大人になった君「あー……ぜんっぜん分からん」
「てめぇ、そんなんで本当に受かる気あんのか?」
狭いアパートの一室。木製のローテーブルの上に並ぶ参考書の前で、陸奥はぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き乱して倒れ込む。肥前はそんな彼を見かねてため息を吐きながらも、麦茶が注がれたコップが倒れてしまわぬようにとさり気なくテーブルの中央へと寄せた。
顎を台の上に乗せたままに唇を尖らせ、分かりやすく不貞腐れている陸奥と参考書の二つを交互に見遣り、汗のかいたグラスを手に取ると大分温くなった茶を一口分流し込む。
「あるに決まっちゅうやか!肥前先生と並んで仕事するがあが、わしの夢ながじゃき」
「……、そうかよ」
煽る言葉に陸奥は素直に反応し、あの頃と比べれば随分と凛々しくなった眉を殊更に釣り上げ、きりっと表情を引き締めて肥前に真っ直ぐな眼差しを向けてきた。
自分に憧れて、というのは肥前としても悪い気はせず、麦茶を嚥下するまでというには些か長い沈黙を作ったのち、ふ、と息を抜いて短く答える。
「だったらもう少し集中して解いてみろ、諦めるにはまだ早いだろうが」
「それは、そうながじゃけんど……あーあ、ご褒美でもあったら頑張れそうな気がするににゃあ」
「……ああ?」
少し避けられてしまっている参考書の紙面に指先をとん、と当てて続きを促せば、橙色の瞳がゆるゆると反対側に流れ、あっという間に表情が緩まってしまった。しかもそれだけでなく、その口は本気か冗談か、頑張ることへの見返りを求めるときた。
レンズ奥の双眸を細めて陸奥を若干睨むも、怒っているわけではないと見抜かれているのか、陸奥の表情が朗らかなものから変わる様子はない。
「やき、ご褒美じゃ。……あん時も、わしはご褒美があったき頑張れたがよ」
「…………」
陸奥が言うあの時とは、彼の病気を治すために行った手術のことだろう。
今でこそ元気はつらつとした青年である彼は、小さい頃身体が弱く、入退院を繰り返していた。肥前と陸奥がこうして部屋に招かれるまで親しくなったのも、それが一つのきっかけとなっていた。
自分の身長など、とうに追い越したはずの陸奥は相変わらず台に貼り付いたまま、上目遣いで肥前に期待を存分に孕んだ目線を送り続けている。
「……はあ」
「ため息らあ吐かんとってや」
「誰のせいだと思ってんだ。……まあ、一応聞いてやる。てめぇは褒美に何を望む気だ?」
「それでこそわしの肥前先生じゃあ!」
「てめぇのじゃねえ」
がば、と勢いよく起き上がった陸奥に頭痛の気配すら感じ、一旦コップを机の上へ戻して額を押さえたが、その原因たる陸奥は特に気にしていないらしく、何故かほんのりと頬を染めたかと思えば、今度は視線の先を雑誌が散らばる床へと滑らし、妙に身体をくねくねさせ始めた。
「その、……のう?」
「なんだよ」
「やき……、にゃあ?」
「……さっさと言わねえなら、この話はなかったことに」
「あーあー!言う!言うき!」
「ちっ、じゃあ早く言えよ」
無駄にもったいぶられては、此方としても苛立ちが積もるだけだ。片眉をしならせて不機嫌な様子を相手へ見せつけると、陸奥は慌てて両手を左右に振り、漸く口を割る気になったらしい。
一度大きく息を吸い込み、深呼吸をした陸奥が改めて肥前を瞳に捉えた。
「……キス」
「ああ?」
「わしが受かったら、肥前先生からキス……してほしいちや」
「……」
「……だめ?」
瞳に不安の色が覗くと、途端にあの頃と何も変わらぬ表情が顔を出す。
彼が成長してから、態度が大分冷たくなったとは言え、なんだかんだと陸奥に敵わないのが肥前だ。僅かに首を傾げてこちらの様子を伺う彼の頭にぽん、と手を置けば、わざと乱雑にその髪を乱してやる。
「先生!何をするがじゃ!」
「受かったらな」
「えっ!?ほんにえいがか!?」
「なんだよ、嫌ならなかったことにするか?」
「嫌らあ一言も言うちゃあせんろ!よーし!ほいたらいっちょ、やるとするかにゃあ!」
すっかり転がす玩具になりかけていたシャーペンを握り直し、幾分かやる気が出たように思える陸奥が参考書に改めて向き合う姿を、肥前は頬杖をつきながらでも優しい眼差しで見守ることとなった。
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そして受験日を過ぎ、合格発表日まで時は進む。
受けたメッセージには部屋に来てくれ、としか書いておらず、合否の結果こそ記されてはいなかったものの、部屋につくなり肥前の手を引いていそいそと中へ導き、今も真正面で正座をした状態でにこにこと喜色を露わにしている彼の様子を見る限り、合格したことは間違いないだろう。
「んっふふ、肥前先生?わしが無事合格した時のご褒美、ちゃあんと覚えちゅうかえ?」
にまにまと緩んだ唇が紡ぐ言葉も、まさに彼の合格を示している。逆にここまで自信満々な様子を見せておきながら、落ちたなぞと言おうものなら、肥前は間違いなく彼の上へと雷を落とす。
「なんとこのわし!無事合格しましたー!」
存分に焦らしたその口がやっと合格の事実を告げたなら、肥前がやることは一つだけ。
眼鏡のつるを指先に摘んで外し、もう片方の手で彼の頬をそっと包み込んで、彼が反応するよりも早く唇をそっと触れ合わせた。
想像よりもずっと柔らかく、程よい弾力を返した唇は、肥前が解放してすぐに驚きの形へと変わっていく。
「……っ、ひぜ」
「おめでとう」
視界には互いしか映らないほどに至近距離で、低く囁きを落とせば一度は陸奥の瞳の幅がじわじわと広がるも、すぐにとろりと蕩けて喜びが琥珀に溶けて滲んだ。
額をこつりと合わせつつ、親指で少しかさついた頬を撫でれば、緊張と意識で敏感になっているらしい陸奥の肩がびくりと跳ねる。
「……で?これでてめぇは満足出来たかよ」
「……そ、れは」
「これは褒美なんだろ?……だったらてめぇが望むまま、与えてやるよ」
誘う、もしくは誑かすよう、敢えて声量を抑えた声で囁きを吹き込むと、レンズを通さずに見る陸奥の瞳が一度、二度と瞬いた。
そして次の瞬間には静かに細められ、重なった手が甘えるようにして甲を撫でていく。
「ほいたら、もう一回……」
「……ああ」
陸奥が瞼を伏せたことを確認してから、肥前はもう一度彼の唇に触れる。
遠き日の記憶が蘇り、僅かに吹き出しそうになったのは、ここだけの秘密である。
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『肥前せんせー、どういて口にはちゅーしてくれんが?』
『ませガキ、そういうのは大人同士がするもんなんだよ』
『えー!わしはそんなん、ぜんっぜん気にせんに!』
『てめぇが良くても、おれが良くねえ。ほっぺにしてやっただけ、ありがたく思え』
『ぶー、肥前せんせーはけちんぼじゃー!わしもちゅーしたいに!』
『はいはい、てめぇが大人になったら考えてやるよ』