初めての喧嘩「喧嘩するほど仲がいいって良く聞くけど、俺とナナミンって喧嘩した事ないよな」
ソファーに座り私は小説を、彼は漫画を読んでいる最中にふと彼が呟いた。
あまりにも突然の話題で思わずフリーズする。…喧嘩?何故喧嘩?私に何か不満でもあるのだろうか?お前はプライベートだと口下手だと言われる事が多々あるが、そのせいで何かあらぬ誤解が生まれてしまったのかもしれない。彼に真意を聞かなくては。
「私と喧嘩がしたいんですか?」
そう問いかけると彼は笑いながら「まさか!つーか俺らが喧嘩したら家壊れるって!」と言って読んでいた漫画を閉じた。
家屋を破壊する程の喧嘩とは?と思わなくも無かったが、理由によっては十分に有り得る気もしたので私は彼に倣うようにして読んでいた小説を閉じて彼の話に耳を傾けた。その間も彼は何を想像したのかソファーの上で笑い転げながら「壊れる壊れる!」と連呼していて、笑う彼に合わせて喉仏が上下に動いていた。
噛み付いてやりたい。彼の喉仏を眺めながらそう思い喉を鳴らすと、私は獲物に覆い被さる為に身を寄せ……かけた所で、目の前の獲物が勢いよく起き上がったのでそれは失敗に終わった。
「別に喧嘩したいわけじゃないよ。ただ喧嘩する程仲がいいって言われるからにはやっぱ理由あんのかな〜とか、じゃあ喧嘩しない俺達ってそんなに仲良くないのかな〜?ってちょっと思っただけ」
そう言いながら此方を見つめる彼の言葉に眉を寄せて「仲はいいでしょう」と言い返すと、それも面白かったのか再び彼はケラケラと笑いながら「ヨスヨス〜」とか何とか言って私の頭を撫で回し始めた。私の事を犬か何かだと思ってるのだろうか。その行為を不服に思う反面、僅かばかりの喜びも感じるのだからどうしようもない。
頭を撫でる彼の手首を掴むと乱れた前髪の隙間からじっと彼を見つめる。覗いた瞳から不穏な空気を感じ取ったのか彼は直ぐに大人しくなった。こう見えて彼は聡いと知ったのは一体いつの事だっただろう。
「喧嘩する程仲がいいというのは、怒りという感情に互いの率直な思いを乗せてぶつかっても崩れない関係性の喩えです。…でもだからといって感情に任せて何でもかんでも言っていい訳じゃない。喧嘩しない方がいいに決まっているでしょう」
そう話す私の言葉に、彼は「なるほど…」と手首を掴まれたまま納得した。
「じゃあ俺達は普段から言いたい事言い合ってるから喧嘩しないって事?」
「そういう事です」
「そっかぁ〜…」
嬉しそうに、少し照れくさそうに目を伏せて笑う彼を見ていると拘束したままの手首が何だか可哀想に思えてきて。私は握っていた手を解いた代わりに今度は優しく彼の指先を握った。私とは違って指先まで彼は温かい。
「まぁ…君はもう少し私に胸の内を晒してくれてもいいと思いますが」
温かい彼の指先を見つめながらそう呟くと彼の指先が微かに揺れた。
「え〜俺言いたい事はちゃんと言ってるけど?」
おどけた様な彼の声を聞きながら私は心の中で嘘だと思った。
…いや、確かに彼は多くを私に許しているし言いたい事も伝えてくれる。自分が彼の周りの他の誰よりも特別であるという自覚もある。
だがそれでもまだ足りないのだ。彼の見せてくれる心の奥の深い所にある思いの、まだほんの一部しか私は知らない。彼の抱える悲しみや苦しみといった暗くて重いその感情を、どうか私にも肩代わりさせて欲しい。そう思うのに。どれだけ関係性が先へと進み許されても、心の奥深くの思いだけは慎重に選んで彼の口から紡がれる。
その姿が愛しくて、少しだけ寂しい。
歳下の可愛い恋人を眺めながら私は考える。私はひょっとしたら彼と思いを乗せた喧嘩をしたいのかもしれない。相手の事を考える余裕等ないくらいの、立場や遠慮を取り払った喧嘩を。
「ナナミン?」
黙ってしまった私の様子に首を傾げながら彼が名前を呼ぶ。引っぱたくと言っていたその呼び方も結局は許していて。私は彼を一度たりとも引っぱたく事は無かった。
己を意識的に律して生きてきたせいか、怒りの沸点が高いのだ。…いや、それは違うか。怒りの沸点自体は低い方かもしれない。ただ喧嘩っぱやい性分ではないのは確かだ。怒りを感じたとしてもそれを行動に移すという行為を私は選ばない。だから彼と、喧嘩をした事がない。
どちらか片方が降りてしまえば喧嘩にならない。喧嘩は1人では出来ないものだ。それにやはり、喧嘩をするよりも仲がいい方がいいに決まっている。
だから私は─────…
「…虎杖君」
「オスッ!」
「しますか、喧嘩」
「…えっ?」
私の提案に彼が素っ頓狂な声を上げた。
それもそうだろう。仲がいい方がいいと言ったのは私なのに、そんな私から急に喧嘩をふっかけられたのだから。
「思いをぶつけあいましょうか」
そう告げると寝室の方を指差す。
私の指の先を辿り意図する事が分かると彼は顔を赤くして固まった。そう、彼は聡いのだ。
「…ナナミンの、えっち」
「何とでも」
「つーか…喧嘩じゃないじゃん」
「思いをぶつけるので、喧嘩みたいなものでしょう」
「イヤそれは違うと思いますケド…」
カタコトで話しながら体をぎこちなく動かす彼の姿に小さく笑うとそのまま抱き締めて耳元で囁く。彼が自分の声に弱い事はもう分かっている。
「しましょう…喧嘩」
わざと掠れた声でそう囁けばビクッと体を揺らす彼が愛しい。若者らしく性に貪欲で好奇心旺盛な彼がこの誘いを断る筈がない。その確信を持ちながら迫る狡い大人に、彼は気付いているのだろうか。
それから私達は仲良く寝室で喧嘩をし、その結果ベッドが破損した。
破損した原因はどちらのせいか言い合いになり、次の日に一緒に新しいベッドを購入する事で和解した。
これが私と虎杖君の、初めての喧嘩だ。