カムパネルラ夜明けを少し過ぎた頃。
マァムに案内され魔の森からネイル村に向かう途中、ダイの耳に微かな音が聞こえてきた。
金属質だが柔らかい感じのする音は今までに聞いたことのない類いのものだ。隣を歩くポップの外套を引っ張って尋ねる。
「ポップ、ポップ。あの音何だろう?」
「音ぉ?」
ダイの問いにポップは耳を澄ませるが、これと言って気になるような音は聞こえない。
「どんな音だよ?」
「どんなって…おれも初めて聞いたから…なんかカーン、カーンって高い音だよ」
そんな音するか?とポップは首を傾げる。すると、2人の会話を聞いていたマァムが声をかけてきた。
「もしかして教会の鐘かしら。まだ村まで距離があるのに耳がいいのね、ダイは」
ああ、と納得するポップと更に不思議そうな顔をするダイ。
「教会の鐘、って?」
「あ、そっか島にゃあそんなもん無ぇもんな」
教会ってのは知ってるか?と問い返すポップに、一応、と頷く。ブラスから教わったことがある。神様に祈りを捧げたり、怪我人の治療をするための場所が人間の村や町にはあるのだと。
「その教会には大抵てっぺんにでっかい鐘っていうのがついててよ。神様へのお祈りの時間とかを知らせるのに鳴らすんだ」
「うちの村の鐘はそんなに大きくはないけどね。お祈りの時間と言うより朝昼晩の区切りに鳴らすって感じよ」
マァムの補足にうちの村もそんなもんだ、とポップは頷く。今鳴ったのは朝の鐘。村では人々が目を覚まし、活動を始めている頃だろう。
「ふうん…」
分かったような分からないような、という顔でダイは相槌を打った。マァムが笑いかける。
「良かったら、村の教会にも案内するわね。昼にはまた鐘の音も聞けるわ。小さいけどいい音なの」
「うん、いい音だっていうのは分かったよ」
生まれて初めて聞く音だが、耳には心地良かった。鼓膜の奥にまだ澄んだ響きが残っている感覚がある。
「まあ鐘の音よりまずはメシだよな~」
腹減った~とぼやくポップに、呆れたような視線をマァムが向ける。その様子に苦笑しながらダイは2人の後を追った。
間近で聞く鐘の音はどんなに美しいだろう、と想像しながら。
太陽が南中に昇る頃。
突然鳴り響いた大音量に、砂浜で瞑想をしていたダイはすっ転げた。
「な、何これ!?」
耳どころか頭の中までぐわんぐわんと響いてくるような音。対戦形式の修行をしていたポップとマトリフも手を止める。
「大聖堂の鐘だな」
マトリフが言う。
「凄えな。こんな響くもんなんだ」
感心したようにポップは王都の方へ目を向けた。
「大聖堂?」
耳を押さえたままダイが何それ、と問う。そこまでうるせえか?と言うマトリフに、こいつめちゃくちゃ耳いいから、とポップが返した。
「大聖堂ってのは…まあ、教会のでかい版だ。そこの鐘が鳴ってるんだよ。正午の報せだな」
「教会の鐘?こんなに大きい音がするものなの?」
ネイル村を発った後ロモス王都でも鐘の音は聞いたが、ここまでの音量では無かった。
「パプニカは神々への信仰が厚い国だからな。大聖堂の規模も世界有数だし鐘塔の鐘のでかさもロモスとは比べものにならんだろうよ。魔王軍の侵攻が始まってからは鳴らされなくなってたからオレも久々に聴いた」
「鐘、残ってたんだな」
マトリフの言葉を受け、遠い目をしたままポップが言う。不死騎軍団によって攻められた王都では大聖堂もかなりの被害を受けていたはずだ。
「地下にでも隠してたのかもな」
マトリフも王都の方向へ目を遣った。
鐘の音はいつの間にか止んでいたが、まだ山々に反響しているようにも思えた。
「オレは教会は好かんが、あの音に救われるって奴は多いだろうよ。この国の象徴みたいなもんだからな」
「パプニカは生きてるぞって報せみたいなもんか」
ダイは耳を塞いでいた手を下ろし、瞳を閉じた。高らかな音の名残を体の中に感じる。
「おれも神様とか教会とか、まだよく分からないけど…あの音、好きだな。大きい音でびっくりしたけど、とっても綺麗だった」
ダイの素直な言葉にマトリフとポップも微笑んで頷いた。
午後。
ポップとパプニカの城下町をぶらつく。
復興の途中、とも言えないほど破壊し尽くされた街の中でも、生き残った人々は粛々と営みを始めている。
ふいにダイの耳にささやかな音が聞えてきた。
遠くまで響く済んだ音。鐘の音だ。先ほど聴いた大聖堂の鐘ほどではないが、その美しさにダイの心は浮き立った。
「ポップ!あっちでも鐘の音が…」
嬉しそうに伝えるダイに、ポップはしっと口に人差し指を当てて制止した。
「あんまり大きい声で言うな。あれは…葬儀の鐘だよ」
「葬儀?」
「亡くなった人を送る祈りの鐘だ。」
音の方に目を向けると、黒ずくめの服を着た人達が列をなしていた。列の中央には担がれた棺が見える。葬列の周りには、立ち止まって帽子を脱ぎ目を伏せ頭を下げる人達がいた。ダイとポップも周囲に倣い、葬列に向け黙祷を捧げる。
「ご遺体が見つかったのかな」
ポップがぽつりと呟く。
国そのものが壊滅と言っていいほどの被害を受け、国王始めいまだ行方知れずの人も多い。亡骸を見つけ、葬ることができるだけでもこの国では運がいい方だと言えるのかもしれない。
カランカランと鳴る音にすすり泣く声が重なる。
ダイはアバンを思った。
その身のひとつの欠片も遺さず、自分達のために散ってしまった人。祈りの鐘を鳴らして送ることすらできなかった人。
平和を取り戻し街に平和の鐘が鳴り響いても、もうあの人には聞こえない。
清らかな音が、彼の人の笑顔を思い起こさせ、力の足りない自分を責めているようにも感じた。
「ポップ」
何かにこらえきれなくなって、隣に呼びかける。小さな声にも、ん?と相棒の魔法使いは応えてくれた。
「…何でもない」
心の内が上手く伝えられず、ダイは俯く。その様子をしばし見つめ、ポップはダイの手を握った。
「…頑張ろうな、ダイ。ああやって泣く人が、一人でも減るようによ」
「うん」
2人は手を結んだまま葬列を見送った。美しい鐘の音に心の中で誓いを立てながら。
怒れる魔獣と化した男と対峙しながら、ダイの中で鐘の音が響いている。
高く、低く。強く。弱く。
止まってくれ、とダイは願った。
今聴きたいのはこの音じゃないんだと。
初めて聴いたときから大好きだったはずの音が、今はひどくうるさくて、哀しい。
止まってくれ。
まだその音は聴きたくはないんだ。
横たわる親友を庇うように立ちながら、ダイは聞こえるはずのない音に向かって胸の内で叫んだ。
今はいらない。この音はいらない。
熱く、眩しく輝く拳を握りしめる。
あの日繋いだ手はもうダイの元へは差し出されない。
あの午後のようにダイの呼びかけに応えてくれる日はもう来ない。
それでも。
鎮魂の祈りは、まだ捧げたくはない。
体の中で響く高らかな音を消し去るように、ダイは竜のごとき咆吼を響かせた。