【その2】ワンス・アポン・ア・タイム・イン・信州(草稿)※幻太郎が昔の男と浮気するかもしれません
※モブ主人公に名前と人格があります(ほぼオリキャラです)
※既刊『ひかりあらしめる』(https://www.pixiv.net/novel/show.phpid=15332280)の3年後の話で、いくつかの設定や出来事に言及しています/その他独自設定を複数含みます
※直接的な描写はないですが、性的関係への言及や軽めの性描写を含みます
※22. 01. 07 微修正
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翌日の昼過ぎ、山あいのなだらかな斜面に並ぶ棚田の傍に関係者一同が集合し、田植え体験会が開催された。地元スタッフも来賓も、揃ってTシャツに短パンという地味な格好だ。農家の人があらかじめつけてくれた格子状の目印に沿い、ペアごとに割り当てられた持ち場へ植えていく。初めのうち、初心者のペアには指導がつき、あれこれと確認しながら植えていたものの、三十分ほど経つと、どのペアも肩を並べて粛々と作業を繰り返すばかりになった。
「飽きたあ……」
乱数が立ち上がって、苗の束を手にしたまま腕を持ち上げ、ぐうっと伸びをする。初めこそ、田んぼの風景だとか、泥の中を歩く感触だとかにいちいちはしゃいでいたものの、おおかたを理解してしまうのも早かったようである。
「ツネちゃあん、元気?」
乱数は隣にしゃがんだ男の背を見下ろす。
「僕はねえ、腰をやったらどうしようかってヒヤヒヤしてる」
亥角は苗を植えながら、ひきつった笑顔で答えた。
「もし僕が急に動けなくなったら、きみが運んでくれ」
「えぇ、やだよ……わーって叫べば、みんな飛んできてくれるんじゃないの? 亥角せんせえー、つってさ」
「ああそう、じゃあ、わー助けてーって叫ぶ係でもいいよ。きみのほうが声がよく通るから、適任だろう」
乱数は何回か屈伸してしゃがむと、苗を植えていく作業に再び取り掛かる。
「ね、退屈だから、山手線ゲームしよ」
「は?」
亥角が訊き返すが、乱数は意に介さず続ける。
「山手線ゲーム、童話のタイトル! 白雪姫」
「ええ? ……えっと、ジャックと豆の木」
「シンデレラ」
「人魚姫」
「桃太郎」
「金太郎」
「三匹のこぶた」
「ピノキオ」
「ピノキオってどういう話だっけ」
「は? ええと、木でできた人形のピノキオが、嘘ついて鼻が伸びたりして……最後には、人間の男の子になるんじゃなかったかな」
「なんで人間の男の子になるの?」
「忘れたよ」
「ふうん」
そう返すと、乱数は黙ってしまった。
「……おい、続きは?」
「へ?」
「山手線ゲームじゃなかったの?」
「飽きたからもういい」
亥角は苦々しい顔で乱数を見つめながら、立ち上がって屈伸した。乱数は素知らぬ様子で苗を植えている。
大きく伸びをして、もう一度しゃがむと、乱数がまた話しかけてきた。
「ツネちゃんさ」
「何?」
「エッチ上手いんだってね」
「夢野くんがそう言ったの?」
「うん」
「そりゃあ光栄だ」
言いながら、亥角は肩にかけたタオルで額の汗を拭う。
「あと、バツイチなんだってね」
「筒抜けだな」
「何言われてもいいって言ったの、自分じゃん」
「そうだけどさ」
「結婚してたのは、幻太郎みたいな男の人?」
「いや、女性だよ。僕はわりと結婚が早かったからね、当時は制度婚と言えば異性婚の時代」
「本当は男と結婚したかった?」
「いや、相手の女性とはずっと付き合っててね。結婚したくてした」
「でも、別れたんだ」
「そういうこともあるよ」
「なんで別れたの?」
「プライバシーだろ」
「けち」
亥角が顔を上げて横を見ると、乱数がぷう、と頬を膨らませていた。こういう仕草が馴染む成人の男もいるものだなと感心しながら、しげしげと眺めた。
それからまたしばらくの間、二人は黙々と苗を植え続けた。
「ねえ」
「何」
「あの二人、どう思う」
「は?」
亥角は顔を上げ、乱数の視線の先を追って、彼らがいるのより少し下の方にある棚田を見やる。そこには幻太郎と帝統がいた。どうやら帝統がバランスを崩して、尻餅をついてしまったようだった。泥にまみれて田んぼの中に座り込む帝統の隣で、同じように泥まみれになった幻太郎が、帝統の肩に手を置いてもたれかかり、大笑いしている。
「睦まじいね」
亥角がそう言うと、
「うん」
乱数が二人の方を向いたまま、短く返事する。
「あの二人、結婚すればいいと思うんだよね」
「は?」
唐突にそう言われて、亥角はつい間の抜けた声を上げてしまう。乱数が彼の方を振り返って、怪訝そうな眼差しを向けてきた。まるでこちらの反応の方がおかしいみたいな表情をされて、亥角はまごつく。
「――え、でも、きみらは、なんだその」
「何?」
「ポリアモリーというか、三人交際というか、そういうやつなんじゃないの?」
「うーん」
肯定とも否定ともつかない、曖昧な返事が返ってくる。
「二人はさ、僕がいるから、結婚しないのかもしれない」
「……」
急に立ち入った話をされて、亥角は戸惑った。けれど、あくまで平然とした様子の乱数を見て、まあそういうものかもしれない、と思ったのだった。相手が赤の他人だからこそ、個人的な話をぽろりと零してしまうことはあるものだ――旅先で立ち寄った居酒屋で、隣の客につい身の上話をしてしまうような、そんな心情なのだろうと推察した。
「……うーん、まあ、彼らも大人なんだし、望んで結婚せずにいるんだったら、わざわざさせることもないんじゃないの? それも君への愛情というかさ」
言いながら、我ながらなんだか白々しいな、と亥角は思う。いきなりこういう話を振られて、気の利いた返しをするというのも難しいものだが。
「んー」
案の定、乱数からは気のない返事が返ってくる。
「……すりゃいいってもんでもないよ? 結婚は」
「まあ、バツイチの人はそう言うよね」
「じゃあ僕に話を振るなよ」
亥角がそう言うと乱数は黙ってしまう。このまま話が途切れるのも気詰まりだったが、かと言って、どのくらい踏み込んでいいかもわからなかったので、亥角は話の矛先を変えることにした。
「しかし、ちょっと意外だな」
「何が」
「きみはヒップホップなんてやってるわけだからさ、もっとアナーキーなのかと思ってたけど、制度婚とかこだわるんだなと思って」
「いざってときに、そういう支えがあるとないとじゃ、やっぱり違うでしょう」
「まあねえ……」
亥角はふうっと息をついて、また立ち上がり、大きく伸びをする。
「……まあ、いろいろと、やりようはあるんじゃないの? 現状、日本で三人で制度婚はできないとしてもさ、あの二人が結婚して、きみを養子にするとか――僕は詳しくないから、実際できるのかどうか知らないけど、そういうのに強い弁護士でも探して、相談してみればさ、何かしらは」
「うーん」
また生返事が帰ってくる。乱数のつむじを見下ろしながら、別に答えが欲しいわけじゃないのかもな、と亥角は思う。
「ツネちゃんはさ」
「何?」
乱数がついと顔を上げて、こちらを向いた。
「幻太郎のこと好き?」
「なんだい、また急に」
亥角はつい笑ってしまったけれど、乱数は真顔だった。つぶらな瞳がまっすぐにこちらを見ている。
「――好きだよ」
「どういうとこが?」
「美しくて、聡明で、勘がいい。遊び心がある」
「エッチが上手いとこは?」
「僕は第三者にそういう品のない話はしません」
「ふうん」
「彼とはね、しばらく会ってたけど、別にセックスばかりが目当てだったわけじゃないんだよ」
言いながら亥角はしゃがんで、田植えを再開する。乱数も手元に目線を戻す。
「別れた女の人とは、愛し合ってた?」
乱数がまた尋ねてくる。
「そう思うよ」
手を動かしながら亥角は答える。
「どんな人だったの」
いつの間にか、乱数の声から悪戯で意地悪な調子が消えて、あどけない子供のような声音になっていた。
「そうねえ……」
亥角は少しだけ手を止めて、目の前の青々とした苗を見つめながら考え、そうして話し始めた。
「――初めて会ったとき、僕は大学院生で、彼女は編集者をやってたんだ。学部のころから、サークルで批評同人誌を作っててね、そこそこ名前のあるやつなんだけど……即売会があって、ちょうど僕が店番してたときに、彼女が来たんだよね。少し話をして、名刺を置いて行って。賢そうで、綺麗な人だなと思って、なんとなく印象に残ってたんだけど、それからひと月後くらいに、有志の読書会でたまたま再会して。そしたら、まあ本当にめちゃくちゃ頭の切れる人だった。弁も立つし回転も速いし、仕事の片手間にやってると思えないような緻密なレジュメ作ってきてね。感嘆してしまった」
「それで好きになって、付き合うようになったの?」
「そうだねえ。当時はH歴以前で……なんというか、彼女がとても優秀な人で、なおかつ女性だっていうことに、勝手に傷ついたり、卑屈になったり、ちょっと変にこじれるような男が珍しくなかったんだな。僕は、そういうところがあんまりないのがよかったって、彼女には言われた。べた惚れだったもんだから、そこは鬱陶しいって言われたけど」
「へえ」
「よく言われるんだよねえ、お前は人に勝ってやろうっていう野心が足りない、それだから同年代の書き手に比べて、賞を取るのが圧倒的に遅かったんだって……」
「はは」
「まあ、それで好きな人に気に入ってもらえたんだから、御の字だよ。結局別れたけどね」
「ふふ。……別れたのは、H歴になってから?」
「ちょっと前だね。クーデター直前ぐらいかな」
「そう……」
少し思案するような間があってから、乱数が言った。
「思想的なこと?」
「ああ、それはねえ、たまに訊かれるんだけど……難しいな。なんの関係もないとは思わないよ、そういう時代に生きてたわけだからね」
それは実際、亥角が時折尋ねられることだった――私的な人間関係でも、もう少しフォーマルな間柄の中でも。訊かれた時の答え方も、おおむね彼の中では出来上がっていて、けれどその答えを繰り返すたびに、どことなく実感とずれていくような、そんなもどかしい感覚があるのだった。
「彼女はやり手で、社会的に地位を築いていったひとだけれど、非人道的なたぐいの男性排斥にはもちろん反対だったし、そういうところで対立したことはなかった。才能ある女性の作家たちを、もっときちんと世に出すっていうのが、昔からの彼女の大きな目標でね。僕は彼女のそういうところ尊敬していたし、反対したことなんてないけど――彼女の考えてたことを、本当に十分に理解できていたかどうかは、僕にはわからない、としか言えないな」
「そう」
「まあね、最終的には、僕がよその男と寝たくなっちゃったから別れたんだよ」
「なあんだ!」
乱数が呆れた声を上げる。
「真面目に聞いて損した」
「なんだい、ひとに話させといて」
「自分からべらべら喋ったくせに」
苦笑しながら、乱数の声の調子が軽くなっているのを聞いて、亥角は少しほっとしたような気持ちになる。ふと顔を上げて見渡すと、自分たちが他の参加者に比べて、随分と進みが遅いことに気づいた。
「ああ、いけない、ちょっと喋りすぎたな。ちゃんとやろう」
「ね、ツネちゃん」
「もうお喋りは終わりだよ」
「手動かしてるから」
ごねる子供のような口調で乱数が言う。
「なんだい」
「別れた女の人のことさ、今でも好き?」
「引っ張るなあ」
「真面目に聞いてるんだよ」
そう言われたので、亥角も真面目に答えることにする。
「――好きだよ。こればっかりはしょうがないね、気持ちの問題だから。たぶん、ずっと好きだろうな」
「そう」
乱数が小さく返事する。
「あのね、僕も、幻太郎と帝統のこと好きなんだ、すごく。たぶん、ずっと好きだよ」
乱数は、秘密の宝物をそっと見せるみたいな口調で、その言葉を口にした。その後に、だから幻太郎には手を出すなとか、そういう牽制が続くのかと思ったけれど、乱数は何も言わなかった。だから亥角も、
「そう」
とだけ、穏やかな声で返したのだった。
陽が傾いてきたころ、田植え体験会は無事に終了した。結局、亥角と乱数が一番最後まで植えていた。二人で斜面を下っていくと、手足の泥をすっかり洗い流した地元スタッフ達に拍手で迎えられて、亥角はなんとも面映ゆい思いをしたのだった。
そのまま全員で、棚田のすぐ傍にある民家の前庭へ移動し、早めの夕食がふるまわれた。大きなブルーシートの上に皆で座り、手作りのおにぎりと豚汁を頂く。持ち寄りの酒とつまみも出てきて、ちょっとした酒盛りになった。フェスタの会期前後はなんだかんだと、毎日のように宴会になるのだった。
食べ物があらかたなくなった頃合いで、デザートに旬のさくらんぼが出てくると、一同がわっと湧いた。県外には出回らない、大粒の甘いさくらんぼが籠に大盛りになっている。小皿にいくつか頂こうとして、亥角はふと、乱数の姿が見当たらないことに気づいた。先程は幻太郎と帝統の傍で、おにぎりを頬張っていたはずなのだが。
「――乱数」
幻太郎の声がして、そちらを見やる。彼が眺めている棚田の上の方に目をやると、田の間を縫う坂道を、乱数が一人でぶらぶらと上っていくのが見えた。
「僕が呼んでこよう。さくらんぼ、おいしいから、夢野くん食べてなさい。飴村くんと僕の分も取っといてね」
そう声を掛けると、
「すみません」
幻太郎が言って、少し申し訳なさそうな顔で微笑んだ。
前庭を出て、斜面を上りながら、乱数の姿を見上げる。夕焼け空の下をひとり歩く乱数の髪が、そよ風に吹かれてふわりと舞う。絵になるな、と思った。一面に広がる棚田の中に、少年のような華奢な体躯と、浮世離れしたピンク色の髪の青年が佇んでいる景色は、のどかな田舎の風景というよりは、どこか幻想的な、絵本の中の風景のように見える。眺めていると、昼に乱数と童話の話をしたことが、ふと思い出された――木でできた人形の男の子のピノキオは、どうして、人間になったんだったか。
乱数のいる少し下まで上って行って、声を掛ける。
「飴村くん」
乱数はぼんやりした表情でこちらを振り返ると、軽く眉根を寄せた。
「……飴村くんて言うの、やめてくれない」
「は?」
「背の高いおじさんに、飴村くんて呼ばれるの、苦手なんだよね。乱数でいいよ」
「なんだいそれ……じゃあ、乱数くん」
「なあに」
乱数は亥角のほうを見ながら、やっぱりどこかぼうっとして、心ここにあらずといった表情をしている。
「――さくらんぼがあるよ、デザートの。このへんの特産でね、地元でしか出回らない、大きくておいしいやつ。食べにおいで」
その話を出せば、乱数がぱっと明るい顔になって、はしゃいだ声を出すことを、亥角は予想していた。けれど乱数は表情を変えずに、亥角を見下ろしながら言った。
「……ね、ツネちゃん」
「なんだい」
「僕に心があると思う?」
「――は?」
「僕と話をしてさ、僕に心があると思った?」
「――なんだいそれ、チューリング・テスト?」
言いながら、亥角は坂を登って、乱数の傍まで歩いていく。乱数は瞬きしながら、亥角の顔を見上げる。
「……心があると思わなければ、身の上話なんて、しないもんだと思うよ」
亥角は答える。乱数は時折、無垢な人形の男の子のような顔をする、と彼は思う。世慣れているのかいないのか、わからないようなところがある――それは、彼の感性の繊細さの現れなのかもしれないけれど。
「まえ、幻太郎にも、同じこと訊いたんだ」
「彼はなんて?」
「あるとも、ないとも言われなかった。ただ」
「ただ?」
「……愛しています、って」
「そう。……それは彼が、きみが何者であっても、きみを愛するということなんだろうね。愛されているんだな」
眩しい夕陽が、いまにも山並みの向こうへ沈もうとしていて、空が赤と青の美しいグラデーションを描いている。亥角は顔を上げて、それを眺めた。
「――ああ、ここからだと、陽が沈むのがよく見えるね。これを見てたのか」
半ば呟くように、亥角は言う。
「きれいだなあ」
そのまま、ゆっくりとほの暗くなっていく空を眺めていて、
「――さくらんぼ」
乱数の声でふと我に返る。いつのまにか、彼は坂を少し下りたところにいた。
「さくらんぼ、食べに行こう」
「うん」
亥角は答えて、坂道を下っていく乱数のあとに続いた。
皆が我先にと旺盛に食べてしまったようで、亥角と乱数が戻ったころには、さくらんぼはもう、幻太郎が小皿に取り分けておいてくれた分しか残っていなかった。一粒頬張って、甘い! と目を輝かせる乱数の様子は、昼に田植え体験会が始まったときのような、朗らかなものに戻っていた。
帰り際に、亥角は乱数から呼び止められ、連絡先を教えてほしいと言われる。
「いいけど、嫌がらせみたいなやつ送ってこないでくれよ」
「しないよ、そんなこと……仕事のことで、ちょっと考えてることあるんだ。また連絡する」
それから帰宅して、風呂を浴びて居間に戻ると、携帯に早速乱数からのメッセージの通知が表示されていた。文面を確かめて――亥角は目を丸くする。
「はあ⁉」
その二日後、フェスタ関係者は午前から町の文化会館に集まっていた。設備は少し古いが立派なホールで、クラシックコンサートに演劇に伝統芸能、果ては中学高校の音楽コンクール等々、もろもろの文化行事がここで行われている。
フェスタの最終日に、この会館でファッションショーの開催が予定されている。この日はショーのリハーサルが、朝から一日がかりで行われるのだ。東京からモデルが数名訪れることになっていたが、出演者の大半は地元有志だ。子供から年配者まで、広い年代の人びとが、乱数のブランドの服をまとって歩く。彼の仕事の中でも、ユニークな機会になるはずだった。しかし――
「ほら、背筋しゃんとして! お腹突き出さないの! カッコ悪いよ!」
今朝方、可動式のステージを組み替えてこしらえられたランウェイに向かって、乱数が声を張り上げている。その上には――瀟洒な織物地のジャケットをまとって、途方に暮れる亥角の姿があった。
「こんなとこに、いきなり素人上げようってほうが間違ってるんだよ……」
亥角はがっくりと肩を落としてそう零す。モデルに欠員が出たとかで、一昨日の夜、急に乱数から出演を打診されたのだ。地元の方々もたくさん出演されますから、と実行委員長からも直々に頼まれて、断り切れず受けてしまったものの、他の出演者は皆、地元の劇団に所属しているだの、タウン誌のモデルをやっているだの、とにかく場慣れしている人々ばかりなのだ。亥角はといえば、講演やトークショーの類で人前に出た経験はあるものの、モデルなど生まれてこのかたしたことがない。
「あのさあ、やっぱり僕……」
「大丈夫、服は似合ってるし、いけるいける! ね、御子柴さん?」
「ええそうですよ、亥角先生、上背があるからとってもよくお似合いで――さまになってらっしゃるから――」
実行委員長はだんだんと言葉を濁して、曖昧な笑いを浮かべた。他のスタッフたちのどことなくそわそわとした様子を見ても、自分がだいぶんへっぴり腰なのであろう、とは察しがつく。あろうことか、乱数の後ろでは幻太郎が、こちらに背を向けて肩を震わせていた――笑いをこらえているのだ。
「ああ……」
頭を抱えて深々と嘆息していると、
「ツネさん、ツネさん」
とんとんと肩を叩かれて、振り返ると帝統が立っていた。肉付きのよい体格に、オープンカラーのシャツがよく映えている――彼も今回のショーのモデルの一人なのだ。幻太郎の話では、昔からたまに乱数に引っ張り出されてモデルを務めていて、今ではもう慣れたものらしい。
なんだかまた変なあだ名がついてしまったな――と亥角が思っていると、帝統がだしぬけに亥角の肩を掴んで、ぐるっ、と客席の方を向かせた。
「わっ!」
そのまま、ぐいっと肩を後ろに引かれて、背筋を伸ばされた。背中や腰をとん、とん、と叩かれ、その手に促されて自然と体に力が入ったり、抜けたりしていく。
「こうして、ここはこう、そう、フンってして、ストン、ちょっと伸びる感じ――でケツ締めて――」
帝統は巧みに亥角の姿勢を整えていく。言葉足らずだが、直感的には実にわかりやすかった。
「で、まっすぐ!」
背中を叩かれて、そのまま正面へ歩き出すと、おおーっ、と感嘆の声がにわかに上がった。どうやら、今度は様になっているらしかった。乱数も両手で大きな丸をつくっている。ぱちぱち、と拍手まで湧いて、亥角は歩きながら赤面した。
突端まで来て後ろを振り返ると、帝統がこちらに向けて親指を立て、にっと歯を見せて笑っている。
(――)
屈託のないその様子に、亥角はなんだか拍子抜けしてしまった。初対面の時には怖い顔で凄まれたし、幻太郎との旅館でのことは伝わっているに違いないので、よい感情は持たれていないだろうと思っていたのだが、彼の笑顔にはとりたてて含みがありそうにも感じられない。大らかで、気のいい青年なのだろうな、と思えた。
その昼の休憩時間、亥角は乱数の控室にいた。ショー出演者には大部屋の休憩室が用意されていたのだが、亥角が乱数に少し話を聞きたいと頼むと、それなら昼食がてら控室で話そうということになったのだった。控室はステージの裏にある個室の楽屋だった。古いソファは少しくたびれていたが、清潔に掃除され、大きな鏡もぴかぴかに磨かれている。
二人は向かい合ってテーブルにつき、仕出し弁当の蓋を開く。
「わ、大っきなシャケ」
「ここのお弁当はね、魚の粕漬がおいしいんだよ、海なし県のわりに……いや、海なし県だからなのかな」
乱数がぱきん、と割箸を割りながら、それで、と切り出す。
「なに話せばいいの?」
「うーん……嫌がらせってことは、まさかないだろうから、考えがあってのことなら、こちらとしても逆らうつもりはないんだけど」
言いながら、亥角もぱき、と割箸を割る。
「意図を伺いたい」
「起用の?」
「うん」
乱数はシャケと白飯を一口頬張って美味しそうに目を細め、もぐもぐとやってから、ふむ、と息をついた。
「えっとねえ……田植えのときの夕方、田んぼに立ってるのを眺めて、あ、いいかも、って思ったんだ」
「どういうとこが」
「……ちょっとね、乱暴な言い方にはなるんだけど」
乱数が、つぶらな瞳で亥角の顔をじっと見つめる。
「あなたは、ここに馴染んでるけど、やっぱり異邦人だよね。自分でも、そう思ってるでしょう」
「――」
亥角は思わず箸を止める。
「――そりゃそうだ」
図星だった。もっとも、指摘されて腹の立つような気持ちも、特になかったのだが。
「そういう感じする?」
「田んぼの中で、泥のついたハイブランドの白T着て突っ立ってるようなとこがさ」
「まともなもの着て文句あるのか、君だって服屋だろう」
「文句はないよ」
乱数が苦笑する。
「……シブヤ・ディビジョン――て言い方はもうしないけど、フリング・ポッセはね、渋谷で生まれて育ったっていう人は誰もいないんだ。僕ら三人とも、あのスクランブルを通りがかってるみたいなもので、そういうふうにあの街をレペゼンしてた。ディビジョンバトルをやってた頃は、僕らみたいなチームの方が珍しかったと思う」
乱数は傍らに置いたミニボストンから書類ケースを取り出して、中をごそごそ探ると、三つ折りのパンフレットを引っ張り出した。それは亥角にも見覚えのあるものだった。
「昨日、ここへ行ったの」
乱数がテーブルに置いたのは、町の織物工房のパンフレットだった。江戸時代から続く由緒ある工房で、昔ながらの手織りが行われている。この町の観光名所のひとつで、以前、亥角も見学に訪れたことがあった。売店で買ったストールがほどよく上品で使いやすく、重宝しているのだった。
「ここの布はね、まえ偶然見つけて気に入ったんだけど、作ってるところを見に行ったのは初めてで……。ご主人は若いひとで、いま身に着けてもらえるものを作りたいから、新しいことも貪欲に取り入れたい、って仰ってて。先代のおじいさんが後ろで黙ってたけど、たぶん、もうちょっと思うところあるのかなあって雰囲気で……。でも、なんにも言わなかったし、変な目で見られたわけでもないから、嫌な感じは全然しなかったけどね」
見学に行ったときに見かけた老職人の姿を、亥角は思い出した。平屋の鄙びた工房の片隅で、機織り機に向かい、黙々と手を動かしていた。
「行ったら、緊張するだろうなって思ってたけど、やっぱり緊張した」
「歴史ある工房だから?」
「うん――ていうより――すごく静かで、穏やかで……僕の知らない時間の流れ方みたいなのが、あって」
乱数は言葉を止める。少し思案するような顔で、弁当のおかずの煮つけの具の、可愛らしい手まり麩を箸でつまんで、じっと眺めてから、ぱくり、と口にする。
「故郷とか、郷愁とかって、言うじゃない」
「うん」
「僕は、やっぱり、そういうのがわからない。持っていないから」
きっぱりとした口調で、乱数はそう言った。
「乱数くんも、ずっと東京?」
「――ん、そうだよ」
乱数は口元を緩めて微笑む。
「そうか、僕も東京生まれ東京育ちでね。下町とかでもなくて、マンションの子だったし、生家はもう引き払ったから――あんまりそういう感覚がないんだよね。大学の頃とか、首都圏生まれの同期と、帰省ってどういう感じなのかわかんないから、一度やってみたいね、なんて話をしてたな。地方出身の奴からは、都会もんの贅沢だって言われて、怒られたもんだけど」
「はは」
「……で、最初の話に戻るのかな」
乱数はうん、と頷いて、心なしか背筋を伸ばした。
「僕はここで生きてきたひとじゃないし、ここで流れている時間のこととか、よくわかってるような振りをするのも、違うと思う……でも、よそから持ってきて取ってつけたような感じじゃなくて、ちゃんとここの時間に接続するような、そんなショーにしたかったから、どうしたらいいんだろうってずっと考えてた。ここに住んでるひとに出てもらうのは、すごくいいって思ったんだ。でも、それだけじゃなくて、もっとなにか――」
「それで僕?」
「そう。いつもお願いしてる東京のモデルさんと、今回初めましてのここのひとたちと、その間にあなた――ここにいるようで、向こうにいるようで、どちらでもない、通りすがるひと」
「架橋をするということ? 渋谷と、この町の」
「それもある――けれどそれだけじゃなくて、たぶん、僕自身が異邦人だから、どこにいても――そういう佇まいのひとがいるほうが、僕の時間として、座りがいい気がする。ここの強い磁場みたいなものに引っ張られすぎないで、正直に、僕の仕事をできる気がする」
乱数は一言一言、丁寧に表現を探るようにして話をする。亥角はふむ、と呟いて、胸ポケットから革のカバーに覆われたメモ帳を取り出すと、さらさらと覚書を書きつける。
どこにいても異邦人だ、という、強い表現を乱数が使ったことが、亥角は少し気になっていた。けれど、深くは聞かないことにする。出自のことは、一方的に踏み込むにはセンシティブな問題だし、それに彼は若い時分に政変を経験した世代だから、特有の寄る辺なさのようなものもあるのかもしれない――そんなことを考える。
「大事な話じゃない。もっと早く言ってくれてよかったのに。僕一応、記事書く人なんだからさ」
「美術館のギャラリートークの時に話そうかなって思ってたんだよ――でも、うまくまとまんない」
「そう? いい話だと思うよ」
「あんまりふにゃふにゃした曖昧なこと言うとさ、シラケないかな」
「シラケるような聴衆のことは気にしなくていいよ。僕は基本的に、作家が世間的なわかりやすさに迎合するのは反対。夢野くんだって、そう言うだろう」
「ひとごとだと思ってさ……あ、噂をすればだ」
乱数の携帯が鳴る。画面ロックを解除してメッセージを開いた乱数が、わ!と声を上げた。
「見てよお」
そう言って亥角に画面を向けてくる。見れば、写真が表示されていた――生クリームの添えられたパイが二皿にカップが二つ、その奥で帝統がこちらに笑顔を向けている。どうやら、幻太郎と帝統が二人でお茶をしているようだった。
「僕が真剣な話してる間に、二人でケーキ食べてる」
「ここ、ホールの併設のカフェだね。入り口のところにあったでしょう。アップルパイが名物なんだ」
「いいなあ、テイクアウトできないかな」
「有栖川くんは……これ何のポーズしてるの? 妙な格好だな」
「『にゃー』だよ。いつもやってる」
「はあ……」
まったくもう、とぼやきながら、けれど乱数は決して機嫌が悪そうでもない。その様子を見て、亥角の脳裏にふと、一昨日の田植えのときの会話がよぎった。
〈――あの二人、結婚すればいいと思うんだよね〉
亥角ははたと気付く。
「あ、そうか」
「何?」
「きみ、なんでわざわざ楽屋に呼んでくれたのかと思ったら、そうすれば夢野くんが僕に絡まれないし、有栖川くんと二人きりになれるからか。また健気な――いや、失礼」
乱数に鬼のような形相で睨まれたので、亥角はそれ以上話すのをやめた。
「せっかく真面目な話したのに」
「悪かったって。さ、お弁当食べよう」
話し込んだせいで、休憩時間は残り少なくなっていた。その後二人はあまり喋らず、掻き込むようにして弁当を平らげた。
夕方、車に乗り込んでエンジンを掛けると、つけっぱなしにしている地方FM局のラジオからフリング・ポッセの曲が流れてくる。もう覚えそうなほど聞いているけれど、いつの間にか幻太郎だけでなく、あとの二人の顔を自然と思い浮かべるようになっている自分に気づいて、亥角はつい笑ってしまった。
幻太郎と久しぶりに再会して、微笑みかけられた時、あわよくばという思いも芽生えた。けれど、彼がいま大事にしている相手との関係に、あえて波風立ててまでどうこうとも思わない。乱数とも良いコミュニケーションが取れているのだし、フェスタの成功のためにも、それを乱すようなことはしたくなかった。いまさら若者の恋敵を演じようというほど、血気盛んでもない。
多少は相手してもらえたのだから良しとして、明日以降は幻太郎とあくまで友人としての、節度ある距離感を保とう――帰路につきながら、亥角はそう決意する。
本当に偽りなく、そう思っていたのだった――この時は。
リハーサルの翌日には美術館での展示が始まり、アートフェスタの会期に入る。亥角は展示を見に行ったり、自宅で他の書き物の仕事をしたりと、基本的にはひとりで、穏やかに過ごしていた。だが、その次の日のことである。外出の予定もなかったので、家で一日原稿を進めるつもりだったが、昼過ぎにチャイムが鳴った。荷物が届く心当たりも特になかったので、何だろう、と思いながらインターホンのモニターを覗くと――
「――え?」
戸口に立っていたのは、幻太郎だった。連れがいる様子はない。旅館で着ていたのとは違う、私服と思しき濃紫の浴衣をまとっていて、着慣れた様子がどこか艶めかしい。
幻太郎はモニターに向かって、にっこりと、大輪の花のようにあでやかな微笑みを浮かべると、言ったのだった。
「本棚を、見に伺いました」
「――」
背筋を、つ、と冷汗が伝うような心地がした。
「わあすごい、本当に図書館みたいですねえ!」
幻太郎ははしゃいだ声を上げながら、移動式書架の重たいハンドルに体重をかけてぐるりと回し、特に意味もなく書架を右へ左へと動かしてみせた。
「はは、そう、そりゃあよかった……」
彼の様子を眺めながら、亥角は書庫の戸口に立ち、扉を開け放して、体を半分ばかり廊下に出している。
――本棚を見せろと言ってきた相手に、本棚を見せているだけなんだ。何も後ろ暗いところはないぞ――
先程から、同じことを頭の中で何度も繰り返していた。
(続く)