勿忘草ボロボロになった服とローブに包まれて、私は夢を見る。
その日は魔宮の探索任務であった。
数人の団員達と共に複雑な煉瓦造りの道を歩いていると、黒い扉の前に着いた。
「ここが、宝物殿かな……」
扉に手を添えて押してみると案外すんなりと開いたが、中にあったのは小箱一つだけ。
「これじゃあ大した報告は出来ないかな……っ!?」
その小箱を手に取った時、黒い煙がエンの体を包み込んだ。
煙が暫くして消えると、後ろから魔導書を開く音が一緒に来ていた仲間達と同じ数分聞こえ、振り向く。
「誰だお前は!」
「え……?!」
「何故そのローブを着ている?俺達はお前みたいなやつ知らんぞ」
「何を言って…」
「とにかく捕まえて色々聞き出してやる!」
氷のロープや雷の刃がエンに向かってきたのを素早く避け、菌魔法で目眩しの胞子を出すと仲間達が狼狽えている間に入ったところから脱出したエン。
そのまま走り続け外に出ると、森の中に身を隠した。
「一体どういう事なんだ…」
持ったままの小箱をひっくり返したりしながら見ていると、蓋裏に掠れ気味に何か書かれていた。
「…この箱、開けしもの……忘却の呪い…己が身果てし時、解け……己が身存在する、限りは…全てが、忘れている……。なんて事だ、トラップだったんだ…」
高度な呪いをかけられたようで、解く為には死ぬしかないという結論に、エンは事態の深刻さを痛感する。
「本当に、誰も私を覚えてないのかな…」
呪いを信じられなくて、まずは本拠地へと足を進めた。
本拠地の近くまで来ると、偵察用のキノコ君を数体出して中を探らせた。
少しして、様子を聞くと自分の部屋は別の誰かのものになっていたし、侵入者の魔法だと追いかけ回された事も分かった。
「………もしかしたら…」
崩れそうな心を持ち直そうとしつつも歩みを再び。
次に向かったのは自分の家だった。
同じようにキノコ君に探らせたところ、次男が大黒柱として頑張っていた。
そして、ここにも自分は居ないことになっていた。
これで帰る場所はなくなった。
本当に誰も自分を知らない、本当に独りぼっちになった。
泣き崩れそうになるエンの心を表すように曇天から雨が降り始め、それは段々と風と共に強くなる。
雨宿り出来そうな場所を探す気になれないまま立ち尽くしていると、声をかけられた。
「君、そんなところで何を?早く家に帰った方がいい」
振り向かずとも分かる愛しい人の声。
彼ならば後ろ姿でも分かってくれるのに、こうして他人行儀な言葉をかけたのは彼もまた、自分を忘れているということ。
「………帰る場所がないんだ」
せめて君のところに居られたらと期待できない望みを蟷螂の紋章と共に捨てて、豪雨の中を歩いていく。
「傘くらい創ってあげればよかっただろうか」
自分で創った桜の傘の中でキルシュは呟くと、気づく。
そう言えば自分は何故、平界に来ていたのか、右手に持っていた小箱は誰にあげるものだったのかと。
独りになってどれくらい経ったのか。
エンは死ぬ事を選ばなかった。
この呪いの解き方が正しいのなら、遺された家族や彼が悲しむと考えた。
それならば、ずっと自分の事など忘れたまま笑顔で暮らして欲しい。
その代償で孤独を背負うなら安いものだ。
あの日誰かに渡そうとしていた小箱。
小綺麗にラッピングされた中身はきっと指輪だ。
それを掌の中で大事そうに握る。
「援軍は、望み薄といったところかな」
任務中に不覚をとり、怪我を負ったキルシュは追っ手から逃げている途中で限界が来て、木陰に身を隠していた。
「いたぞ!」
「やれやれ、もう見つかってしまったか…」
あっという間に敵に囲まれてしまい、形だけでも魔導書を開いたが、腹と右脚に負った傷のせいでなけなしの魔力すら使えそうにない。
「王族も案外あっけねぇなぁ」
敵の一人が、炎魔法で創った剣をキルシュに向かって振り下ろそうとしたその時、剣を持った手が地面に落ちた。
痩けた頬、ざんばらに伸びた柳色の髪、裾がボロボロになった服、骨張った左手に持ったキノコを模したような大鎌。
死神の様な風貌に怯んだ敵達を、男は死の風吹かせて斬っていく。
全員が死、もしくは逃げた後、男は鎌を魔導書にしまって、キルシュに歩み寄る。
「君は何者だ?随分と腕が立つようだが」
「何者でもないよ、私は。…もう日が暮れるから、今日は私の家に来ないかい?大したもてなしは出来ないけど、治療くらいは出来るよ」
「では、お言葉に甘えようか」
男に支えられながらキルシュは歩く。
彼の纏うローブの色が翠緑の蟷螂のものに似ているなと感じながら。
木で出来た小屋の中には簡素なテーブルセットと硬いベッド、小さな竈くらいしかない。それと、数冊の本。
「一人で、暮らしているのかい?」
怪我の箇所に包帯を巻かれ、淡く白く光る丸いキノコの胞子を浴びながら料理の支度をする男に尋ねる。
「…もう、ずっと独りだよ。時々町や村に来て軽い手伝いで日銭を稼ぐ…そんな生活だけど案外楽しいんだ」
「寂しくは…?」
「キノコ君達のおしゃべりを聞いたりしてるから、寂しくはないんだ。知ってるかい?キノコは人間と同じくらい喋れるんだよ。…菌魔法を使う私だから聞こえるのかもしれないけどね」
さぁ、出来たよ。とテーブルにキノコのリゾットを並べる男。
キルシュは起き上がり、椅子に座るとスプーンで一口。
「…美味しいじゃないか。それに、何故だろう……凄く、懐かしい味がする。前にも食べた事があるかもしれないような」
「気のせいだよ、きっと」
男は薄緑の目を伏せて答える。
それ以降流れる沈黙に耐えきれず、キルシュは喋りかけた。
「君は強い魔道士のようだ。どうかな?魔法騎士になってみては」
「…遠慮しておくよ」
「何故?」
「今の暮らしが好きなんだ。人間、身の丈にあった生き方をするのがいい」
「それは勿体ない。君はこんなにも才能に溢れているのに」
「世界には私よりも強い人なんて沢山いるよ」
「勧誘は無理そうだね。まぁ君がそうしたいというなら無理に勧めることもないか」
再び沈黙が流れ、リゾットを食べ終わった。
翌朝、怪我から回復したキルシュは出立の準備をする。
「ありがとう。……そういえば君の名前を聞いてなかったね」
男は少し惑ったような顔をした後、こう答えた。
「名乗る必要は無いよ、きっと忘れてしまうだろうから」
「…ではせめて、礼にこれを」
キルシュはブックポーチにしまっていた小箱を渡した。
「ずっと、これを渡す相手を探していたのだが…君かもしれない。変だね、君を見てるとどうしようもなく抱きしめたくなるんだ。とても、大事な人の様に思えるんだ」
「………気の所為、だよ。そう、きっと」
でも、もし…許されるのなら。
恐る恐る傍に寄ってきた男を、キルシュは優しく両腕で抱きしめた。
細くて硬い、骨を直に抱きしめているような感触なのに、懐かしくて暖かくて不意に涙が零れる。
なのに何も思い出せない。
去っていく珊瑚色のローブを見届けながら目から零れる熱いものが冷えていく感覚が余計に悲しくさせる。
震える手で小箱を開けると、金色に光る指輪が入っていた。
丁度薬指に嵌められるサイズだ。
それを右手の薬指にそっと嵌める。
「キルシュ君……」
「…エン………?」
桜の絨毯を途端に引き返し、小屋まで戻ると心臓に氷の杭が刺さって絶命している彼がいた。
現場に残った魔力の感じからして昨日の生き残りだ。
だが、キルシュはそれを追いかけることなく冷たくなった痩身を抱えあげて抱きしめる。
「何で…今まで………忘れてしまっていたんだ、君を……!」
辛かっただろう、仲間からも家族からも恋人からも忘れられて孤独に過ごした永い時は。
安心してくれ、もう寂しくないよ。
皆、君を思い出した。
皆の中に君がいる。
棺桶の中で花に包まれて眠るエンの右手から指輪を外すと左手に付け替えたキルシュの左手にも同じ輝きがあったが、寂しい輝きだった。