってるのか?」
「いや、行ってはいないが」
「じゃあなんで熟知している、なんて言えるんだ」
クロバが追及するように身を乗り出した。
するとジャックは少しだけ目を逸らし、わずかに口ごもる。
「…………、なんでもよかろう」
「じゃあ、なんで」
クロバは問い詰めかけたが、途中で言葉を切った。
言いたいことはある。でも、うまく口にできない。
逡巡のあと、彼は視線を伏せたまま、低い声でぽつりと言った。
「慣れてないなら、勝手に、行くなよ」
思いがけない言葉に、ジャックは眉をひそめる。
「は? 俺が何をしようと勝手だろうが」
「そうじゃなくて」
強く言い返されても、クロバは怯まなかった。
ジャックをまっすぐに見つめると、真剣な表情で続けた。
「勝手に一人で、行くんじゃなくて……、慣れてるやつと行けばいいだろ」
──俺とか。
最後の一言は、ほとんど聞き取れないほど小さな声だった。
ジャックは箸を持った手を止め、クロバをじっと見る。クロバはもうそれ以上何も言わず、無言で料理に視線を落とす。その言葉の裏に込められたものに気づいたジャックは、しかし何も言わず、無言で首筋を掻いた。
Ψ
飲食店を出てからの帰り道。クロバはふと足を止め、空を見上げた。
「……あ」
わずかに驚いたような声が漏れる。昼間は曇っていたが、いつの間にか細かい雨が降り始めていた。街灯の明かりに照らされて、しとしとと落ちる雨粒が浮かび上がる。隣を歩いていたジャックも立ち止まり、「傘なんて持ってないぞ」と無頓着に言う。
「大丈夫だ。折り畳み傘がある」
クロバはそう言うと、鞄の中から小さな傘を取り出した。しかしジャックは呆れたように肩をすくめてみせる。
「ある、と言っても一つだけだろうが」
「二人くらいなんとかなるだろ」
淡々と返すクロバに、ジャックは顔をしかめた。
「俺の体を見てそれが言えるか?」
言われて、クロバはちらりとジャックの体を見やった。自分が165cmなのに対し、ジャックは明らかに頭一つ分は高い。横幅もがっしりとしていて、肩も広い。確かにこの傘に収まりきるものではなかった。
クロバはほんの少しムッとしながら、小さく言い返す。
「分かってるよ。でも全身濡れるよりはマシだろ」
それでもジャックは動じず、むしろあっさりと言ってのけた。
「俺は濡れて構わん。お前が差せ」
その無遠慮な一言に、クロバは声を強めた。
「何言ってるんだ、ほら」
傘を差し出そうとするが、彼は無視してすたすたと歩き出してしまった。雨が次第に強さを増していき、ジャックは体を濡らしたまま歩き進んでいく。
クロバはその背中を見つめ、ぎゅっと唇を噛む。
しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて意を決したように傘を閉じると、ジャックの隣に並んだ。それに気づいたジャックが振り返り、「おい」と声を上げる。
「何をしている」
「ジャックがそうするなら、俺もそうする」
静かで、しかし揺るぎのない声だった。
ジャックは思わず足を止める。そして、クロバをキッと睨みつけた。
「貴様……、その歳にもなってガキのようなことをするな!」
「だったら一緒に入れ」
淡々と返された言葉に、ジャックはしばし沈黙した。
冷たい雨が二人をじんわりと濡らしていく。互いに見つめ合いながら、言葉のない時間が流れる。
折れたのは、ジャックの方だった。
深いため息をひとつつき、彼はクロバの手から傘を取ると、無言で差した。
狭い傘の下。互いの肩がわずかに触れそうな距離で、二人は言葉もなく歩き出す。静かな雨音に包まれながら、小さな傘に収まった背中だけが、等しく濡れていなかった。
Fin.