【その1】ワンス・アポン・ア・タイム・イン・信州(草稿、冒頭14000字程度)※幻太郎が昔の男と浮気するかもしれません
※モブ主人公に名前と人格があります(ほぼオリキャラです)
※既刊『ひかりあらしめる』(https://www.pixiv.net/novel/show.phpid=15332280)の3年後の話で、いくつかの設定や出来事に言及しています/その他独自設定を複数含みます
※直接的な描写はないですが、性的関係への言及や軽めの性描写を含みます
※22. 01. 07 微修正
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――飴村乱数先生とうちの町とは、もう数年来の付き合いになります。元々、彼がうちの紬の色出しを気に入って、コレクションに使ってくださったのがきっかけです。もろもろ情勢不安もありましたが、今年ようやくフェスタにお招きできることになりました。積年の思い叶ったり、という企画ですから、実行委員も皆気合が入っています。雑誌で大々的に取り上げてもらうような機会も、次いつあるか分かりません。編集者の方からもご連絡のあった通り、今回の報告記事はぜひ、亥角先生にお願いしたいんです。
――でも僕、アートやファッションの批評も、ルポも専門外ですけどねえ。僕でいいのかしら。
――でも、先生はこの町にいらしてもう長いですし、アートフェスタのこともよくご存知でしょう。そういった地元の視点から書いて頂ける方は、他にはなかなかいません。地元関係者にも一通り意見を聞いてみましたけど、みな口を揃えて、亥角先生に、とのことでした。
――なるほど、承知しました。よいものになるよう努めますよ。
男は微笑んで頷きながら、厚い紙束を受け取る。飴村乱数のこれまでの仕事についてまとめた資料だという。
「飴村先生は本業のファッションデザイナーの他にも、音楽活動だとか、いろいろと活躍されていらっしゃいまして、インフルエンサーというのか……詳しいことは、こちらに目を通されてみてください」
「若い子に人気の方だよね。僕はお名前くらいしか存じ上げないんだけど……」
「そうですね、実は私も、デザイナー以外のお仕事のことはよく知らないんですが、とても多才な方みたいで……」
アメムララムダ、アメムララムダ、と、舌を噛みそうなその名を小さく呟きながら、男は受け取った資料をぱらぱらとめくる。飴村乱数という名を聞かされて、若者を中心に支持を集めるデザイナーだという程度の知識はすぐに呼び起こせたものの、なんとなく、それ以上の覚えがあるような気がしていた。けれど、それがなんだったか思い出せない。
「飴村先生は今月末から、アートフェスタ会期を含めた二週間ほどいらっしゃる予定です。有難いことに、ご旅行を兼ねて滞在されたいとのことで、ご予定を調整してくださって、先生がやってらっしゃる音楽活動のメンバーの方とご一緒に来られると――音楽の件は、その資料の中ほどに説明がありますけど――」
ページをめくっていくと、十枚目にCDのジャケットと思しき写真と、ロゴマークが印刷されている。フリング・ポッセ、というのが音楽ユニットの名前のようだった。メンバー名と近影写真に目をやって――
「――あ」
不意に男は大きな声を上げる。飴村乱数のスケジュールについて説明していた町役場の青年が、怪訝そうに眉をひそめる。
「亥角先生、どうかしました?」
「……ああ、いや、ごめんね、続けて」
彼は町役場の青年に詫びると、眼鏡を上げながら再び手元の資料に視線を落として、小さく印刷された、忘れようもない青年の名と顔写真を眺めた。
――夢野幻太郎。
亥角恒春は批評家である。三十代半ばの独身男で、物書きばかりやってきたせいで体力や筋力は乏しいものの、背だけは高く、190cm近いひょろりとした身体を、いつも少しばかり猫背に丸めている。大学院在学中に商業誌デビューして以来、ずっと東京で活動していたが、三年ほど前に思い立って信州の小さな町に拠点を移した。もともと在宅でのデスクワークが中心だったこともあり、地方に越してきてからも、さほど滞りなく仕事を続けている。
二年前、つまり彼が移住してきてから一年ばかり経つ頃に、世間では大きな出来事があった。言の葉党が解体され、政権がかつての与党の手に戻ったのである。武器の廃止を謳った前政権の精神に則り、最終的には合議の元でなされた、ほぼ無血革命であったという。当時、首都圏や大都市はそれなりにものものしい雰囲気になっていたようだが、地方にまでは伝わってこなかった。控えめな報道や、SNS上の個人投稿の動画を観て、なにか起きているようだぞ、と思いながら、今一つ実感のつかめないまま、気がつけば革命が終わっていたというのが、おそらく多くの地方民の実感であった。
それからひと月ほど経つと、亥角のもとへにわかに複数の依頼が舞い込んできた。曰く、東京で暮らした後に地方から政変を眺めた、その経験について批評的に書いてほしいというのである。ちょうど、東京の友人知人にも下手に連絡を取りづらく、何をしていいか気が揉めていた頃だった。依頼は社会的に意義のある仕事だと感じられたし、気持ちを向けられることがあってよかった、と思えた。ひたすらに書いているうち、一年ほど過ぎていた。
亥角が信州へ来てから手掛けるようになった仕事が、もう一種類あった。彼の越してきた町は、そう規模の大きいところではなかったものの、代々の町長が文化振興に強い関心を持っていた。名産の草木染めの紬織物に、美しい棚田の風景、そして温泉と、そこそこの観光資源もある。毎年五月の連休シーズンには、地元の美術館と町役場の共催で、十日間程度のアートフェスタが開催され、ゆかりのあるアーティストを招聘したコラボ展示やトークショー等々のイベントが行われていた。亥角は町へ引っ越してきたばかりの頃に、このアートフェスタの実行委員をしている美術館職員と、居酒屋でたまたま知り合い、手伝ってくれないかと、なかば勢いで引き込まれたのである。それまでアート関連の仕事をしたことはあまりなかったが、文化芸術一般に明るく、首都圏の文化人にも多少は顔がきき、文章の書ける人間ということで、なにかと重宝された。招聘者との仲介役やら、パンフレット等々の雑文書きやら、アドバイザー兼雑用係のようなことをしているうち、町役場でもすっかり顔なじみになっていた。
彼が最初に関わった年のアートフェスタは、開始直前で中止となってしまったのだった。政情不安により、アーティスト招聘も叶わなくなったためであった。その後、実行委員会の尽力と、地元住民からの支持もあり、翌年は無事に開催の運びとなった。フェスタ初日の夜、色とりどりの電灯でライトアップされた棚田の風景を目にしたときに、ここへ来てよかったとしみじみ感じたことを、亥角はよく覚えている。
そうして今年、満を持して、以前からゆかりのあったデザイナー・飴村乱数を招いてのフェスタが予定されているというわけである。紬を使った最新コレクションの展示や、ファッションショーのほか、音楽活動のユニットメンバーを交えてのミニライブも予定されている。話題性を買われ、有名カルチャー誌のアートと地域振興をテーマにした特集で、大きく紙面を割いて取り上げられることとなった。その特集内に掲載されるイベント報告記事の書き手として、担当編集者と実行委員会が協議の上、亥角に白羽の矢を立てたのだった。
東京で生まれ育った亥角にとって、ここはもとからゆかりのある土地というわけではなかった。つながりができた最初のきっかけは、彼の両親が定年後、住んでいたマンションを引き払い、信州へ移住したことだった。以来、つかず離れずのところに住んでくれないか、とはずっと言われていて、何度か話し合った末に、隣町に住むという方向で落ち着いた。幸いにもちょうどいい一軒家が見つかり、仕事柄必要な大量の本を収納するためにまるごと一部屋を宛てることができて、住環境も随分と快適になった。
とはいえ、いい年をした男の独り暮らしが田舎町でどう受け止められるのか、亥角には予想がつかず、初めは不安もあった。住んでみてわかったのは、中王区の文化がそこまで浸透していない分、どうやら男である自分は同情的に見られている、ということだった。近所で農業を営んでいる年老いた男性に言葉を掛けられたとき、亥角は内心、仰天したものだった。
――あんた、評論やなんかを書く先生なんだってねえ。背だってのっぽだし、いい男なのに、言の葉だかなんだかのせいで嫁が貰えなかったんだろう。それでこんな田舎に来てねえ、気の毒にねえ。
老人はそう言って、畑で取れたという大きなキャベツを亥角に分けてくれた。折しもH歴3年、嫁などという語自体も聞かなくなって久しい頃だった。なんとも名状しがたい思いを覚えつつ、はあどうも、と適当にやり過ごしたのだった。
亥角が夢野幻太郎と関係を――性的な関係を持っていたのは、彼が東京を離れるまでの半年強のことである。大学院時代に出会って付き合うようになった女性と結婚し、その後離婚したことで、亥角は自分が長期的な関係に適していないことを痛いほど悟り、以来、合意の下で遊べる相手を探して渡り歩いてきた。相手の性別にこだわりはなかった。何人かと関係を持ってきたが、とりわけ思い出深い相手が幻太郎である。もともと、彼の小説家としての仕事はよく知っていたが、初めて顔を合わせたのはとある文学賞の授賞式の懇親会で、知人の紹介がきっかけだった。その少し後、文壇関係者がよく足を運ぶバーでたまたま再会した。そこで意気投合し、そのままホテルへ向かったのだった。
お互い、人の噂で相手の浮名はよく知っていた。文学作品の趣味も合ったし、寝てみたところ体の相性も申し分なかった。あちらは他にも何人かの男と遊んでいるようだったけれど、亥角はさして気にしなかった。変に執着を持たれる心配がない分、むしろ理想的だった。定期的にホテルで会い、楽しい文学談議とセックスに耽った。
関係を終えたのは、亥角の信州への引っ越しがきっかけだった。もともと短期間の付き合いという約束だったので、いつものホテルで円満に別れを告げた。予想外だったのは、同時期に幻太郎が他の男たちとの関係もまとめて清算していたことだ。別れ際の様子からすると、おそらく彼には遊び以上の相手ができて――しかも、その相手はどうやら、彼の音楽仲間なのだった。最後に話をしたとき、その話題を出されて顔を赤らめた幻太郎の、ひどく初々しい含羞の表情が、亥角の胸を打った。帰宅してから妙に名残惜しい気持ちになり、感傷のまま短い文章をしたためたけれど、すぐに破棄してしまったので、何を書いたのかもおぼろげにしか覚えていない。
信州へ来てからも、幻太郎と多少のやり取りはあった。新刊の書籍を送り、丁寧な字で書かれたお礼の手紙を受け取った。次に東京へ行く用事があれば連絡しようと思っているうち、政変でそれどころではなくなってしまった。革命後も取り立てて連絡を取る機会がなく、今に至っている。
個人的なやり取りは途絶えていたものの、作家としての彼の活動はもちろん追っていた。一年前、彼は夢野幻太郎という名義が本来は兄との共同の筆名であること、にもかかわらずしばらくは一人で活動していたことと、それにまつわる長い事情とを、出版社を通して公表した。今では、作家業を療養中の兄との共同体制に少しずつシフトしているのだという。
町役場で渡された資料の、フリング・ポッセのページでは、そのあたりの事情は端折られて、夢野幻太郎のプロフィールは単に小説家となっている。顔写真は、おそらく別れたときより後の、最近のものだった。昔よりも心なしか雰囲気が落ち着いて、大人びている。
「元気にしてるかなあ」
自宅で資料を眺め返しながら、亥角はふと呟いた。BGMに、音楽配信サービスのフリング・ポッセの再生リストを流しっぱなしにしていた。幻太郎の甘い声を耳にすると、未練とか嫉妬といったものではなく、まるで同窓会の知らせでも受け取ったときのような、ただただ懐かしい思いが胸に湧いた。
東京からその町へは、東京駅から新幹線で一時間半ほど揺られたのち、在来線へ乗り換えて20分強である。フリング・ポッセの三人が訪れる日、駅のホームは出迎えのために集まった関係者で賑わっていた。取材に来た地方テレビ局のカメラクルーや、有名人を一目見ようと押し掛けた地元の若者たちもいる。
古びたローカル線の電車が到着し、中からポッセの三人が姿を現すと、ホームの人々はわっと湧いた。三人とも旅姿らしく軽装だけれど、シャツや羽織物のデザインが少しばかり個性的で、いかにも垢抜けた都会の風情がある。地元関係者に囲まれて歓待を受ける三人を、亥角は少しばかり離れたところで眺めた。
かわるがわる握手し合う、慌ただしい挨拶のやり取りが一通り済んだところで、幻太郎がこちらを見やる。そうして亥角と目が合うと、ぱっと花のほころぶような笑顔を浮かべて、人波を掻き分け、早足で歩いてきた。
「亥角さん!」
「夢野くん」
亥角も歩いていき、握手する。予想にたがわず、昔よりも柔らかな雰囲気になっていた。二十代も半ばを越えて、前よりいっそう、匂い立つような色気をまとっている。
「久しぶり。元気だった?」
「お久しぶりです。すっかりご無沙汰してしまって」
ふわりと微笑む顔を見下ろして、ああ綺麗になったな、また抱きたいなあ、と身も蓋もない感想を亥角は抱いた。
「眼鏡」
「え? ああ、こっち来てからは、面倒でコンタクトしなくなっちゃって」
「お似合いです」
幻太郎がそう言って、嬉しそうに目を細めるので、亥角はつい気をよくしてしまう。
「――亥角恒春さん?」
不意に声を掛けられ、振り返ると、飴村乱数が立っていた。写真で見た印象以上に華奢な青年だった。幻太郎と同い年のはずだったが、十代と言っても通りそうな風貌だ。彼の後ろにぴったりくっついてこちらを窺う若者は、ユニットのもう一人のメンバー、有栖川帝統だ。両手をポケットに入れて、肩をいからせ、凄むような目を向けてくる。いかにもヤンキー然としたその様子を、亥角は正直なところ、あまり得意ではないな、と感じたが、努めて態度には出さないようにした。
「飴村乱数さん、亥角です。初めまして」
亥角は微笑んで手を差し出し、握手する。乱数は亥角の手を握りながら、利発な少年のような鋭い眼差しで、まっすぐに彼を見上げてきた。睨まれているというのではないが、目は笑っていない。
「今回のイベントの記事を、亥角さんが担当されるって聞いています。『ヴァンテアン』の連載、読み応えありました。書いて頂けるの、楽しみにしています」
乱数が口にしたのは、フェスタが取り上げられるカルチャー誌のタイトルだった。亥角は最近までその雑誌で連載コラムを書いていたのだ。
「光栄です。こちらこそ、よろしくお願いします」
そう言って手を離そうとすると、抵抗があった。
「おじさん」
乱数は亥角に鋭い眼差しを向けたまま、小声で言う。
「幻太郎と寝た?」
「――おやおや」
亥角は苦笑しながら、強く握られた手をぐっと引いて離す。
「それは、僕の口から言うべきことじゃないな。夢野くんに聞いてよ。僕のほうは何言われたって構わないからさ」
その返事を聞くと、乱数は眉間に皺を寄せた。
「寝たんだ」
後ろの帝統も、苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
「寝たんだな」
「――」
亥角が返答に困って幻太郎の方を見やると、彼は素知らぬ様子で、ホームの案内板に貼られた温泉のポスターを眺めている。
「足湯もあるんですって、いいですねえ」
幻太郎が呑気な声で言う。乱数と帝統は相変わらずの形相で、こちらをじっとりと睨みつけてくる。
(――やれやれ)
心穏やかに旧交を温めるはずが、思いの外、前途多難そうな幕開けとなり、亥角は心の中で嘆息したのだった。
フェスタ関係者とフリング・ポッセの三人は、駅を出て貸切バスに乗り、そのまま旅館へ直行する。そこは地元で一番の高級温泉旅館で、全国的にもそこそこ名が知れている。ゲストの三人は滞在期間中、一週間はこの旅館に、もう一週間は観光客用の貸別荘に泊まる予定だという。関係者一同で宿へ向かったのは、その夜に開かれる歓迎会のためだった。ゲストの到着に合わせて、旅館の宴会場を押さえてあるのだ。県外からゲストを迎えるときには定番の流れだった。
夕刻、まだ外の明るい時間から、畳敷きの広い宴会場で、総勢二十名ほどの歓迎会が開かれる。関係者の何人かは宿の日帰り温泉で風呂を浴びてきたようで、浴衣姿で上機嫌にしている。ポッセの三人も浴衣姿だ。役場から直接駆けつけたという町長が、乾杯の音頭を取った。
――皆様のご尽力の甲斐ありまして、素晴らしいゲストをお迎えし、今年のフェスタはいっそうの注目を集めております。成功を祈念しまして……いや、長い挨拶は要りませんね。さ、さ、飲みましょう。
関係者の男女比は半々ほどだが、地域振興を担う人々だけあって、とにかく誰もが話好きで賑やかで、酒のペースも早い。皆が食事もそこそこに席を立ってあちこち移動しては、フェスタや町の今後についての話に花を咲かせているうち、あっというまに二時間ほど経っていた。会自体はいったんお開きになったものの、会場は押さえてあるので、ほぼ誰も帰らず、追加で頼んだ酒を飲んでは、ひたすらに話し込んでいる。これも歓迎会のいつもの流れだった。
この企画ほんとにやりたかったんですよ、と熱弁する町役場職員の話にうんうんと頷きながら、亥角はゲストの様子をちらと窺う。乱数は実行委員長の中年女性と楽しげに語らい、幻太郎はその様子を微笑みながら眺めていた。帝統はすっかり酒が回ってしまったようで、真っ赤な顔をしながら、とりわけ酒好きで気のいいおじさん連中と肩を組み、げらげらと笑っていた。
開始から三時間を過ぎても、宴は一向に終わる様子がない。亥角はいったん会場を出て手洗いへ行き、通路の途中にある休憩スペースで一息ついていた。ゆったり取られたスペースには木製のテーブルが二台、それぞれを一人掛けのソファが複数囲んでいて、大きなガラス窓からは庭の木々が見渡せる。
「亥角さん」
ふと声を掛けられて、振り返ると幻太郎が立っていた。
「ああ、夢野くん」
テーブルを挟んだ向かいのソファを勧めると、幻太郎も腰掛けた。
「東京の、授賞式やなんかの懇親会とは、ぜんぜん雰囲気が違うでしょう。着いた早々賑やかで、疲れてない?」
「いえ、楽しいです。活気があって、皆さんいい方で……」
幻太郎は酒で少し上気した頬をふわりとほころばせる。宴会場では、慌ただしくてろくに話せていなかったのだった。
「ろくにご連絡差し上げていなくて、すみません」
「いいえ、僕の方こそ。それに、夢野くんの方はいろいろと大変だったでしょう? ……夢野くん、とお呼びして差し支えないのかな、相変わらず」
「ええ、オフィシャルには相変わらず、わたくしも夢野幻太郎ということで通っておりますので」
幻太郎はついと背筋を伸ばし、少しおどけた口調で言うと、
「……それに、あのふたりも、呼び慣れた名がいいんですって」
そう口にしながら、ふっと表情を緩めた。
「そう」
かつて関係を持っていた頃に比べて、今の幻太郎は随分と雰囲気が和らいでいる。それはおそらく、単に歳を取って丸くなったというだけではないのだろう、と亥角は思う。昔のどこか棘のある雰囲気も愛らしかったが、今は今でまた美しい。
最近はどうしているの、と話しかけようとすると、廊下の向こうからがやがやと声が聞こえてきた。別の宴会場にいた客と思しき、中高年男女の集団である。すっかり出来上がった様子の赤ら顔をしていて、大声で会話しながら休憩スペースへやって来ると、隣のテーブルについた。
「夢野くん、最近は――」
「え?」
賑やかな声で、こちらの会話が掻き消されてしまう。亥角がもう少し声を張ろうとすると、わっはっは、と一層大きな笑い声が響いた。
「……」
「……」
二人は隣のテーブルを一瞥し、顔を見合わせる。
「いいお部屋じゃない、広々して」
客室を見渡して亥角が言う。畳敷きの間の奥に、障子を挟んで板張りのスペースがある、いかにも正統派の旅館の和室だ。幻太郎が、今日から泊まる部屋に亥角を連れてきてくれたのだ。
「でも、三人一緒の部屋でよかったのかい? 修学旅行じゃあるまいし、言えば別々にしてもらえたと思うけど」
「修学旅行がよかったんですよ」
幻太郎はくすくすと笑って言う。
「昔もね、温泉旅館で三人部屋に泊まったことがあったんです。楽しかったから、また一緒がいいねって」
言いながら幻太郎は窓際へ歩いていく。この部屋の窓からは、先ほど見えた庭がより広々と見渡せる。青々と茂る木々と大きな池が、やわらかな橙色の灯りに照らされている。
「いい庭でしょう」
「そうですね」
「温泉ももう入った?」
「ええ、着いてすぐに。とってもいいお湯でした。温泉なんて、ほんとに久しぶりです」
「よかった。この辺りでは一番の旅館だからね……県外からお客さんが来るといつもここだから、僕はちょっと飽きてきたけど」
「ふふ」
窓辺に立った幻太郎が、亥角のほうを振り返る。
「……お変わりありませんね」
懐かしげな、しみじみとした声で彼は言う。
「そう?」
亥角は幻太郎を見つめ返し、目を細める。
「きみはますます美しくなった」
幻太郎は苦笑して、再び窓の方を向いた。
亥角は窓辺へゆっくり歩いて行って、幻太郎の後ろに立つ。腕を伸ばして、カーテンをするすると引き、外から彼らの姿が見えないようにした。幻太郎は振り返らず、身じろぎもせずに黙って立っている。そっと肩に手を置いて、耳元で囁いた。
「だめ?」
「……気分じゃありません」
亥角には少し意外だった。もっとすげなく、氷のような態度で突っぱねられることも予想していた。満更でもないのかな、と思って、もう少し粘ってみることにする。
「そう。それなら、ここにいるうち、もし気分が変わったら、僕んちへいらっしゃい。結構広くてね、綺麗にしてあるんだけど、あんまり人を呼ぶ機会がないんだ」
言いながら、そろそろと腰のあたりに手を回す。
「広いから、まる一部屋を書庫にしてね。本は溜まる一方だからさ、思い切って移動式の書架を買ったんだ……大学の図書館なんかにあるような、ハンドルを回して動かすやつ。見に来てよ、僕の本棚、見せたことなかったでしょう」
「お会いするときは、いつもホテルでしたからね」
「こっちには、僕の気に入るホテルがなくってねえ。温泉旅館で逢引きってのも、なんだかムーディーに過ぎる気がするし」
幻太郎がくすくす笑い、亥角がもたれかかった肩が小さく揺れる。
「なにがあるんでしょう、亥角さんちのご立派な本棚……大概の文学全集は網羅されてるんでしょうか。『東都大学批評』のバックナンバーとか?」
「ああ、十年分以上はあるよ。僕、在学中は編集委員だったから、在庫がだぶついてるやつも若干あるかな、ほとんど処分しちゃったけど……欲しい号があれば、あげるよ」
幻太郎がついと首を傾けて、亥角のほうを振り返る。唇を寄せてみると、案外抵抗がなかった。これは彼氏と喧嘩でもしたかしら、と考えながら顎に手を添えて、唇を重ねる。そのまま何度かキスしながら、幻太郎の身体をこちらに向かせて、腰のあたりを撫でると、彼が感じ入ったように息をつくのがわかった。
「覚えてるもんだなあ……」
ひとりごとのように呟きながら、亥角は幻太郎の首筋に唇を寄せる。
「痕つけないで」
小さな声でそう言われ、うん、と返して、肩口のあたりをやわらかく食んだ。
しばらくの間、幻太郎は亥角の腕の中で、ゆるやかな愛撫を抵抗なく受け入れていた。けれど、亥角がもう一度唇を重ねようとすると、不意にぐっと押し返された。
「――、だめです、やっぱりだめ」
「どうして」
「だめだったら――」
揉み合っていると突然、背後でぱあん、と鋭い音がして、亥角の背中に衝撃が走る。
「――痛っっって!」
思わず声を上げ、呻いてその場に崩れ落ちた。
「――僕でよかったよね」
冷ややかな声が降ってくる。頭を上げて振り返ると、乱数がスリッパを手に立っていた。
「もし僕じゃなくて帝統だったら、絞め殺されてるとこだよ」
「これはこれは……」
膝をついたまま、亥角は苦笑する。
「王子様だ」
乱数はふん、と鼻を鳴らすと、亥角の正面に回って、幻太郎の肩をぐいと抱き寄せた。
「あのね、おじさん、今日はぼくらの久々の温泉旅行の、最初の日なの。だから今晩は、朝まで3Pするんだよ」
「――」
亥角の脳内で、サンピーという音を語に変換するまでに数秒がかかった。彼は遊び慣れている男だったが、そちらのほうはいささか守備範囲外であった。けれどそれで、ようやく合点がいったのだった。ははあ、どちらが彼氏なんだろうと思っていたら――。
「帝統は、酔っぱらって使い物にならないんじゃないですか」
ちょっと不貞腐れた様子で幻太郎が言うと、
「じゃあ、帝統はそのへんに置いといて、二人でしよ」
乱数が平然とそう返す。
「ほら、わかったら、おじさんはさっさと出てって」
「……失礼したね」
言いながら亥角がよろよろと立ち上がると、幻太郎は申し訳なさそうに肩をすくめてみせた。
(やれやれ)
再び心の中で溜息をつきながら、亥角は部屋を後にする。悪戯心を出した自分の自業自得ではあるが、したたかに叩かれた背中がひりひりと痛み、これは痣になってるだろうな、と覚悟したのだった。
「よろめいてた」
二人きりになった部屋で、乱数が幻太郎に言う。
「気の迷いですよ」
幻太郎はすげなくそう返した。
「ね、あのおじさん、エッチ上手い?」
乱数が幻太郎の腕に縋りつき、彼を見上げながらそう尋ねる。
「ええ」
「帝統より?」
「あっは、そりゃあね、申し訳ないですけれど……」
「ふうん」
乱数はそう返すと、もう一度幻太郎の腕にしがみついて、手の甲をきゅっとつねる。幻太郎が、んっ、と小さく声を上げた。
かつての遊び相手の肌に久々に触れたせいか、亥角はその晩、幻太郎と会っていた頃の夢を見た。楽しいセックスとお喋りは何度もしたのだから、それが夢に出てきそうなものだけれど、その夜はなぜか、彼を抱かなかった日のことを夢に見たのだった。
文壇関係者の行きつけのバーで飲んでいたある夜のことだった。いつも静かな店だが、その日はどこか落ち着かない雰囲気が漂っていた。数日前、大御所の老小説家・比良坂祿郎が急逝したのである。巨星墜つ、という表現があまりに相応しい事態に、誰もが単に一人の小説家の死という事態を越えて、一時代の終焉のようなものを感じ、時勢の激動の中、これからの文壇はどこへ行くのかという、漠然とした不安の中にあった。
亥角は、幻太郎が比良坂を師と仰ぎ、心酔していることをよく知っていた。そもそも初めて出会った時も、彼が雑誌に寄稿した比良坂論を、とてもよかったと褒めてくれたのだった。通夜には亥角も足を運んだが、何しろ大勢の弔問客でごった返していて、幻太郎の姿を見つけることはできず、ちょうど見かけた知り合いと言葉を交わすのがやっとだった。
その夜、バーには幻太郎の姿があった。隅のテーブルで独り、憔悴した様子で飲んでいた。軽く挨拶したが、上の空の返事を返したきり、黙りこくってしまった。普段より酒量も多そうに見えたので心配になり、カウンターで飲みながら遠巻きに様子を伺っていたのだった。
馴染みのバーテンダーと少し比良坂の話をしていて、気が付くと隅のテーブルに幻太郎の姿がなかった。手洗いに立ったのかと思ったが、しばらく経っても戻ってこない。気になってトイレの方へ様子を見に行ってみると、暗い通路の壁に寄りかかって佇む幻太郎の姿があった。
「夢野くん!」
慌てて駆け寄る。悪酔いして動けないのかと思ったが、どうやらそうでもないようだった。振り返ってぼうっと亥角を見上げた幻太郎の顔は、けれど、ひどく蒼白だった。
「大丈夫?」
「ええ」
「……タクシー呼ぶから、お水飲んで、今日はもう帰りなさい」
「……」
幻太郎は黙ったまま亥角を見つめると、不意に彼の肩に縋りつき、キスしてきた。
「――!」
亥角は幻太郎の身体を押しのける。
「酔ってるのか?」
幻太郎は答えず、亥角にもたれかかって肩口に顔を埋める。
「夢野くん、」
亥角が幻太郎の肩をさすりながら、宥めるように声を掛けると、
「――生きている人の傍に、いたいんです」
ひどく切迫した声でそう返され、思わず返答に詰まった。
幻太郎は亥角から頑として離れようとしなかった。やむを得ず、亥角はいつものホテルの部屋を取ったのだった。
部屋の中で、幻太郎はベッドに腰掛けて、携帯電話の画面に表示された亥角からのメッセージを呆然と眺めていた。連絡先が二件ほど、簡潔に記載されていた。当の亥角は、幻太郎から距離を取って、窓際のソファに座っている。
「……カウンセリング」
「うん、そこはね、僕も以前使ったことあるけど、おかしなところじゃないから。我々は職業柄、メンタルにはどうしても気を配らなきゃならないでしょう。どうしようもなくなる前に行っておくのも、いいと思うよ」
幻太郎は顔を上げて、捨てられた仔犬のような目で亥角を見た。
「亥角さん」
「僕はきみの友人でもあるし、ファンでもある。若くて有望な作家が鬱で潰れるようなところは見たくないし、助力は惜しまないつもりだ」
「……こっちへ来て」
亥角はソファに座ったまま、首を傾けて幻太郎の瞳を見つめる。
「僕はね、夢野くん、きみとは楽しくやりたい。腹いせだとか、なにかの対価だとか、自分を擦り減らすみたいにして僕に抱かれようとするのはやめなさい。萎えるどころの話じゃない」
「――」
幻太郎は呆けたまま亥角の顔を見ている。言われたことを聞いているのかどうかも危うい様子だった。
「していただけないんですか」
「そういう状態じゃないでしょう」
幻太郎はベッドから立ち上がり、亥角のもとへふらふらと歩いてくる。そうして座る彼の上に覆い被さり、唇を寄せてきた。亥角が押しのけても、幻太郎はどこうとしない。何度か抵抗した後に、亥角は根負けして、しぶしぶキスを受け入れた。
唇を重ねていると、幻太郎の頬に触れた亥角の手に、ふと、濡れた感触がある。見ると、幻太郎の両目から、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
「……やめようか」
亥角は言って、幻太郎の身体を胸に抱き、ぽんぽんと肩をさすった。幻太郎はおとなしく亥角の胸に頭をあずけて、ほとんど声も立てずに泣いた。
しばらくそうしていると、幻太郎が不意に、か細い声で呟いた。
「兄さんが、いるんです」
「お兄さん?」
「いまは、会えないのですけど」
「そう」
亥角は幻太郎の背中をさすりながら、静かに返事する。
「みんな、兄さんと私はそっくりで、ぜんぜん見分けがつかないって、よく言いました。でも比良坂先生は、私たちのこと、ちっとも似てないって仰って――私たち正反対だから、足して二で割ったらちょうどいいって――」
幻太郎が声を詰まらせる。
「そう」
亥角は彼の頬を両手で包んで、上を向かせた。
「お兄さんに甘えたい?」
「――」
黙ったままの幻太郎の頬を、再び、涙がつっと伝う。
「ああ、すまなかった、悪いことを聞いたね。ごめん」
亥角はもう一度幻太郎を胸に抱きしめて、肩をさすった。幻太郎は亥角の胸に縋りついて、静かに泣き続けた。
幻太郎があれほどに危うい様子を亥角の前で晒したのは、あの一度きりだった。次に会った時にはもう、彼はいつも通りの嫣然たる様子を取り戻していて、先日はすみませんでした、と、少し気恥ずかしそうに謝ってきたのだった。元気になったようだったので、亥角もあえて踏み込もうとはせず、以前と同じように、セックスとお喋りを楽しんだのだった。
夢から覚めて、布団の中でまどろみながら、亥角はぼんやりと幻太郎のことを考えていた。あの夜、べつに抱いてしまったってよかったんじゃないか、などという不埒な思いも、わずかに脳裏を漂っては消えた。
翌日の昼から、町役場の会議室でスタッフミーティングが開催された。フリング・ポッセのメンバーからは、乱数だけが参加していた。その乱数が、よりによって亥角の隣の席である。昨晩に湿布を張った背中が、まだ若干痛むのを感じながら、亥角はなんとも落ち着かない気持ちを抱えていた。
ミーティング自体は既定事項の確認と共有が中心で、つつがなく進行していった。休憩時間中、隣席でぱらぱらと資料をめくっていた乱数が不意に、
「イスミコーシュン」
印字された亥角の名前を、教科書を読む子供のような、屈託のない声で読み上げた。
「ねえ、おじさん」
「何」
「コーシュンて本名?」
「筆名だよ。本名は同じ字を書いて、つねはるって読む」
「ふうん」
「音読みのほうが文筆業っぽいでしょう、やっぱり」
「ふうん」
乱数は資料の字をしげしげと眺めながら、つねはる、と呟く。
「ツネちゃまだ」
「なんだいその、スネちゃまみたいな」
「いいじゃない、似てるよ、スネちゃま。キザったらしくて、嫌味ったらしいとこが」
「そりゃどうも」
小声で言い合っているうちに休憩は終わり、ミーティングは今後のスケジュール確認へと移った。
「明日の関係者親睦行事について、集合時間・持ち物等、確認いたします――」
進行係が言うと、乱数はぐっふっふっふ、と妙な笑いを漏らした。
「僕ねえ、明日のやつ、すっごく楽しみにして来たんです!」
「あら飴村先生、本当ですか?」
乱数のいかにも嬉しそうな様子に、地元スタッフも顔をほころばせる。
「もちろんです、だって僕、生まれて初めてだもの――『田植え体験』!」
はしゃいだ声を上げる乱数を、亥角はいわく言い難い思いで一瞥した。
この町の住民が、なぜだか毎年、並々ならぬ情熱を注ぐ催し――それがこの「田植え体験」である。
「いやあ、嬉しいなあ、飴村先生がそんなに喜んでくださって」
「うちの町じゃあ、田植え体験と機織り体験は、中学までに必ず皆やりますからね」
おそらく立派な棚田があるためなのだろうが、初夏の季節になると、学校行事やら親睦会やら、観光客向けのイベントやら、何かにつけて田植え体験会が開催されているようだった。例年、フェスタの前にも、関係者の親睦行事として田植えが行われているのだが、亥角にはあまり魅力が感じられず――正直なところ、機械で植えりゃいいじゃないか、としか思えなかったので、原稿の締切があるとかなんとか、無理やり理由をつけては欠席していたのだった。
「亥角先生も、まだ田植え体験されたことなかったでしょう?」
「あれ、先生まだだっけ?」
「そうですよ、お仕事の締切がおありとかで……ねえ、先生?」
「ああ、いや、ははは……」
話の矛先が自分に向きそうになり、亥角は慌ててはぐらかす。
その様子を、隣で乱数が窺っていた。彼はミーティング資料の、「田植え体験概要」のページを眺めると、
「二人一組でやるんだ」
そう呟いて、元気よく手を挙げた。
「はいはーい、僕、田植え体験、亥角さんとペア組んでやりまーす!」
「は⁉」
亥角は瞠目する。
「今回、せっかくご一緒することになったから、いろいろお話したいですし、共同作業で親睦を深めたいでーす!」
「――」
唖然とする亥角をよそに、地元スタッフ達はにわかに盛り上がり始めた。
「おお、いいですねえ!」
「亥角先生も、もうここに住んで長いんですし、そろそろどうです、田植え」
「やっぱり、一度はやっていただかないとねえ!」
どんどん断るに断れない雰囲気になってきてしまい、亥角は苦笑する。
「はは、は……」
くい、と小さく袖を引かれて、隣を向くと、乱数が彼を見上げて、小悪魔のような笑みを浮かべていた。
「よろしくねえ、ツネちゃま」
小声で囁かれて、亥角はつい眉根を寄せる。
「……こちらこそ」
「ウワ、嫌味ったらしい」
「――」
二人は少しの間睨み合っていたが、
「えー、それでは引き続き、明日以降の予定ですが――」
進行係の声が掛かると、二人とも慌てて正面に向き直り、粛々とミーティングに参加し続けたのだった。
(続く)