晩秋これで何回目だろう。これを見るのは。
ぼんやりと浮かぶ愛しい人の穏やかな表情に、いまも俺は心を奪われたままだ。
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「……ナナミンち、泊めてくれない?」
電話で静かにそう告げた。
スマホの向こうからは相手の反応が無い代わりに近くを走る車の走行音が聞こえてきて、今外に居るんだ…と、21時を回った壁掛け時計に目をやりながら思った。
すると少し遅れて「…は?」という声が聞こえてきて俺は思わず小さく笑った。良かった、ダメですと開口一番に言われなくて。少なくとも今はまだ拒絶されていない。そう思って安心したが、拒絶されないようにこれから仕向けようとしているのだからどの道一緒なのかもしれない。子供という立場と、傷付いた心を理由に、今から自分はズルをしようとしている。優しいこの人が自分の願いを拒絶出来ないと分かっていながら。
声が震えないよう踏ん張るようにして腰掛けているソファーの肘置き部分で拳を握り締めると、連動するように革張りのソファーからはギュ、と音がした。
「なんか…最近ちゃんと眠れなくてさ。……あの日から」
蘇る記憶と緊張のせいか上手く表情が繕えなくて、笑っているような泣いているような表情になりながら言葉を紡いだ。
あの日。初めて『人』を殺した日で、『友人』を目の前で失った日。そして電話の向こうの相手から『呪術師』として認められた日。例の任務は自分を一回り成長させてくれたと思う。呪いというものが如何に残虐で無慈悲なものなのかを再確認した。…代償に様々な物を失って。
その1つがこの睡眠障害だった。眠るまでに時間がかかり、眠りについても悪夢を見る。こういう時に寮であれば隣の部屋の伏黒に頼る事も出来ただろう。しかし今は自分は死んだ事になっていて、会うどころか連絡すら絶っている状況だ。頼る事等出来ない。
そこで他に誰か頼れる人…と考えた時に真っ先に思い浮かんだのがナナミンだった。少しの迷いはあったものの、それと同じくらい狡い考えも頭を過り。結局それに負けて電話をかけた。
「俺と……一緒に、寝てくれない…?」
俯き加減で意を決して放った言葉の後、沈黙が二人の間に流れた。先程まで動画配信アプリから流れていた音楽もタイミング悪く終わりを迎えたらしい。
しかしこの沈黙さえ今は2人を変化から守る要因となっている。拒絶か許諾か。そのどちらを取ってもこれから2人の間に変化が生じる。今この時が、2人の関係性を美しいままで保てる最後の時なのだ。
「…分かりました」
沈黙を切り裂いたその静かな声に、俺は俯いたまま目を見開いた。
「1度帰ってから迎えに行きますので、必要な荷物を纏めておいてください」
それだけ言うとナナミンは「…では」とだけ言って電話を切った。
終わったと思った音楽は気付けば違う曲へと変わり冒頭が始まっていた。
それから暫くして迎えに来たナナミンの車に乗って彼の自宅へと向かった。自宅に到着するとネクタイを緩めながら「お風呂はどうしますか?」と聞かれたので「もう入った」と答えた。本当に1人が寂しくて眠れなくて、一緒に寝る為だけに電話をした事を今更申し訳なく思い始めて俯く俺をよそに、ナナミンは「そうですか」と短く答えるとネクタイを完全に外して手に持った。
ネクタイの解ける音にすら緊張して思わず唾を飲み込む俺に気付かないままナナミンは
「寝室はここです。先にベッドに入っていても構いませんが…どうしますか?」
と寝室のドアを指さした。
「い、いいの?勝手に入っても」
「えぇ。もう遅いですし…君も眠いでしょう」
「…眠れんから、電話したんだけど…」
「あぁ、そうでしたね」
なんてやり取りをして少しだけ緊張が解れたのか俺はホッと息をつくと「じゃあ…入らせて頂きます」と畏まって答えた。ナナミンはそれに笑うでもなく「どうぞ」とだけ答えると寝室のドアを開けて入るのを促し、そのまま着替えをクローゼットから取り出すと俺を1人部屋に残してその場を後にした。
ナナミンの寝室は物が無くて色が無くて…寂しい部屋だった。
それでも俺は部屋中に広がるナナミンの香りに安心したし胸がいっぱいになった。緊張しながらベッドに上がると真っ白なシーツに触れる。ここでいつも眠っているのか、と思いながら枕元に目を向けると金髪が1本落ちていた。それに愛おしさを感じながら気付かない振りをして枕を抱き締めて布団の中へと潜り込む。落ち着く匂いと質のいいシーツと布団の肌触りを感じながら目を閉じる。
幸せ、嬉しい、夢みたいだ。そう思うのに心はじくじくと痛んで仕方がなくて。俺は抱き締めた枕に顔を埋めて唇を噛み締めた。
善意で迎えてくれたナナミンを裏切ってこんな想いを抱えているなんて言えない。
俺はナナミンに、言えない気持ちを抱えている。
─────俺はナナミンに、恋をしている。
(…?、…頭が…重い………)
ぼんやりと覚醒しつつある意識の中、ゆっくり目を開けると目の前に目を閉じたナナミンの顔のドアップがあった。
睫毛の1本1本までしっかり見える程の距離の近さに驚いて目を見開くと、俺はそのまま石のように固まった。そしてその固まった状態ながらも瞬時に今の状況を理解しては息を飲んだ。どうやら俺は気付かないうちに寝ていたらしい。あんなに寝付きも夢見も悪かったのに、ナナミンの香りに包まれている安心感からかすぐに眠ってしまった。好きな人の香りって凄い。
そして頭が重かった理由。
(それは……)
チラリと視線をナナミンの顔から肩へと移す。
それは目の前で眠る彼の手が俺の頭上に乗っており、まるであやす様にして添えられていたからだった。
初めて見る眉間に皺の寄っていない彼の顔を見つめながら溢れ出しそうになる気持ちを体を震わせて耐える。頭を撫でてくれていたのだろうか?どうして?どんな思いで?どんな風に見つめていた?……俺の事、どう思ってる?
言えない言葉ばかりが浮かんできては胸を刺す。痛くて、嬉しくて、でも苦しくて。震える体を止める事は出来なくて、この感情を今自分の中で閉じ込める事は無理だと悟った時。遂に涙となってその感情が瞳から溢れ出した。
起こさないように頭に乗せられた手にそっと触れてゆっくりと下ろし顔の前に持ってくる。手のひらは硬くて厚くて、指も太くて長くて。小さな傷跡のついた手の甲は自分とは違って色が白く、伸びた指の先にある花弁のような爪は綺麗に整えられている。この手で今まで沢山の呪いを祓ってきたんだと思うと愛しくて。白い指を辿るようにして撫でては桜の花弁のような爪の先で止まる。
「……好き」
蚊の鳴くような声で1人呟いた。勿論眠っている相手から返事等返ってくる筈も無い。
でもそれでももう言わずにはいられなかった。流れる涙だけではもうこの気持ちを逃がせない。嗚咽となって相手に届いてしまう。だから、
「…好き、…好き…」
何度も爪先に口付けながら小さな声で言葉を繰り返す。
「好き……、っ…好き……」
届かないように、小さな声で、何度も。
「…好き……」
伝えられない想いを、独りよがりの愛を届け続けた。
そうして眠れない日は連絡をして、泊めてもらう事を何度か繰り返した。
すっかり甘えているという自覚はありつつも、決して拒絶しないナナミンに対して想いは募るばかりで。ナナミンが眠って暫くした後に目を覚ましては彼の綺麗な指先を静かに撫でながら俺は何度もこう思った。
これで何回目だろう。これを見るのは。
ぼんやりと浮かぶ愛しい人の穏やかな表情に、今日も俺は心を奪われたままだ。
このまま時が止まればいいのにと思う。このまま隣で寝て…ずっとずっと一緒に居られたらいいのに。ナナミンが眠ってる傍で、俺はそんなナナミンの指先に触れていたい。
こんな幸せな、夢みたいな時間が、ずっと続けばいいのに。
そんな事を考えながらナナミンを見つめていると、
「虎杖君」
とふいに目を開けたナナミンがこちらを見つめて名前を呼んだ。
今まで何度も泊まって一緒に隣で寝てきたが、こんな事は初めてだった。身体中の意識、五感全てが相手に向けられて、突然の事に心臓がドクドクと脈を打つ。こちらを見つめる深い緑の瞳を前に動く事も出来ない。
嫌な予感が、した。
(……嫌だ、言わないで)
そう思うのに言葉が口から出なくて。はくはくと口を動かしながらただ見つめるだけしか出来なくて。触れていたはずのナナミンの手は、気付けば俺の手の中から離れていた。
何も言えずに固まる俺を見つめるナナミンの表情は穏やかで、慈しむような目をしていた。まるで愛していると伝えているかのような優しい眼差しに自然と体が震え出す。
(嫌だ、嫌だ…)
ナナミンのそんな穏やかな表情と眼差しが俺は何故か怖かった。どうしてかは分からない。でも初めて見たはずのそのナナミンの姿に頭の中で警鐘が鳴る。
俺はナナミンに向かって手を伸ばした。
しかしその手は彼の花弁のような爪先を掠めただけで、捕まえる事は出来なかった。
そしてナナミンは、初めて俺の前で笑った。
「後は頼みます」
その言葉と共に彼の姿は弾けた。
金木犀の花々に変わって、甘い香りを残して。
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「……悠仁?」
耳に届いた声に意識がゆっくりと浮上していく。
「…大丈夫か?」
横から聞こえる声に顔を上げると心配そうに見つめる俺の兄だと名乗る男が居た。
寄りかかっていた体を起こし「…悪い」と謝ると「お兄ちゃんの事は気にするな」と返された。…だから俺に兄貴は居ないんだって。
「…嫌な夢でも見ていたのか?」
「え?」
「泣いていたから」
その言葉にハッとして顔を上げると同時に冷たい風が吹いた。濡れた頬の感覚を知らせると共に微かに金木犀の香りが鼻を掠める。少し前まではいつだって、どこに居たってこの香りが漂っていた筈なのに。今はもうほとんどその香りはしない。秋が、終わろうとしているのだ。
薄れていく香りに秋に出会ったあの人の面影が重なり言葉を失う。
「…悠仁?」
黙ってしまった俺を不思議そうに見つめながら男は声をかけた。
「……ただの花粉症」
そう言うと俺は立ち上がって涙を拭って歩き出した。瓦礫を踏み締めながら震える唇を誤魔化す。散々泣いて枯れ果てたと思っていたのに、まだ涙なんて出るのか。泣く資格なんてもう、俺にはないのに。
これで何回目だろう。これを見るのは。
ぼんやりと浮かぶ愛しい人の穏やかな表情に、いまも俺は心を奪われたままだ。
「…金木犀の、せい」
そう小さく呟いた言葉は、誰にも届くこと無く風に吹かれて消えた。