2025-06-23
夜遅く、ようやく帰ってきた砦の食堂兼酒場には明かりがついていた。そこ以外は闇に包まれていて、砦全体が眠っているような深夜だ。いつ帰るとも言っていなかったから、酒場の主人を待たせてしまっていたとしたら申し訳ないな。少し腹は空いているけれど、なにかを食べる時間でも、用意があるとも思えなかった。
薄暗い戸口から酒場の中を覗く。化粧も落としたレオナと寝間着姿のビクトールの姿がある。あとはもう寝るだけの風情に少しだけ安心した。
床がきしんだのに気づいたのか、ビクトールがこちらを見る。ちょうど立ち上がったレオナも振り向いて微笑んだ。
「おかえり」
当然のあいさつだが、いまだに一瞬面食らってしまう。言うのがビクトールだからなおさらだ。
「ただいま」
「遅かったね。夕飯は食べたかい?」
ここで腹が空いたと言えば、レオナはきっと何か用意してくれるだろう。それはあんまりにも甘えすぎに思えて、フリックは首を横に振った。
「良いよ、食べてきたから」
馬上で少しは腹に入れてきたから、完全に嘘というわけでもない。そうかい、と首を傾げたレオナに大丈夫だと頷けば、女主人はそれ以上押しては来なかった。
「じゃああたしはそろそろ休ませてもらおうかね」
あんたらも早く寝なよ。ビクトール、あんたはもうそろそろ眠れるんじゃないかい。
主人が居なくても、ここにいることは許されている。ビクトールの前に置かれた瓶はまだ重たげで、目つきにも酔いの欠片も見えない。こんな夜遅くに酒場にいるにも関わらずだ。「こいつ、くだでも巻いてたのか」
悪い酒を飲むやつだ。昔から抱いていたその印象はいまだに抜けず、酒の味を楽しむでもなく酔って全部忘れたいと願いながらもただ過去の記憶ばかりがさえわたる姿ばかりが思い浮かぶ。
酔客の相手など慣れているに違いないが、それでも飲むなら綺麗な方がいいに決まっている。
フリックの懸念に、ビクトールが唇を尖らせた。レオナが笑う。
「さして飲んでないよ。さっき眠れないって起きてきたのさ」
それはちょっと珍しい気がする。眠れないことがあるのは知っているが、それを慰めてもらいたがる奴ではない。夜の中を睨みつけて、まんじりともせずに朝を待つ。それがこいつの夜の過ごし方では。
「でもあんたが帰ってきたならもう大丈夫だね」
「ん?」
よく分からないことを言われたが、その説明を求めるよりも前にレオナは手を振って自室へと引き上げてしまった。酒場には、小さな灯りとフリックと、ビクトールだけが残されている。
フリックは頭をかいて、レオナが座っていた椅子に腰をかける。その間にビクトールはと言えば、カウンターの中からグラスをもう一つ取り出して、自分のグラスともう一つに酒を注ぐところだった。
「本当に腹減ってないのか」
「減ってる」
「だろうとおもった」
キッチンを少しあさるぐらいは許されている。夕飯の残りのパンとスープを温め直す背中を眺めながら、フリックは自分の体から力が抜けるのを感じた。
眠れないビクトールが誰かと待っている。さほどの酒も必要とせず、眠れないと甘える人もいる。腹を空かせて帰ってきたやつに、夕食を温めることも出来る。
ここはそう言うところらしい。少なくとも、今のビクトールにとって。
大きくあくびをすると、背をむけたままビクトールが笑った。
「風呂、はいるか?」
「明日にする。食ったら寝る」
「じゃあ俺もそこまでは起きてよ」
瓶をわざわざ空ける事もない。夜をやり過ごす為だけに酒を飲むことはない。差し出されたスープは二人分あって、ワインの瓶はもう栓がされている。
「なんか面白い事でもあったか」
昔とはずいぶん変わったな。フリックはどこか訝し気なビクトールに頭を振ることで応えて、スープに口をつけた。