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    中町日名子🎤

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    中町日名子🎤

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    ポ3人交際前提、ポッセが幻太郎の昔の男と出会うところから始まるてんやわんや信州旅行と乱数の人生のお話 その3

    その1 https://poipiku.com/2464368/4986425.html
    その2 https://poipiku.com/2464368/5109552.html

    【その3】ワンス・アポン・ア・タイム・イン・信州(草稿)※幻太郎が昔の男と浮気するかもしれません
    ※モブ主人公に名前と人格があります(ほぼオリキャラです)
    ※既刊『ひかりあらしめる』(https://www.pixiv.net/novel/show.phpid=15332280)の3年後の話で、いくつかの設定や出来事に言及しています/その他独自設定を複数含みます
    ※直接的な描写はないですが、性的関係への言及や軽めの性描写を含みます

    ****
     ――ああ、こっちは受賞作のコーナーなんですね。きちんと整理されていらっしゃって……
     ――わ、これ初版本です?
     ――こちらは雑誌の棚ですね。わあ、ほんとに『東都大学批評』のバックナンバーがたくさん!
     ――文芸書以外も豊富ですねえ、思想書に科学に芸術……『図説 東アジアの食文化』ですって! 面白そう!
     幻太郎は本棚の間をくるくると移動しながら、子供のように目を輝かせて本を見つめては、取り出してぱらぱらと眺めたりしている。どうやら本当に、文字通り本棚を見に来たような様子だった。亥角は少しばかり安堵する。
    「じゃあ、僕は仕事部屋で作業してるからね、好きに見てていいよ」
    「え?」
    「出て右の、突き当たりの部屋だから、済んだら声かけて」
    「でも、亥角さん」
     呼び止める声には答えずに廊下へ出て、そのまま立ち去ろうとすると、くい、と後ろから袖を引かれた。振り返ると、幻太郎が物言いたげな瞳をして、こちらをじっと見上げている。
    「――夢野くん……」
     聞き分けてくれ、という思いを込めて名を呼ぶと、幻太郎は軽く眉根を寄せて切なげな表情を浮かべた。
    「……準備してきたんです」
    「――」
     す、と幻太郎がこちらへわずかに身を寄せる。ふわり、と首筋から香りが漂う――馴染み深い硫黄泉の匂いである。
    (ああ――)
     はあっ、と深く息をつき、亥角は腹を決める。
    「きみにそこまで言われちゃあね……」
     言いながら幻太郎の肩を掴んで、壁に優しく身体を押し付ける。顎を軽く持ち上げてやると、幻太郎はにっこりと微笑んだ。
    「合意だね?」
     念押しで尋ねると、
    「もちろん」
     悪びれない返事があった。
     身を屈めて唇を重ねると、肩にゆっくりと腕が回ってきた。亥角も幻太郎の腰を抱き寄せて、口づけをいっそう深くする。
     長いキスの後に、そっと唇を離すと、幻太郎が亥角を見上げて囁くように言った。
    「あの、亥角さん……」
    「なに?」
    「本棚も、もう少し見たいです」
    「わかった、じゃあ、僕シャワー浴びてくるからね。その間見てなさい」
    「はあい」
     そうして亥角はそそくさとバスルームへ向かい、幻太郎はいそいそと書庫の中へ戻っていった。

    「浴衣っていうのもいいね。そそられる」
     言いながら、亥角はベッドの傍で、幻太郎の帯をするすると解く。幻太郎は目を細めてふふ、と笑った。
     す、と幻太郎の手が伸びてきて、亥角のガウンの胸元に触れる。
     亥角は手を止めて、もう一度だけ尋ねた。
    「……ほんとにいいの?」
    「今更です」
     幻太郎はけろりとそう返す。
    「それもそうだ」
     亥角は笑って、幻太郎の着衣をそっとはだけさせると、肌の上に優しく掌を這わせながら、屈みこんでまた唇を重ねた。

     ベッドに身を沈めて、天井を眺めながら、亥角は深い充足感に満たされていた。
     もとより最近は慌ただしくて、人肌に触れるのはご無沙汰だった。そのうえ、相手が昔に増して美しく、妖艶になった幻太郎なのだから、悦楽もひとしおである。
     ふうっと息をつきながら、首を傾けて隣を見る。枕に頭をもたせかけて、少し眠たげな眼をした幻太郎は、亥角の視線に気付くと、ふわりと微笑んでみせた。
     少しの間、黙って視線を交わし合っていると、不意に床の上からぶるる、と振動音が響いた。
    「あ」
     幻太郎が呟いて身を起こし、ベッドから乗り出して床に手を伸ばす。
    「よいしょっと」
     情事の後にしては、いささか色気に欠ける声で言いながら、幻太郎は床から何やら拾い上げる――彼が持ってきた、手荷物入れの小さな巾着袋だ。中からぶるぶる震える携帯を取り出すと、亥角に背を向けて再びベッドに横たわり、画面をタップして耳元に当てた。
    「もしもし、乱数?」
     その名を耳にして、亥角は背筋に軽く寒さを覚える――そうして、男とひとつのベッドにいながら、平然と別の男と通話している幻太郎の姿を、大したものだ、と思いながら眺める。
    「はい。はい……ええ、構いませんよ」
     幻太郎は動揺する様子を少しも見せずに受け答えしている。合意の上であることは重ねて確認したのだし、嘘の上手な幻太郎のことだから、乱数にもうまいこと誤魔化してくれるだろう――と思っていると、
    「いま、亥角さんのお宅にお邪魔していて」
     その言葉が耳に飛び込んできて、亥角は思わず声を上げそうになり、ぐっとこらえる。
     いやそれでも、家にいるという以上のことは言っていないのだから、資料を見に来ただとか、適当に言いくるめてくれるはずだ――と半ば祈るように思いながら、幻太郎のうなじを見つめていると、
    「シャワーをお借りしてから行きますので――」
    (――!)
     亥角は目を剥き、声にならない悲鳴を上げた。
    「5時半ころでどうです? はい、承知しました。それじゃ、また後で」
     相変わらず平然とした声で言い、通話を切る幻太郎の背中を、亥角はわなわなと震えながら見ていた。
    「――すみません、シャワーお借りできます?」
     幻太郎はこちらに背を向けたまま、涼しい声でそう尋ねてくる。
    「……夢野くん」
    「はい?」
    「僕、絞め殺されないよね……?」
     亥角が恐る恐るそう尋ねると、
    「……」
     しばらく沈黙があったのち、幻太郎がゆっくりとこちらを振り向いた。手に持った携帯で口元を隠し、少し困ったように眉根を寄せて、ぱちぱちと瞬きしながら、上目遣いでじっとこちらを見上げてくる。なんだその顔は、可愛い顔をして丸め込もうったってそうはいかないぞ、と思って見ていると、
    「……乱数が、行って来いって言ったんです」
     幻太郎がおずおずとそう呟いた。
    「――は?」
    「その、乱数が、昔の男に久々に会ってそわそわしてるくらいなら、いっぺん寝てきて、僕らとどっちがいいか決めればいいって……」
    「――」
     亥角はあんぐりと開いた口の塞がらないまま、幻太郎を見つめている。
    「そしたら帝統も、勝負もしないで負けるのは嫌だからって……二人とも、そうしろって言ってきかなくて……」
    「……」
    「……すみません、騙すみたいなことしてしまって……」
    「……なんだい、そりゃあ……」
     亥角はどっと脱力して、枕の上に顔を伏せる。
    「それじゃ、僕はまんまと当て馬やらされたってことか」
     亥角がそう零すと、幻太郎が慌てた様子で言った。
    「当て馬だなんて、そんなこと――」
    「……僕に乗り換えようなんて気、ちょっとでもあるっていうの?」
     枕に伏せた顔をぐるり、と横に向けて、亥角がじっとりと幻太郎を睨みつけると、
    「……」
     幻太郎はまた目をぱちぱちとさせて、上目遣いでじっとこちらを見てきた。
    「ほらねえ」
    「すみません……」
     亥角は眉根を寄せて嘆息しながら、枕に頬杖をついて幻太郎のほうへ向き直る。
    「……まあ、遊びなら遊びでいいんだよ、僕だって本気になられても困るわけだから……それでも、こちらの肝が冷えるような真似は、程々にしてもらいたいね」
    「はい……」
    「乱数くんに、家へ行って誘ってみろって言われたの?」
    「それもありますけれど……正直にお話ししたら、亥角さんはやめようって仰るだろうと思って。ややこしい人間関係に巻き込まれるの、お好きじゃないでしょう」
     幻太郎の言う通りだった。もとより亥角は、人間関係のしがらみから自由でいたいがために、カジュアルな交際だけして生きてきているのだった。幻太郎にとって、乱数と帝統が軽い相手ではないことは、もう察しがついている。それでもどうしてもというなら、少しだけ羽目を外した後に、お互い何もなかったことにするというのも、それはそれでありだと思っていたのだが。
     先刻までの嫣然たる様子と打って変わって、幻太郎はすっかりしょんぼりとしている。
    「……僕と会って、そわそわしてたの?」
     そう尋ねてみると、彼は少しばかり頬を染めてこちらを見た。
    「……そうらしいです」
    「それは、嬉しいね」
    「……亥角さんと恋人ごっこみたいなことするの、とっても好きでした。楽しくて、いつも優しくしていただいて……なんだか、あの頃が懐かしくて」
    「僕も楽しかったよ。でも、彼らとはもう、ごっこじゃないんでしょう」
    「……どうでしょうね。ずっと、ごっこ遊びのような気もします……ただ、そうしているのに夢中で、そうしていないと、苦しくて死んでしまいそうだった、っていうだけで」
     幻太郎はふ、と息をついて、遠くを見つめるような目をする。
    「……愛しているんです、彼らのこと。二人のためなら、命だってなんだって惜しくないと思って、ずっと必死で走ってきた。走って、走って……色々と落ち着いて、もう走らなくてもよくなってきたら、なんだか、わからなくなってきてしまったんです。愛するってどういうことだったか――どうやればいいのだったか」
    「よその男と寝てみて、わかった?」
     亥角が尋ねると、幻太郎は肩をすくめて苦笑した。
    「……いいえ」
     亥角も苦笑しながら、腕を伸ばして幻太郎の肩をぽんぽんと叩く。
    「さ、シャワー浴びていらっしゃい。乱数くんに会いに行くんだろ」
    「――あの、」
     不意に、幻太郎が意を決したようにそう切り出す。
    「あの、ひとつだけ、伺ってもいいですか」
    「何?」
    「その……」
     自分から言い出しておいて、幻太郎は妙に逡巡し、口ごもっている。いったい何かと思っていると、
    「……僕の、兄のことの発表を、ご覧になったとき――」
    「うん」
    「……その、作家としての僕に、幻滅されましたか」
     そんなことを言うので、亥角は思わず吹き出してしまった。
    「いまさら!」
    「す、すみません……」
     亥角は笑いながらごろりと寝転がって、天を仰ぐように仰向けになる。
    「悲しいなあ、もしや夢野先生は、拙著をちっともお読みでないのか」
    「そんなこと!」
    「……だったら、信じてもらわないと困る」
     亥角は首を傾けて幻太郎のほうを見る。顔を真っ赤にして、少し不安げな瞳をした彼と視線がかち合う。
    「あなたのどの時期の、どのジャンルの書き物も、僕はひととおり取り上げたことがあるでしょう。酷評したことなんて、あったかな」
    「……ありません」
     幻太郎がおずおずと答えると、亥角は目を細めて微笑む。
    「僕はね、夢野幻太郎の新作を、いつでも楽しみにしているんだよ――まるで連載漫画の続きを待ちきれない子供みたいに、わくわくしてね。ずっとそうだったし、これからもそうだ」
    「――」
     それから亥角はもう一度幻太郎に向き直って、ゆっくりと告げた。
    「あなたの作品と作家性の、それなりに本質的な部分を、僕は理解できていると思っているし、信頼も置いている。あなたのお兄さんの件が、その本質を揺るがすことだとは思えない。そういうつもりで評も書いてきた。それがわからない?」
    「……いいえ」
     幻太郎はかすかに目を潤ませて、呟くように言った。
    「もしかして、初めっからそれが聞きたくて僕のこと誘ったんじゃないだろうね?」
    「ちがいます! 違います――ただ――ごめんなさい、」
     言葉に詰まって、幻太郎は目頭を両手で押さえ、はあっ、と深く息をついた。
    「……伺って、ほっとしました」
    「……そう」
     俯く幻太郎の姿を亥角はしみじみと眺める。すっかり大人になったとはいえ、目の前の青年が、いろいろと難しい事情を抱えて精一杯走ってきた、ただのひとりの若者に過ぎないことも、また事実なのだ。
     それからもう一度、シャワーを浴びてくるよう促すと、幻太郎は黙ってベッドを降りた。浴衣を羽織り、静かに目礼して出ていく彼の姿は、やはりえもいわれぬ優美さをたたえていて、亥角の胸に甘酸っぱい思いをよぎらせた。

     乱数は幻太郎に、亥角も連れて来いと言ったのだという。さすがに面食らったが、いきなり仕事先で乱数と顔を合わせるよりはましかと思い、亥角は粛々と幻太郎のあとについて家を出たのだった。
     待ち合わせ場所は町で一番大きな神社だった。毎年ちょうどフェスタの時期に例大祭が開かれ、たくさんの出店で賑わうのだ。
     乱数と、それに帝統も、自前の浴衣姿で来ていた。乱数は亥角の姿をみとめるなり、こちらを指差して、
    「あっはは」
     と声を立てて笑った。
     返す言葉もなく、幻太郎の後ろで背を丸めていると、帝統が少し憮然とした様子で幻太郎の傍へやってくる。そうして黙って彼の腕を引くと、参道をずんずんと歩き出した。少し遅れて後ろをついていくと、乱数が亥角の腕にわざとらしくぎゅっとつかまってくる。
    「ねえねえ、幻太郎と会ってたのはセックスばかりが目当てじゃない人」
    「……なんだよ」
    「今度からツネちゃんじゃなくて、腐れインテリ色ボケジジイって呼ぼうかな」
    「好きにしてくれ……」
     事情はどうあれ、他人の恋人と分かっていていて誘いに乗ったのは自分なのだから、言い訳のしようもない。乱数が屋台を指差して、りんごあめ食べたあい、と言うので、諾々と一番大きい飴を買ってやった。
    「だいたいきみ、あの二人のことくっつけたいんじゃないの? なんだって、わざわざ波立てるようなことするんだよ」
     亥角が尋ねると、乱数はりんご飴をぺろぺろと舐めながらこちらを見上げて、
    「障害があったほうが燃えるって言うでしょ」
     事もなげにそう言った。
    「障害ねえ……」
    「あ、ほらほら、いい雰囲気だよ」
     乱数が言って、前方の幻太郎と帝統をりんご飴で指す。二人は社殿の前の広場の隅に立って、手を繋ぐでもなく、なんとなく触れ合わせるようにしながら、暮れ始めた空を見上げていた。

    「あ」
     幻太郎が言って、空を指差す。ひゅるる、と音がして、ぱん、ぱん、と金色の花火が夕空に弾けた。
    「ああ、やっぱり、いいですねえ。たまやあ」
     のんびりと声を上げる幻太郎の隣で、帝統はずっと黙りこくっている。
    「ことし初の花火ですかねえ。ね、帝統」
     そう言いながら、幻太郎がちら、と隣を窺うと、
    「――お、」
     不意に帝統がそう切り出した。
    「お、おれのほうがよかっただろ!」
    「――」
     幻太郎は目をぱちぱちとさせながら帝統の横顔を見つめる。耳の先まで、茹でたように真っ赤になっている。
    「……ふ、ふふ」
     幻太郎は思わず吹き出してしまう。
    「ははっ、あっはは」
    「な、なんだよ」
     帝統がまごついて幻太郎のほうを振り向くと、
    「あなたねえ、格好つけたって、そんな顔してたら台無しですよ!」
     幻太郎が可笑しそうにそう言うので、帝統はいっそう頬を赤くして、もごもごと口ごもってしまった。
     ぱん、ぱん、と音を立てて、空に花火が上がり続ける。大きな花火大会で上がるような豪勢なものではないけれど、暮れゆく薄紫の空を華やかに彩っている。
    「……今年も、あなたとお祭りへ来て、花火を見られてよかった」
     ふたたび空を見上げながら、幻太郎がしみじみとそう口にする。
    「……うん」
     帝統も空を仰ぎながら、少しだけ拗ねたような声で返事すると、
    「……でも、」
     幻太郎が言って、帝統の手にするりと指を絡める。
    「はやく、宿に戻りたい」
    「……!」
     帝統が息を呑む。ややあって、汗ばんだ手がぎゅっと幻太郎の手を握り返す。
     肩を並べて手を繋いだまま、揃って紅潮した頬をして、二人は花火を眺めている。

     亥角は乱数に言われるがまま、たこ焼きもイカ焼きも買わされ、やけになって自分に缶ビールを買った。
     広場の隅のベンチに腰掛けてちびちびと飲みながら、幻太郎と帝統の様子を遠巻きに窺っていると、
    「ピノキオはさ」
     隣でたこ焼きを頬張っていた乱数が、唐突にそう切り出す。
    「へ?」
    「ピノキオのこと、田植えの時に話したじゃない。あのあと、調べたの」
    「はあ、なんだい、急に」
    「ピノキオはね、成長していい子になったから、人間の男の子にしてもらえたんだって」
    「ああ、そんな感じのお話だったね、たしか」
    「人魚姫はさ、人間の女の子になりたかったのに、泡になっちゃったじゃない」
    「そうだね」
    「ツネちゃんは、どっちのお話が好き?」
    「は?」
     隣を振り向くと、イカの身にかじりついた乱数が、大きな目でじっとこちらを見上げている。
    「そうねえ、特別どっちが好きってこともないけど……」
     ビールを一口飲んで、亥角はうーんと唸る。
    「まあでも、人魚姫はやっぱり美しい悲劇だよね。いたいけな少女の献身と悲恋と……。子供の頃に初めて読んだときは、なんて酷い話なんだって、結構ショック受けたけどね。人魚姫はいい子なのに、救いのない物語だからさ。もしかしたら、子供が一番最初に読む悲劇なのかもしれない」
    「じゃあ、人魚姫が悪い子で、罰として泡にされる話だったら、よかったのかな」
    「それも後味悪いね」
     亥角は言って、ビールをごくり、ともう一口飲むと、乱数の方を振り返る。
    「で、ピノキオと人魚姫がどうしたって――」
     言い終わらないうち、口の中にたこ焼きを押し込まれる。黙れということか、と思いながらもぐもぐと咀嚼していると、
    「あのさ」
     乱数が再び唐突なことを言い出す。
    「今晩、ツネちゃんち泊めてよ」
    「は⁉ なんでまた」
    「ふたりっきりにするんだよ」
     言いながら乱数は、食べかけのイカ焼きを、向こうにいる幻太郎と帝統のほうについ、と向ける。
    「いいかんじじゃない」
     ふふ、とほくそ笑む乱数を、亥角がいまひとつ釈然としない思いで見下ろしていると、
    「ね、いっそ僕がツネちゃんと寝たらさ、あの二人もちょっとは乱数ちゃん離れしようって気になるかな」
     乱数が突然そんなことを言うので、亥角はつい大声を上げてしまう。
    「はあ」
    「いいじゃない、ツネちゃん、カジュアルなお付き合いする人なんでしょ? 僕、悪くないと思うよ」
     そう言って、乱数はふわりと口元を緩めて微笑み、たちどころに蠱惑的な雰囲気をまとってみせる。その変わりように亥角は内心舌を巻きつつも、さほどそそられてはいない自分に少し安堵した。彼らの仲に下手に首を突っ込んで肝の冷える思いをするのは、もう御免被りたかった。
    「いやあ、申し訳ないけど、僕その、ショタ趣味みたいなのは全然なくて……」
    「失礼だよ!」
     途端に乱数は頬をぷうと膨らませて怒り出す。
    「二十代後半つかまえてショタ呼ばわりするひといる」
    「まあなんだ、きみだって、自覚あるから腹が立つんじゃないの……」
     なんだかんだ言い合っていると、幻太郎と帝統が連れ立ってこちらへやってきた。
    「あのね、今晩、ツネちゃんちに泊まることになったの!」
     二人の顔を見るなり、乱数が元気よくそう言うので、亥角は逆らう気も失せてしまった。
    「お仕事の打ち合わせするんだよ」
     悪びれる様子もなく乱数が言うと、
    「……そうですか」
     幻太郎は少し拍子抜けしたような顔をして、そう答えた。
    「ご迷惑のないようにするんですよ、乱数」
    「はあい」
     屈託なく返事する乱数に、にこにこと微笑みかける幻太郎の後ろで、帝統がかすかに紅潮した頬のまま、少し憮然とした様子で俯いている。幻太郎の笑顔にも幾分寂しそうな気配があるのを見て、亥角はよほど、君ら三人で過ごせばいいじゃないの、と言いそうになったものの、もはや彼らの何にどこまで踏み込むべきなのかもよくわからず、ただ乱数の隣でおとなしくしているのが精一杯だった。

     家に連れてくるなり、乱数はシャワーを浴びて着替えたいと言うので、風呂に湯を張って来客用のパジャマを出してやった。
    「一緒に入る?」
     脱衣所に通された乱数が、浴衣の襟を緩めてちらりと肌を覗かせながら、またそんなことを言うので、
    「冗談!」
     亥角はそう返事してさっと踵を返し、廊下へ出る。ばたんと閉じた扉の向こうから、ぶうぶうと不満げな声がした。
     寝込みでも襲われたらどうするか――と亥角は若干不安になっていたものの、風呂から上がった乱数は、亥角よりも居間の本棚のほうに興味を移したようだった。よく読み返す本や、見栄えのする本など何冊かは、書庫でなく居間の壁際のラックに並べてあるのだ。もちろん仕事部屋にも書棚はあるので、必要な本をどこに置いたか分からなくなってしまうこともしばしばなのだが。
     居間のラックの下の方には、大判の画集や写真集が置いてある。乱数はしゃがんでその棚を熱心に眺めていた。
    「好きに出して見ていいよ」
     そう声を掛けると、乱数は何冊も引っ張り出してテーブルに積み上げ、ソファに腰を下ろしてぱらぱらとめくり始めた。
     大人用のフリーサイズのパジャマの袖と裾を捲って、大判の本を熱心にめくっている小柄な姿を見ていると、まるで親戚の子供が遊びにでも来ているような、妙な感覚になる。居間とつながったキッチンから、しばしの間その姿を眺めた後、亥角は乱数に声を掛けた。
    「僕お茶淹れるけど、君も何か飲むかい? 紅茶かコーヒーか、ハーブティーか」
    「紅茶は葉っぱ何?」
    「ダージリンか、アールグレイ」
    「アールグレイがいい。ちょっとだけミルク入れて」
    「はいはい」
     亥角は諾々と返事して湯を沸かす。
     ミルクティーを作って持っていくと、乱数は古い洋書のファッション写真集を真剣に眺めていた。亥角は声を掛けず、ソーサーに乗ったカップをテーブルにそっと置く。
    「ね、これ希少本じゃないの?」
     紙面に視線を落としたまま、乱数が尋ねてくる。
    「むかし、古書店街でたまたま見つけてね。四、五万したかな」
    「わ!」
     お茶こぼさないようにしなきゃ、と小声で軽口を叩く乱数に亥角は苦笑する。けれどその声からも、本にすっかり心を奪われていることは明らかだったので、彼はいくぶん安堵した。
    「僕、上の仕事部屋で作業してるから、何かあったら呼んで」
     亥角が言うと、乱数は黙って頷いた。
     それから亥角は、マグカップになみなみ注いだ自分の分の紅茶を持って二階へ上がり、仕事部屋でしばらくメールのチェックをしていた。溜めてしまったメールにあらかた返信したところで、ふと、一階からかすかな物音が聞こえることに気付いた。音は次第に大きくなり、亥角はそれが乱数の咳払いであることに気付く。ごほごほ、と咳き込む音も聞こえ、喉に何か引っかかるような酷い咳の音だったので、亥角はつい作業の手を止める。空気清浄器をつけ忘れていたかしら、と思いながら、部屋を出て階下へ降りた。
    「乱数くん、大丈夫? お水でも……」
     そう呼びかけながら居間の扉を開いて――亥角は息を呑んだ。
    「ツネちゃん」
     ソファに座った乱数が、呆然としてこちらを向く。彼の口元と、白いパジャマと両手、それからテーブルの上の写真集が、真っ赤な血でべったりと染まっていた。
    「ごめんね。汚しちゃった」
     青白い頬をした乱数が、か細い声でそう言った。

    「東京に戻る」
     渡されたタオルで血を拭いながら、乱数はそう口にした。
    「何言ってる」
     最寄りの夜間外来を調べていた亥角は、慌てて携帯から顔を上げる。
     乱数は手荷物の小さなトートバッグからピルケースを出し、小さな錠剤をいくつも取り出して飲み下す。目に眩しい蛍光ピンク色の錠剤は、薬というより輸入菓子のようで、どこか現実感の乏しい雰囲気をたたえている。
    「僕ね、昔から持病があって……珍しい体質だから、ふつうの病院にはかかれないんだ。新宿にかかりつけがあるから、そこまで戻る」
     こちらを向いた乱数の顔は蒼白だったけれど、瞳は決然とした意志を帯びていた。
    「万が一、何かあったときのことは、幻太郎とも帝統とも、実行委員長さんとも相談してたから。だから、心配しないで。大丈夫だから」
     ひどく落ち着いた口調で、言い含めるように乱数は言った。自分が動揺したところで仕方がない、と亥角は悟り、黙ってひとつ頷く。
    「……車は?」
    「タクシーか、レンタカー頼んでもらう。幻太郎が運転できるから」
    「よければ僕の貸すから、夢野くんたちが来たら、すぐ行きなさい。今から出れば今日中には着く」
    「……ありがとう」
     強張っていた頬をふっと緩めて、乱数が微笑んだ。

     玄関先に姿を現した幻太郎と帝統は、どこかこうなることを覚悟していたような様子で、亥角の想像よりも落ち着いていたけれど、表情は硬かった。
    「乱数は」
     低い声で帝統が問う。廊下の奥の居間の扉を顎でしゃくり、ソファで休んでる、と言うと、帝統は慌ただしく靴を脱ぎ、亥角をほとんど押しのけるようにして家の中へ入っていった。
    「高速に乗っちゃえば、案外すぐだからね」
     言いながら、亥角が幻太郎に車の鍵を手渡すと、
    「――体のことがあって、いままで、あまり頻繁には遠出できなくて」
     堰を切ったように、幻太郎がそう零した。
    「でも……ここ半年くらいは、もうずっと落ち着いていて、なんともなかったんです」
    「そう」
     亥角はぽんぽんと控えめに幻太郎の肩をさする。
    「気を付けて」
    「……はい」
     幻太郎は両の掌で鍵を握り締めて、こくり、と頷いた。

     車窓の外に立つ亥角と帝統を一瞥して、乱数は後部座席に身を沈め、シートベルトを締める。幻太郎と帝統が持ってきてくれた替えのシャツとイージーパンツの上に、亥角が貸してくれた厚手のニットのカーディガンを羽織っていた。出るときに持たされたタンブラーの白湯をすすりながら、乱数は運転席の幻太郎に声を掛ける。
    「ごめんね、幻太郎」
    「謝ることじゃないですよ」
     エンジンを掛けながら、幻太郎は穏やかな声でそう返した。
    「でも、今日、疲れてるでしょう。昼も夜も、いっぱいエッチしてさ」
     前方のルームミラーを覗き込んで、幻太郎の様子を窺いながら、乱数がほくそ笑んでみせる。
    「……帝統とは、してませんよ」
    「え」
     乱数は瞬きして身を起こす。
    「なんで」
    「あなたから連絡があって、飛んできたから」
    「――うそ」
     それまでずっと静かだった乱数の声が、途端に揺らいで、癇癪を起こす子どものように昂る。
    「うそ――なんで――やだ、そんなの」
    「なんですか、やだって」
    「だって――ねえ――ごめんね、ごめんね幻太郎」
    「なんです、どうしたの、泣くようなことじゃないでしょう?」
     乱数が目元を指で拭い、ティッシュを何枚も取る姿をミラーで見やって、幻太郎が苦笑する。
    「ごめんね」
    「……ばか」
     幻太郎は呟いて、自分も声を詰まらせているのを誤魔化すようにアクセルを踏み込んだ。
    「乱数のばか……」

     自宅の前に立って、車の去っていった先をしばしぼうっと眺めていると、
    「――荷物」
     不意にそう声を掛けられ、亥角は隣を振り向いた。
    「あいつの荷物、持って帰るんで」
     そう告げる帝統の顔は、ここへ来た時から変わらず青ざめていた。
    「ああ、うん」
     返事すると帝統は黙って踵を返す。亥角は少し迷った。この期に及んで、彼によい印象を持たれているとも思えなかった。それでもやはり、
    「――よかったら、何か温かいものでも飲んでいきなさい」
     そう声を掛けずにはいられなかった。帝統は振り向いて、呆然とこちらを見つめる。
    「……もちろん、無理にとは言わないけど――気が落ち着かないだろう」
    「――」
     帝統は瞬きして、こくりと頷いた。呆けていて、ろくに頭の回らないまま承諾したような様子だった。

    (続く)
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