ルールが上書きされました。 世界は、決まった方向にしか、変化していかない。
他の可能性があったとしても、それらは記録に残ることなく、バグとして扱われ、あるべき姿へと修正されるのだ。
この法則は、パルデア地方を生きる人達にも、適用されている。みんなの意図など関係なく、規則正しくあれと強いられる。
それは『わたし』だって例外じゃない。
美味しいものがあったら、美味しいと思う感覚はあるし、すごいものを見ると、すごいと感動に震える心もあるとしても、だ。
ただ例外があるとすれば、『わたし』には、『わたし』の体を突き動かす、別のなにかが存在しているらしいということ。具体的にはわからない。在るらしい、ということ以外にはっきりしたものはない。気づけば、めちゃくちゃな動きをさせられたり、派手な姿をさせられても、わたしの好みではないと、これを拒絶する権利は無いようだった。
あるいは。
「どうしたの、アオイ?」
不幸中の幸いか、奪われずにすんだ自分の名前に反応する。振り返ると、友人が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
『なんでもないよ』
そう言ったはずだが、友人は何も聞こえなかったかのように反応がない。
やっぱりダメか。
諦めて、笑顔で首を横に振ると、大丈夫だという意思は伝わったようで、
「そう? なら良いんだけど。そういえばさー」
そのあとは、なんてことのない話が続く。
そうだね、本当? すごいねって、相槌を打ちたくても、それすら許されない、認識されない。何気ないことでさえ、塵もつもれば山となるように、今となっては堪え難い苦痛になっている。代替手段としては、表情とジェスチャーでこちらの気持ちを伝えるしか方法は、ない。あとはせいぜい、記憶に残してもらえるような選択肢があった時だけ、発言が許される。記録が許されるのだった。その他に、わたしが意思表示をしても良い方法なんて、この世にはもう……。
否。
ある。
ひとつだけ。
白いキャンバス。独特の絵の具の香り。
それが浮かんでしまっては、いてもたってもいられずに、曜日と時間を確認する。曜日は平日だから大丈夫。今ぐらいの時間ならば、あそこは部活もあるから、開いてるはず。
心が浮つくのを自覚して、深呼吸をひとつする。
少し顔を出すだけ。少し足を運ぶだけだから。
期待してしまいそうな自分を戒めるように、いくつもの理由を考えながらも、頭の中は既にそのことを夢想し始めていた。
絵筆を自由にキャンバスに走らせるイメージを。
わたしにとって、美術室は特別の場所だ。
あることをきっかけに、そうなった。ハッサク先生が見慣れないドラゴン使いの人と言い争っているのに居合わせた時のことだ。内容を聞くと、先生を辞めろと迫られていたようだった。以前、授業で今の仕事が好きだと言っていたのに、やめちゃうのか。もったいないな。せっかくルールの制限があるにも関わらず、わたしと違って、この人は素晴らしいものと出会えたのに。そう残念そうに思っていると、ドラゴン使いの人がどんどんヒートアップして、あろうことか、先生としてのハッサク先生に価値などないと言いだした。ハッサク様の真価は、竜の里でこそ発揮されるとかなんとか。
なにそれ。
なにそれなにそれなにそれ。
なんでそんなことを、彼が言われないといけないんだ。
この人に決められなければいけないんだ。
世界のルールそのものですらないくせに。
あまりの物言いに、カチンと来たわたしは、ドラゴン使いの人の前に立ちはだかる。
「アオイくん…⁈」
「なんですか、部外者は入って」
「帰ってください」
ぴしゃりと言い放つ。突然のことに2人とも動揺して固まってしまったものだから、念押しにもう一度ゆっくり、はっきりと言う。
「ハッサク先生はアカデミーで先生をしているんです。やりたいことをやっているんです。そんなハッサク先生を否定しないでください。否定するなら帰ってください。もしまだ引く気がないなら」
ポンとボールを投げて、相棒を呼びだす。
「この子とわたしがお相手します」
「…! 随分と舐められたものね。 もし私が勝てば、ハッサク様は」
「良いですよね、先生?」
最後まで聞かずに、ハッサク先生を横目で見やると、迷っているようだった。大方、個人のことに巻き込むべきじゃないとかそのあたりだろう。冷たく聞こえるかもしれないが、わたし自身、ハッサク先生に深い思い入れはない。お世話になったことのある先生だなあ、声の大きな元気な人だなあとか。よくある感想ぐらい。
それでもだ。それでも、なんだ。
「わたしがそうしたいんです」
心のままに告げると、大きな橙色が揺れて、瞼を伏せられる。
「わかったですよ、アオイくん。あなたに任せます」
搾り出すように、ため息混じりで告げられる。大人がこどもに任せるなんてって苦渋の決断だったんだろう。でもわたしには、それがなんだかハッサク先生に頼られたみたいで、少し誇らしく思えてしまった。
「はい、任せられました!」
嬉しくなって、自然と声が高くなったのが自分でもわかる。相棒もいつでも行けると力強く頷いてくれる。不思議と負ける気がしなかった。
「最初からゼンリョクで行くよ!」
そうしてバトルの口火は切って落とされた。
ドラゴン使いの人は言うだけあって強かった。少し遅れをとりかけると、すぐさまそこを突いてこようとする。そんな激しい戦いの最中、ある疑問が頭をよぎった。
どうして、ハッサク先生はわたしの問いかけに反応できたんだろう? 選択肢が出てきた通りのものでないと、反応できないはずなのに。わたしの声は届かないはずなのに。
きっと気のせい。
どうせこの後、修正されてしまえば無かったことになる。バグとして消えてしまうんだ。
いつもなら嫌だと思うのだけれど、今はそれでも良いとすら思えた。
だって、誰でもない自分の言葉に応えてもらえるって、こんなに嬉しかったんだってこと、思い出しちゃったから。
色んな人がわたしに救われたと言う。果ては、パルデアを照らす光だとも言われたことがある。実際は『わたし』の意思や力であるかすら怪しいのに。大袈裟なものだと、神の使いだとか、天使だとか、オーバーリアクションにもほどがあるものが、いくつかある。夢を見過ぎだと、愚痴でも言いたくなる。どうせ、マズかったら誰の記憶にも残らないように修正されるだろう。そう思って、気まぐれに口を開いてみた。
「良いじゃないですか、『天使』。小生の救いであるアオイくんに相応しいですますよ」
すると想定外の反応が、ハッサク先生から返ってきた。思わず、瞠目する。だって選択肢じゃない発言を認識された。その上で返事をされたのだ。
さすがにおかしいと思った。
この世界に今までそんなことがあった? 些細な声かけですら、出来なかったっていうのに? もしかして、この前の先生を故郷に連れ戻そうとしていたドラゴン使いの人が来た時の会話も、修正されていない…?
ひどく困惑して考え込んでいると、不思議そうに先生は首をかしげた。
「どうかされましたか?」
「…いえ、なんでもないです」
気まずくなって、視線を真っ白なキャンバスに移した。じっとあの大きな橙と黄の混ざった目で見られると、悪いことをしてないのに、なにかしでかしてしまったような心地になる。
「今日こそ描けそうですか?」
「…だと良いんですけど、正直難しいです」
「なんでも良いのですよ。あなたの好きなもの、冒険で見かけた気になるもの。そう、そこでうたた寝をしているフカマル先輩でもいいのです」
言われて、そちらを見ると確かにフカマル先輩がいつのまにか、窓際で口を開けて眠っている。かわいい。寝返りをしながら、ヨダレが垂れたのが見えた。美味しい夢でも見ているのだろうか。
それでも筆どころか、下書きをする鉛筆ですら持てないわたしに、ハッサク先生は言う。
「描けないものを無理して描こうとする必要はないのです。必須科目でもないのですから。して、それでも描こうとするとは、なにか理由がおありで?」
「…そうですね」
具体的に言ってしまえるのなら言いたい。相談したい。普通に考えたら、そんなことをしてしまえば、結局この世界のルールで修正されてしまうのだから、無意味だと痛いほどにわかっている。それなのに不思議と、もしかしたらと考える自分もいる。
「ならば不肖、このハッサク。アオイくんが描けるまで、お付き合いいたしますですよ!」
ぐっと拳を握って、ニッと笑うといつもの大きい声で励ましてくれた。お世辞抜きで良い先生だと思う。
時は放課後の昼下がり。珍しく美術室にはハッサク先生とフカマル先輩しか居なかった。美術部は今日はお休みだったらしく、日を改めようとしたら、ハッサク先生に、忘れていた課題について声をかけられて、今に至る。
課題の内容は『自由』。
彼に言われたとおり、なんでも描いて良い。適当に描いて済ませた子だっているのは見かけた。だけどわたしにとって、それは一番難しい内容だった。
どれを選んでも良いなんてことは、一度だってなかった。せいぜい与えられた選択肢の中でしか、わたしは動けないキャラクターなのだから、いまさら何を選んでいいのかわからない。にもかかわらず無謀にも、課題に臨もうとするのは、ひとえに美術室でわたしがなにか作ったらしいことは残るようだったから。おそらくだけど美術室は唯一、自主的に何かをすることが許される場所なのだった。
少しでも可能性があるなら、それに賭けたい希望と、もし無かったことになってしまったらどうしようという不安で、心が揺れる。だって自分の自由にして、それが修正されてしまったら、わたしの意思があるのは間違いだったと証明するに他ならない。
何度もなにか描こうと筆や鉛筆を手に取るけど、キャンバスに触れることなく、膝の上に落ちる。一連の動きをくりかえしたのが両手の指の数を超えた頃、ハッサク先生から提案をされる。
「考え方を変えてみましょう。アオイくん。好きな色はなんですか?」
「すきないろ…」
言葉を反芻して考えるけど、どの色が良いとか好みじゃないが、パッと思いつかない。二の句を継げずにいると、ハッサク先生はまず絵筆を持つように促してきた。
「とりあえず色を置いてみましょう。そうしたら、なにか思いつくかもしれません。そうでなかった時はその時ですよ。やってみましょう」
とはいうものの、そのとりあえずで詰まってるんでしたね、と苦笑された。
「アオイくんさえ良ければ、小生が選んでも良いですか?」
問いかけに頷くと、ハッサク先生は笑顔でありがとうございますと言う。少し礼儀正し過ぎるくらいな気がするけれど、今はそれがありがたかった。
「右手を失礼しますですよ」
ぼんやりとハッサク先生を見ていたら、わたしの筆を握った手を、大きくてゴツゴツしていて、少しカサついた手が、力強く握り込んできて、突然のことに驚く。そんなわたしに構わず、ハッサク先生はパレットの上に並ぶ色を眺めると、ある色をたっぷりすくいあげて、キャンバスを染め上げていく。
「きいろ…」
「お嫌いでしたか?」
ふるふると、首を横に振って、ハッサク先生の方を見る。良かったと微笑んだかと思うと、
「小生と言えばこの色でしょうからね」
と真面目な顔をして言うものだから、反応に困ってしまった。そうこうしているうちに、真っ白だったのが、ハッサク先生の髪に似た黄色で染まっていく。
「さあ、白いところが無くなってきましたですね。次はどうしましょうか。全部塗り終えてから考えますか?」
「つぎ…」
うん?と確認するように、ハッサク先生の細められた目がこちらを向いた。おそるおそる目線を合わせて、彼に問う。
「わたしが決めていいんですか?」
「もちろん」
おかしな質問だと一笑に付したりせず、しかし口元の笑みは絶やさずに、真剣に答えられた。
それならば。
「オレンジを、塗りたいです」
「良いですね! このまま重ねていってみましょうか!」
ハッサク先生は握り込んだ手をそのままに、また絵の具をたっぷりすくいとると、黄色にオレンジ色を重ねていく。乾かないうちに色が重なったせいで、じわりと色が滲んで混ざり合うと、見覚えのあるものへと変化した。
ハッサク先生の目の色みたいだな。
絵筆を走らせることに集中しているのか、こちらを向いていないのを良いことに、彼の大きな目を、横目で盗み見る。ハッサク先生のはもっと中心のオレンジ色が強くて…少し赤っぽく濃い色をしていて…。無意識に、どの絵の具を混ぜればその色ができるかを考えだす。
「他の色と混ぜた色も塗ってみますか」
タイミングよく出された提案に、わたしは思わず飛びついた。
「先生、次、赤色を少し混ぜてみたいです」
「良いアイデアです。どのあたりにしましょうか?」
「ん、このあたり…かな」
「そこですね」
今度は絵筆の先で少し触れるように、絵の具を取って、また乾くのを待たずに塗り重ねていく。筆を動かせば動かすほど、してみたいことが出てくる。次は赤色をもっと塗ってみたい。緑色も入れてみるのはどうだろう。はじめはハッサク先生にリードしてもらわなければ、少しも動けなかったのに、自分でも信じられない。
「お見事です」
声が耳に入りこんだ瞬間、ハッと我にかえる。思ったよりも夢中になって、描いてしまっていたようで、いつの間にか、支えてくれていた大きな手が離れていて、今は拍手をしていた。
改めて、キャンバスを見ると、あらゆる色という色で埋めつくされていた。物を模したかたちなどなく、強いていうならば、なにかをぶちまけたような、なんだっけ、こういうのってちゅーしょーがとか、いんしょー派とか言うのだったか。それみたいだった。
「これで良いんですか?」
夢中になってすっかり忘れていた、修正されるかもしれない不安がまた顔を覗かせて、そんな疑問を抱かせる。けれど、ハッサク先生はゆっくりと頷くと、
「そうでございますですよ。なにしろ、こちらは正真正銘、アオイくん自身が描きあげたものですから」
「わたし、じしん」
「そう、アオイくん自身の意思で完成されたものです」
まだ実感が持てなくて、ハッサク先生と絵を見比べてしまう。その様子に先生は怪訝な顔ひとつせずに言う。
「貴女はもっと自由で良いのですよ。何があろうともね」
「そんなはずは」
「ありますです。以前、小生を助けてくれた時のように」
口をついて出た言葉に躊躇いなく、そう返ってきて、思わずハッサク先生の方を全身で振り返る。そして気付く。口元は穏やかな笑みを浮かべているのに、目が笑っていないことに。描き始める前からずっと。その証拠にわたしは、彼の竜を思わせる目の色を見ながら、描いていたではないか。
ヒヤリと冷たいものが背筋を這うけれど、もう遅い。
「どうされましたか、アオイくん」
だって知ってしまった。彼の言葉とこの絵の完成をもって、証明されてしまった。
わたしが決めた行動は、消えてなくならない。それならばもう、わたしはこの世界のルールに縛られ続ける必要がない。そして運命の修正機能すら及ばない自我が、己にあることを気づかされてしまった。
わたしは、なにかの意図に操られるしかないキャラクターではないんだ。
ようやくそのことを自覚した。
今度こそ目を細めて、ハッサク先生はニッコリ笑う。そして、思いついたようにある提案をしてくる。手をさしのべてくる。わたしはそれを拒絶することができない。なにもルールのように制限を受けているからではない。
その提案に期待しているから。
ずっとずっと知らなかった。決まりきった世界しか見たことがなかった。でも知恵の実の味を知る前にはもう戻れない。たとえ止められても、もう一度味わいたい気持ちが抑えられない。
そしてハッサク先生は、回答を決まりきったわたしに確認するように、優しくささやいた。
「新しい絵を、小生と描いてみませんか?」