鼈甲の忘れ形見 御伽に参りました。
障子の向こうから聞こえてきた声に、桑島慈悟郎は布団から身を起こした。歳の割に落ち着いた声は、この屋敷で一番世話になっている女のものだ。いつもなら寝るまでに一度は見かけるのに、今日は一度も会わずじまいであったと思っていたところだった。
桑島は、女に何と返そうか言葉を探していた。
「御伽」を他意なく受け取るなら看病のことだろう。容体を診ながら夜通し傍にいるのも「御伽」だ。
けれども、桑島は怪我一つしていない。今夜の任務は夜が訪れて早々に終わった。街に夜の帳が下りるのと、桑島の刃で鬼の頸が落ちるのはほぼ同時であり、今宵の悪鬼はこの一体のみであった。
刀を収めて、そこからこの藤の花の家紋の家まで来た。市井の人々よりやや遅い夕飯を食い、風呂をもらい、さて寝るか、と布団を被ったところで女が訪れたのだ。
怪我もない病気もない健康な男の、夜の寝所での「伽」が意味するところはひとつしか思いつかない。夜伽と書けば疎い人間でも察するだろう。
「御伽」が「夜伽」の意味で使われたことはすぐにわかった。女の声が震えていたからだ。
顔見知り程度の間柄にも関わらず、夜に二人きりの部屋で帯を解き、我が身を差し出そうというのはいったいどういう了見だろうか。
桑島はまだ返答に窮していた。これには訳がある。
ひとつ、自分は夜伽やその類のことを頼んだ覚えはない。一切ない。断じてない。そう受け取られるような言動は天地天命に誓ってひとつもしていない。
ふたつ、ここは藤の花の家紋の家だ。鬼殺隊に過去に恩があるとはいえ、ここまでのもてなしを受けるなど、聞いたこともない。
みっつ、この来訪が女の意思だったとして、その真意が見えない。寝首でも掻くつもりだろうか。
桑島はここまで考えて、まだ答えあぐねていた。女は三つ指をつき、障子を隔てたまま、桑島の言葉を待っている。
桑島は女のことをよく知らなかった。食事や療養で世話にはなっているが、この家でしか顔を合わせたことがないし、身の上については何も知らない。だから、女中のひとりなのかこの家の娘のひとりなのかは未だ知らぬままだ。
この辺りの任務を受けることが多いことと、他に藤の花の家紋の家がないことなどの要素が合わさって、桑島はこの家に出入りすることが度々あった。桑島が寝食のために寄ることもあれば、傷を作って養生させてもらうこともあった。
女との接点ができたのは、鬼の爪が桑島の太腿に深く刺さった後のことだった。ほんの半年前のことだ。
後に鬼殺隊の隊服に鬼の牙や爪を通さなくなる生地に整えられるが、これはまだそうなる以前の話である。鬼の牙や爪を通さぬ隊服はまだ試作中であった。ゆえに桑島は負傷した。
この折に看病をしてくれたのがこの女であった。女中と同じ着物で現れるのだが、所作は美しく、水仕事などとは無縁な白い手であった。そして、髪にはいつも鼈甲の櫛が挿してある。彼女の瞳に合わせて作ったかのような色合いの櫛は、結い上げた頭の頂で豊かな髪に彩を添えていた。
女の装飾品には鈍い桑島ではあったが、鼈甲が値の張るものであることは知っていた。高価な鼈甲の櫛を女中が?と疑問には思った。質素な着物や帯とは不釣り合いの櫛。もしや、この家の娘か?とも考えたが、詮索するのは性に合わず、有耶無耶にしたままである。
静養が長引き、桑島の滞在がひと月になろうとした頃も、桑島と女の関係は、鬼殺隊士とそれを助ける家の者であった。互いに訊かれたこと以上のことは話さなかった。
まともに言葉を交わしたのは一度きりだ。
女が桑島の腕を拭こうと身を屈めると、鼈甲の櫛が髪から滑り、桑島の膝に落ちた。やわらかな光が差す部屋には二人しかいなかった。
女は髪に手をやり、落ちたのが櫛だとわかると、申し訳なさそうに手を伸ばした。
「これは、失礼しました」
「なに、これくらい。気にするな」
桑島は女より先に櫛を手に取ると、女の眼の高さまで掲げた。ほんの出来心で桑島はふたつを見比べた。
櫛と瞳は見れば見るほどよく似ていた。瞳から櫛を作ったようにも、櫛から瞳を作ったようにも見える。伏せると濃く翳り、光を浴びると明るく透き通る。見る者の角度に合わせて表情を変える。
「いい色だな」
「母の見立てがよかったのでしょう」
「櫛ではない」
女の頬が朱に染まった。女は櫛を受け取ると、わざとらしく大きく腕を上げ、袖で顔を隠すようにして髪へと戻した。女の赤い頬は桑島には悟られずに済んだ。
便所への介添えが無くなり、風呂へ入れるまでに桑島が回復すると体を拭くことも無くなり、女が部屋に入ることはほとんどなくなった。
食事を運ぶだけになっても、二人の会話が増えることはなかった。
桑島が養生を終え、鬼狩りへ復帰し、階級が上がっても、御目出とう御座いますと女が言ったくらいで、何度顔を合わせても、二人の間に流れる空気は変わらなかった。ずうっとそうであった。だから、これからもこの間柄が続くのだと疑わなかった。
それゆえ今夜、女が言った言葉が桑島には信じられなかったし、何と答えればよいのかわからなかったのだ。
部屋に招き入れれば女の言葉を受け入れることになり、拒めば女の心を傷つけかねない。桑島はなおも答えに窮していた。鬼に対峙する方がよっぽど気楽だとも思った。
「判断が遅い」と仲間に言われる自分を思い浮かべて桑島は苦笑した。元来、男女の色恋にはまったく興味がない。
ぱらぱらと屋根を打つ雨音が桑島をせかした。時雨れる十一月も末。外に面した廊下はさぞかし寒かろう。
「入れ」
女の思惑を受け入れたわけではなかったが、寒さに凍える者を突き放せる桑島でもなかった。
女は障子を開けると、額が床に触れるほど深く頭を下げ、いざって桑島の部屋に入った。とん、と障子が閉まり、行燈の蝋燭がぼぼっと揺らめいた。桑島のぶっきらぼうな物言いに、女は部屋に入ることだけを許されたのだと悟って、戸の前でじっと待っていた。
二人の間には沈黙が多かった。どちらも口数の多い者ではなかったし、これといって共通の話題もなかった。けれども、沈黙が嫌だと思ったことはなかった。
静寂が重苦しく感じるのは、これが初めてだ。
「密かにお慕いしておりました。ずっと」
雨の音がやんだその隙に、女は沈黙を破った。「ずっと」は最初に言いたかったのを言いそびれたかのように付け加えられた。
桑島はまたもなんと答えてよいやら迷った。女のことは憎からず思ってはいるが、好いた惚れたの次元には遠く及ばない。花の一輪でも贈ることがあったたならならいざ知らず、好かれるようなことは何一つしていない。
思い返せば、ここで厄介になった二カ月あまりに加え、その後も、自分の世話をしてくれるのはこの女であった。顔を見せれば、微笑み返したこともあったかもしれない。それが女に誤解を生ませてしまったのなら自分の手落ちだ、と桑島は思った。
とはいえ、今となっては全て後の祭りだ。
部屋には入れてやったが、桑島はそれ以上のことは望んでいない。慕っていると言われたからと言って、はいそうですかとやすやすと同衾する気もない。
ここは女を傷つけぬよう言葉を選んで、女の気持ちを正し、引いてもらわねばならない。
「……お会いするのはもう今夜が最後かと……」
涙を含んだ声に、桑島の心は揺さぶられた。
そして、任務後にこの家に着いた折に女将から聞いた話を思い出した。
──御陰様で末の娘の縁談が纏まりまして
人の結婚の世話をした覚えはないが、桑島が助けた一家との縁と聞けば無碍にはできなかった。桑島は箸をとめて「それは目出度い」と返したのだ。
やはりこの女は女中ではなくこの家の者で、女将の言う末娘なのだろう。高価な鼈甲の櫛を挿していることも、今夜が最後だと言うのも、この家の末娘ならば辻褄が合う。
素性がわかったなら、なおさらこの部屋に留まらせるわけにはいかない。近々嫁ぐ娘が、宿を借りた者と一夜過ごすなどあってはならないことだ。
揺れた心を引き締めて桑島は言った。
「生憎、そのようなことは頼んでおらん」
「存じております。これは私の頼みで御座います」
またも手をつき畳に擦り付けるほど頭を下げた女は、そのまま二の句を継いだ。
「今生の思い出に」
これまでの仕事で、女はふざけたことなどなかった。頼まれたことはきっちりとこなし、時間に遅れたことも、約束を忘れたこともない。その娘の言葉だ。桑島をからかうつもりがないことは声音でよくわかる。
「……だ、だが、」
豪鬼にもたじろがぬ男が小娘相手に慌て出した。
「胸の内に秘して、誰にも申しませぬ」
「い、いや、心配しておるのはそこではない。いや、そ、それも心配ではあるが」
いよいよ逃れられぬようになって、桑島は思ったままの言葉を口にした。
誰かの口に上ることはまだよい。人の噂も七十五日だ。我慢しているうちに消える。懸念はもうひとつあった。桑島はこれまで女に無縁だった。恋仲になった女もなければ、女を買ったこともない。二十を過ぎて、と言われるかもしれないが、桑島は大の大人なら出入りするような花街の見世への誘いは皆断ってきたのだ。男が良いわけではないが、自分の使命は鬼退治だと信じてこれで邁進してきたのだ。女が満足する夜になるとは到底思えなかった。
覚悟を決めた女に後戻りという選択肢はなかった。結婚が纏まる中で、見聞きした男女のいろは。操を捧げるのは未来の夫ではなく桑島であって欲しいと願う女心に迷いはなかった。
「御願いで御座います。今夜だけは私を妻と思って」
帯を解くと、女はまたも手をついた。
「不躾な願いなのは百も承知しております。御迷惑は決してかけませぬ。人助けだと思って、どうか、どうか」
人助けと言われて桑島の心はまたも揺れ始めた。拙い剣術で初めて鬼を斬った時の高揚感を思い出す。この私でも困った人を助けられたのだと思うと胸が熱くなったのだ。だがしかし、これは本当に人助けと言ってよいものか。
「恥を承知で言うが、儂は女を知らぬ」
年嵩の男相手に期待ばかり膨れ上がっているのだろうが、思い描いているような夜にはならない。
「構いませぬ」
「何を言っても引かぬのだな」
「その覚悟でここまで参りました」
桑島にはまだ迷いがあったが、娘はもう何を言っても引きそうになかった。もともと娘のことは嫌いではないし、散々世話にもなっている。眠くなるまで話に付き合ってやれば気も済むだろう。
桑島は同じ布団で眠るだけのつもりで返事をした。
「相分かった」
夜が明け、一番鶏の声で目を覚ますと、鼈甲の瞳の末娘は桑島の枕元で頭を下げていた。
「この御恩は一生忘れませぬ。どうか御健やかにあられますように」
はて恩を着せるようなことをしただろうかと桑島が眠気まなこで見上げると、娘は鼈甲の櫛によく似た瞳で、桑島を愛おしそうに見つめていた。布団の中でも押し問答を続け、その末の大層ぎこちなく結ばれた夜だったのだが、娘にとっては幸せな夜だったらしい。満ち足りた微笑みをして、もう一度頭を下げると、娘は部屋から出て行き、この滞在の間は二度と顔を見せることはなかった。
それからも桑島があの家に顔を出すことはあったが、末の娘の姿はなく、女将に仔細を訊くこともなかった。桑島からは話題を振れるはずもなく、時ばかりが過ぎて行った。
若手を鼓舞しながら鬼を追う毎日は、桑島から年齢を忘れさせるほど目まぐるしいものであった。あの夜から十二年。桑島は鳴柱を拝命して八年が経ち、歳は三十三となっていた。
あの夜を思い出させる初冬の寒い夜のことだった。
桑島が応援要請で駆けつけた屋敷は、既に酷い有り様で、鬼の這った跡があちこちに残り、壁も天井も夥しい量の血を吸っていた。大黒柱には血を舐めたであろう鬼の舌の痕まで残っていた。隊士の多くが目を逸らす中、桑島は微かな音を拾って、音の出所である屋敷の納戸を開いた。
ひゅうひゅうと音をさせて息をする女が、守るようにして女児を抱きしめていた。髪は乱れ、背は着物も肌もぱっくりと割れている。鬼の爪が肺にまで達したのであろう。女の肩が上下するたびにひゅうひゅうと風が抜ける音がした。女児は御守りを握りしめたままガタガタと震えていた。手にも着物にもべったりと血がついているが、それは母親と思われる女の血で、女児のものではないようだった。桑島は隊士の一人を呼ぶと、女児を安全なところまで連れて行くように指示した。女児は桑島にぺこりとお辞儀をすると藤の御守りを両手で握り締めたまま、隊士の元へ駆けて行った。歳は十二、三。どこか見覚えのある顔立ちだったが、どこで会ったのかは思い出せなかった。
死にかけている母親と桑島の目が合った。虚な目に力がこもり、丸く目尻が下がった。桑島は、女が笑みを浮かべているように思った。女児と同じ色素の薄い瞳の女。鼈甲を思わす淡い色。
(この瞳は……)
「桑島!後ろだ!」
水柱の声にハッとして振り返り様に刀を抜く。稲妻が横に走り、鬼の頸が図体から離れた。鬼の最期の足掻きが、桑島の左頬に食い込んだ。
「くっ……」
一呼吸遅れて痛覚が脳に到達した。呼吸で止血を試みるが傷口が広くてかなわない。おそらく骨の近くの筋まで裂けている。柱としたことが油断した。ぼろぼろと灰になって消えた鬼を見届けると、桑島は刀を収めた。
「おい!鱗滝!隠を呼んでくれ!この人はまだ息がある!」
この屋敷を襲った鬼が目の前で斬られ、娘の無事を確信したからか、母親は最期の力で口元でも笑みを作った。上がった口角から溜まっていた血がつぅと首を伝っている。これ以上口を開いたら血が溢れ出るが、喋ろうとする意思を遮るのは憚られた。
息はあるがもう長くはない。最期に言い残したいこともあるであろう。
女は髪に挿した櫛に手を伸ばした。
「……き……てくだ……さ……ると……しんじ………」
櫛を抜く力もなく、最期の言葉も中途なまま、女は事切れた。
血と、藤の花の匂い。
閉じられていく瞳は、鼈甲の櫛と同じ色をしていた。
花を手向けた墓前で、桑島は手を合わせていた。真新しい墓石には、昔、世話になった家の女将が口にした、末娘の嫁ぎ先の姓が刻まれている。桑島の隣では天狗の面を被った仲間が、一足先に立ち上がっていた。面で表情がわからぬが、桑島を案じているのはその背中で分かった。
「昔、厄介になった人によく似ていてな」
訊かれたわけでもないのに桑島はぽつりと呟いた。
よく似た別人だったならこんなにも憔悴したりはしないだろう。鱗滝は強がる男に「そうか」とだけ返した。
「鬼に喰われず、こうして弔えるのは有難いことだな」
「そうだな」
「なんだ、お前、今日は口数がいつも以上に少ないじゃないか。さてと、腹も減ったし、鰻でも食うか?今日は俺のおごりだ。斬られた頬の引きつりもだいぶ引いたし、もう鰻くらい食えるだろ」
「……桑島。俺たちは鬼狩りだ。鬼狩りであって鬼じゃあない」
「なんだよ」
「俺もお前も人間だ。泣きたいことくらい誰にだってある」
「何が言いたい」
「間に合わなかったと悔やむことも、死を悼み涙することも、今のお前を誰も咎めたりしない。鰻が食いたいなら、俺は先に行って席を取っておく。お前は此処に留まって、泣くだけ泣いて腹の虫が鳴ったら店まで来い。何時間でも待っててやる」
青空に雲が舞う羽織を翻すと、鱗滝は桑島をその場に置いて行った。
好いていたのかと言われれば返答に困るが、心に残る人であったことは間違いない。墓前で、涙枯れるまで泣いたあの感情を「恋」と呼ぶには寸足らずで、「愛」と呼ぶには程遠かった。そもそも愛とは何だろう。人生の内には、名前の付けられぬ感情もあるのだ、と自分を客観視できるようになると桑島は平静に戻った。
いや、更に強くなった。涙は人を強くするのだ、という言葉を体現していった。
桑島は街中で鼈甲の簪を見かけると目で追うようになった。が、「あれは簪ではなく櫛であった」と逡巡し、我にかえることが増えた。女の髪に挿してあったあの櫛は形見としていま誰かの手にあるのか、それとも捨てられたのか、などと考えたこともあった。形見と言えば、あの時助けた娘は息災だろうか、と考えを巡らすこともあった。人伝にあの娘は遠縁の者が引き取ったと聞いて安堵したのは言うまでもない。
さらに二年を経た初夏であった。藤の花が熊蜂を引き寄せる時分に、桑島は、助けた娘が吉原に売られていたと聞いて激怒した。鬼から助けた人はいくらもあったが、顔を覚えているのは僅かだ。その僅かな数の中にいるのがあの娘だった。母親と同じ鼈甲色の瞳をした娘。記憶にあるのは怯えた顔だけだがどうしても頭から離れなかった。助けられたなら助けるのが人情というもの、と常日頃考えている桑島は、自分が娘を引き取ることも考えたのだ。あの娘の母親には恩がある。ただ、妻帯者でもない自分が、縁もゆかりもない女児を引き取っても手に余る。刀狩りにするくらいしか育て方を知らない。元気にしているなら自分の出る幕はないと思っていたのだ。
その矢先だった。
〈吉原に鬼が出る。たれか、手を挙げる者はいないか〉
御館様の声に、桑島は手を挙げた。吉原なんぞ縁のない男の挙手に、一同は皆、目を疑った。
もう外は秋めいてきていた。空が高く、日はつるべ落としのように早く落ちるようになった。鬼を探しながら吉原に潜入して三月。雨続きの六月も、盛夏もここで過ぎっていった。
ぱたりと鬼が出ぬようになって、いつ引き上げの命が下されてもおかしくはなかった。
夜の街の格子の中は異世界だった。門をくぐれば同じ世とは思えぬ別世界。これまで培った諜報力も潜入の術もここでは通用しなかった。
桑島は鬼狩りともうひとつの目的があって花街に留まっていた。そして、ようやく見つけたのだ。鼈甲色の瞳の女子を。
「矢羽」と呼ばれる女の部屋で、桑島は静かに坐していた。女を買いに来たとは思えぬ背筋の伸びに、矢羽は袖で口を隠すと目を細めてほほ笑んだ。
「身請けの決まった女郎をご指名とは……おもしろいお方でありんす。お話はここを出てからでもよかったでしょうに……」
年端もゆかぬ若い娘の言葉に桑島は身を固くした。鼈甲の櫛と同じ瞳が桑島を見つめていた。
「安心してくださいな。辛酸を嘗めはしましたが、あっちはこの通り元気でありんす」
桑島が客でないと判断したからなのか、廓言葉と普段使いの言葉が混じる。女は桑島に出した茶に視線を落としたまま喋った。
「……とと様が本当の父でないことは、死に際に、母より聞きました。薄々感じてはいたのです。かか様が産んだのは私だけ。それからずうっと子ができない。名の由来を聞けば、生み月より早く生まれたから私の名が『おはや』になったとか。……眠れぬ夜、母はいつも鬼狩り様の話をしてくれました。鬼が来ても必ず助けてくださる方があるから、安心してお眠りと言うのが口癖でした。そして、あの助けていただいた折に、私は全てを悟ったのです」
桑島は障子越しの女への答えに窮した夜を思い出した。あの晩に授かった子であることを、知らぬは桑島ばかりであったのだ。
詫びればよいのか、ここまで生きていてくれたことを喜べばいいのか、それとも今聞かされている話に驚けばよいのか。
「桑島様。お名前を知ることができてよかった。あの夜、お気づきになりました?今は剃ってしまって細い眉ですけれど、私の眉は桑島様そっくりな矢羽のような形なのです。……とと様もかか様も、あの家の者はみんな薄い眉で。だからこそ、幼い私でも気づけたのです」
寡黙な男は、「そうか」とだけ呟いた。二年前の夜に見覚えがあると感じたのは目の印象だと思っていたが、見慣れた眉毛もそう思わせていたのだった。
とんとんと階段を上ってくる足音で矢羽は足を崩した。正座して対峙していたら怪しまれるとでも思ったのだろう。言葉遣いも戻した。
「桑島様を恨んだりはしておりんせん。この世にはよくあることでありんす」
新造が酒を置いていくと、座り直して背筋を伸ばした。先ほどは気づかなかったが、心なしか腹が膨れている。
「嗚呼、でもこうしてお話しできる日が来るとは。草葉の陰から母も喜んでいるでしょう」
大人びた言葉遣いに、彼女の苦労が偲ばれた。ふと顔を上げると、矢羽の頭に見たことのある櫛があって桑島は時が止まったように固まった。
「気づいてくださった。この櫛を母に送ったのは桑島様でしょうか?」
「いや。そんな粋なことはできん」
「……そうですか。母はこの櫛を片時も離さずに大切にしておりました。目の色と同じで綺麗だと褒めてくださった方がいたと言って」
怪我で厄介になっていた間に一度だけ、膝にあの櫛が落ちたことがあった、と思い出したが、桑島は自分が何と言ったかは思い出せなかった。ただ、矢羽の母の目を鼈甲のようだと思うことはあったし、瞳の色に似せて櫛を作らせたのかと思ったこともあった。よく似合っているとも思ってはいたが、それを口にしたかどうかは全く記憶にない。
「故人の話はしんみりしてしまいますね。折角の再会ですのに。さ、一献」
桑島に盃を渡すと、矢羽は慣れた手つきで酒を注いだ。部屋の外でまたも足音がして矢羽は言葉を戻した。
「わっちばかり話してしまいしんした。ここからは桑島様のお話を」
〈矢羽様、お見えになりんした〉
障子の向こうから、緊張した禿の声がした。
「はぁい」と矢羽は明るい声で返すと、禿はぱたぱたと階段を下りて行った。禿は誰が来たのかは言わなかったが、矢羽の様子を見れば一目瞭然だ。身請けしてくれる旦那が来たのだろう。桑島へ向き直ると、矢羽は口早に今日の礼を伝えた。
「お会いできてよかった。お聞きになったでしょうか。私はあとひと月もしたらここを出ます。私は心に決めたお人と一緒になれる。まだ女将さんしか知りんせんが、わっちの腹にはあの人との子が……」
矢羽は帯の下を優しくさすった。
「母と同じ字を持つ旦那様にお会いできたのも何かの御縁。男なら夫婦二人の名を合わせた名を、女子なら」
言いかけて矢羽は口を噤んだ。
「女子なら?」
「旦那様の一字を、と思っておりましたが、桑島様のお名前から頂戴しようかと、いま思いつきまして」
「儂の名は知らぬだろう。それに、見ず知らずの男の名を出して、亭主がうんと言うか?」
「旦那様は……」
矢羽はふふふと思い出し笑いをした。
「騒がしいほど賑やかなお人なのです。なのに、ご聡明。私が言えばきっとわかってくださる。だから、あとは桑島様の名をお聞きするだけ。教えてくださらないなら桑島の桑をいただいて『桑子』にしてしまいますよ」
む、と桑島は口を結んだ。冗談は好まない。決して言わぬぞと目で答えた。花街の女の手練手管には乗るまいと己を律しているようにも見える。
此処にいてはいつ名前を口走ってしまうかわからぬ。それに矢羽も人を待たせているのだ。桑島は席を立った。
「ここを出た後は、神楽坂の先、牛込におります。いつか孫の顔でも見に」
最後まで聞かずに桑島は障子を閉めた。
キャーーーと耳をつんざく叫び声が響いた。耳を澄ますと「お、鬼だ」と言う声も聞こえて桑島は跳び起きた。やっと冷えてきた屋根の上でうとうとしていたのだ。この声は矢羽の見世で聞いた声だ。さらに耳に集中するとそれは見世の奥、布団部屋から聞こえてきていた。
「御免」
男と女が嬌声を上げて交わりあう間を縫って走り、階段を駆け下りた。
布団部屋には若い禿の頭だけが転がっている。どぎつい桃色に黒いひび割れが入ったような帯が宙を舞っていた。帯は桑島を見つけると舌打ちをして、桑島の心臓めがけて突いてきた。避けた帯が壁に突き刺さる。
「久々なのに、もうブサイクばっかり。嫌んなっちゃうわね!まぁ、いいわ。鬼狩りの一匹くらい。……今日の目当てはやわらかい肉の赤子よ!」
壁に刺さった帯は力加減を知らぬ子供のように、二階の奥の座敷目掛けて突き抜けた。
(まずい。被害が広がる)
案の定、男と女の叫び声が響いた。
一畳ほどの穴の先で帯鬼が嘲り笑うように体を揺らしていた。桑島は集中して、鬼を斬る速さと角度を一瞬にして計算すると、刀に手をかけて構えた。
シィイイイイ 雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃
どぉんと雷が落ちた音がして、ぱらぱらと埃が待った。帯の鬼はその身の半分を斬られ、くしゃりと崩れた。見たところ相当手強い鬼だ。とはいえ、再生には時間がかかる。
(今のうちに)
助けられるものは少しでも遠くへ逃がしたい。
桑島が叫び声の方を横目で見ると、男にしては甲高い声で、女の名を呼んでいた。廓で与えられた名とは違う、生来の名を必死に呼んでいる。女は女で何かを伝えようとしていた。男の頭からは血が止めどなく流れていた。男が呼ぶ女の名も、女の声も、掻き消された。吉原の真ん中で聞くことはない、赤子の声で。
男の腕の中には、人の頭ほどの血の塊があった。女は胴体が泣き別れになっていたが、まだ意識はあった。
「この子を……」
大きな泣き声は血の塊が発していた。男は女を見捨てるわけにはいかず、嫌だ嫌だと首を振っている。赤子は急にこの世に引きずり出され、抗議するかのように泣き続けていた。臍の緒と胎盤が振り子のように揺れている。
「はやく!」
女の声に気圧された男はよろ、と立ち上がった。頭から流れる血は髪をべったりと重くしている。男は中廊下をちらりと見た。鬼を越えなければ廊下へは出られない。男は意を決し、つばを飲むと、一瞥したのとは逆方向を睨んだ。窓の桟を跨ぐと、血の塊を抱えたまま人だかりの中へ飛び降りた。きゃあと悲鳴が起きる。母となった女は両手を広げて鬼の行く手を拒んでいた。
「チッ」
体勢を整えた帯鬼は舌打ちをすると、桑島には目もくれず、女の方へ帯を伸ばした。しゅるしゅると女を包みこむと、己の中に取り込んだ。帯の端に引っかかって、畳の上に乾いた音がした。
鼈甲の櫛だった。
「あーあ、五十年ぶりに赤子添えで綺麗なまま食べたかったのに。でも、いいわ。この子の眼、綺麗だもの。目玉だけほじくり出して食べてあげる」
帯の上で、ころころと丸いものが転がっている。人の目玉だ、とわかったのは、鼈甲色の虹彩が右へ左へと転がったからだ。
「この色なら味は甘味に近いのかしらね」
言うと、鬼はその目玉を口の中に放り込んだ。
桑島は歯を噛み砕きそうなほど食いしばった。体中の血が怒り狂っている。ここまでの怒りを覚えたのは生まれて初めてだ。
(どうしていつも間に合わぬのか)
鬼への怒り、自分の不甲斐なさへの怒り。必要以上の負の感情は、戦いの場において不利を引き寄せるのは百も承知だが怒りが収まらない。
フゥウウウウ
桑島は有らん限りの力を込めて斬り込んだ。我を忘れて鬼に立ち向かった。剃刀のように鋭くなった帯が、桑島の左の脹脛を切り刻んでも、痛みは感じずに斬りつけていた。
帯の鬼がぼろ布と見間違えるほどにまでなると、鬼は勝てぬと判断して逃げ出した。桑島がむんずと掴んだ箇所を自ら切り捨て、押入れの僅かな隙間から逃げて行った。
体感で何十分も戦っていたかのように感じたが、実際はほんの数分であった。まだ、赤子の声が聞こえている。
桑島は壁にもたれかかると、左足からどくどくと広がる血を眺めていた。鬼のように再生はしない。 東の空からの光に朝が来たことに安堵して目を瞑った。できることなら今からでも夫君とその子を追いかけて、無事を見届けたかったが、この足では走れそうにない。まだ響き渡る声を、桑島は遠のく意識の中で聞いていた。あの力強い泣き声は男だろう。
──母と同じ字の旦那様にお会いできて
──男なら夫婦二人の名を合わせた名を
矢羽、いや、おはやはそう言っていた。あの声の大きな赤子には両親と祖母からの名が与えられるのだろう。
桑島は朦朧とした意識の中で、女の声を聞いた。障子越しかと思うほど遠いが、聞き覚えがある。「入れ」と言おうとして、それでは冷たいかもしれぬと思い直して、先に女の名を呼んだ。
(お善)
耳の外では赤子の甲高い泣き声が響いている。足の速い亭主がだいぶ遠くまで逃げたはずなのに、まだ聞こえている。
──お逸は立派でしたでしょう?逃げずに、我が子を守ったの。だって、あの子は私たちの子ですもの
「そうだな」
桑島は呟くと気を失った。
寺の門前で、頭から血を流した男が絶命していた。お逸の名を知る者はもうこの世にない。
けれど、お逸が紡いだ命はこの先も続いていく。
まだ蝉の声がする、長月九月三日の朝のことであった。
完