厚意と好意の境界線ナワバリバトルが終わり、ロビーを出た後のこと。
「お疲れ様。はい、お弁当」
そう声をかけながら、イアはクロバに巾着袋を手渡した。
「ああ。ありがとう」
素っ気なくも感謝のこもった言葉を返しながら、彼はそれを受け取る。巾着袋の生地は、彼の頭と同じような緑色をしていた。袋の中身を見る前から、どこか温もりのようなものが伝わってくる。
クロバは手早く紐を解き、袋の中から弁当箱を取り出した。蓋を開けた瞬間、ふわりと香ばしい匂いが立ちのぼり、鼻先を優しくくすぐる。
中身はおにぎりに卵焼き、ウィンナー、ミニトマトといった馴染みのあるおかずが中心だったが、ふと目を引く煮物があった。手の込んだそれを箸でつまみ上げながら、「これは?」とクロバが口を開く。
「鶏肉と……、ごぼう?」
「そう。鶏肉とごぼうの当座煮だよ」
「とうざに?」
「お肉とごぼうをお酒とお醤油で炒めて、最後にちょっとだけ山椒を入れてあるの。濃い味付けで煮ておくことで、しばらく日持ちするのが特徴なんだ」
「へぇ、それを当座煮って言うのか」
「うん。……えっと、どうかな? 普通にお肉だけ炒めた方が好き?」
不安げに問いかけるイアに、クロバは淡々と、しかし真っ直ぐに答えた。
「いいや。美味しい」
その一言で、イアの表情がふわりと緩む。
「ほんと? よかった~」
安堵と喜びが入り混じったような笑みだった。だが、ふと疑問に思ったクロバが問いかける。
「なあ。これ、自分で食べたか?」
「え? ううん。味見だけで、まだ……」
「それなら食べてみろよ」
そう言うと、クロバは迷うことなく箸を動かし、例の当座煮をつまんでイアの口元へと差し出した。
「……ほら」
その思わぬ行動に、イアの目がぱちりと見開かれる。何が起きたのかを理解した瞬間、彼女の頬はみるみるうちに赤く染まっていった。熱がじわじわと顔全体に広がっていくのが自分でもわかる。
二人の間に流れる空気が、ふっと止まったかのようだった。
クロバはそんなイアの反応に小さく首を傾げる。「どうした?」と問いかけるが彼女は答えない。その代わり、けたたましい叫び声が聞こえてきた。
「うぉおい! 真っ昼間からロビーの前で堂々とイチャイチャイチャイチャしてんじゃねぇぞ、このクソクロバが!」
二人の前に、青いゲソを揺らしながら一人の少年が飛び出してきた。
「ペード……」
「クロバさん、これは人にもよると思うんですが、そういうことは二人きりの時にした方がいいと思いますよ」
今度はトウハが苦笑混じりに口を挟んできた。冷静なようでいて、声にはどこか呆れが滲んでいる。
「そういうことって?」
クロバが問い返すと、ペードが両手を広げて天を仰いだ。
「無自覚かよ?! てめぇは天然記念物か何かか?! ろくに料理も出来ねぇくせしてよ!」
騒がしくなる周囲の声をよそに、イアはそっと箸を伸ばした。さっき差し出された当座煮を、今度は自分の手で摘まんで口に運ぶ。噛んだ瞬間、口いっぱいに広がる味に思わず頬が緩んだ。
その様子に気づいたクロバが、そっと彼女の方へ目を向ける。だがイアは慌てて視線を逸らし、片手で口元を押さえながらもぐもぐと咀嚼を続けた。
ちらりと彼を見上げると、頬を赤く染めたまま、呟くように言う。
「うん……おいしい」
その一言に、クロバの表情がほんの少しだけ柔らかくなるのだった。
そんなクロバを見ながら、イアは心の内で思う。
(クロバって……、誰にでも、ああいうことするのかな)
彼の優しさは、誰にでも平等に向けられるものかもしれない。だからこそ、自分にだけしてくれたわけではないと、そう思うのが自然なのだと、頭では十分理解していた。
それでも、あのとき差し出された箸先を受け取れなかった自分に対し、後からじわじわと後悔が押し寄せる。
頬の熱が冷めきらないまま、イアはぽつりと目を伏せた。
Fin.