鏡の華はマゼンタに咲く 風が吹く。
捨てられ損ねたティッシュが一枚、舞い上がる。ふわふわと不規則に動くそれを眺めながら、神は独り、夜の町に佇む。
風が吹く。
枝葉が微かに揺れる。風の音も、木々が揺れる度に立てる音すら耳障りでも、神は耳を塞ぐこともせず、身動ぎ一つしなかった。
風が吹く。
でたらめな強さのそれは、人間には耐えきれずよろけるレベルだ。
そんな風の中、神は微動だにせず、今夜もビルの屋上から町を凝視していた。
「こんばんはぁ」
強風で荒れる町には場違いな、あどけない少女の声。声のした方を顧みることもせず、神は呟いた。
「また、貴女ですか」
「もー、三回目になるんだよ? 敬語なんてやめて、フランクにいこうよフランクに!」️
可愛らしい満面の笑みを浮かべながら、少女は神の顔を覗き込んだ。その動きに合わせて、パステルなピンクに水色が交じった三つ編みが、幼いかんばせの両サイドで揺れる。
「......辛そうだね、こんなにいい夜なのに」
少女のかんばせに悲しげな影が差す。それを意に介さず、神は努めて冷淡に言い放った。
「僕は、貴女の手を借りるなんてしない。──ジャリキシンになるなんて、御免です」
「うんうん、分かる。......だって」
また少女が笑顔を見せる。──子供にはあまりに似つかわしくなく、それでいてこの少女にはすんなりと馴染む、邪悪な笑顔を。
「そんなことしたら、大事な、だーいじなあなたの親方が悲しむもんね!」
ようやく、少女と神の目と目が合う。
射貫くように鋭く輝く視線に、少女は怯えるような仕草をして後ずさった。
「もしかして私、地雷踏んじゃった? こわーい!......でもね」
くるくると変わってきた少女の表情が、すっと、一瞬で無へと切り替わる。
「このままじゃ、あなたは永遠に苦しいまま。思いを伝えることもできず、大好きな親方は他の子に取られっぱなし。あなたの気持ちはずっと宙ぶらりんで、永遠に報われないの。──そんなの、嫌でしょ?」
「......ッ」
「今まであなたはずっと、ずぅっと自分の気持ちを我慢し続けた。本当にすごいことだと思うよ。だから」
「......やめろ」
神の声を意に介さず、少女は、神の耳元で甘くあまく囁いた。
「少しくらい、羽目を外しちゃったって、いいんだよ」
「やめろッ!!」
間髪入れずに、神は少女を突き飛ばし、コンクリートの上に蹲る。
脳内でけたたましく警鐘が鳴り響く。
(逃げないと、そうしないと、ぼくは、おかしくなってしまう──!)
「......やめてくれ。頼むよ。僕は、ミライちゃんを」
「好きなんだよね? ずっと一緒にいたいんだよね!? ずっと、ずぅっと二人っきりで! 大丈夫、その気持ちは何も間違ってない! でも、それを叶えるには邪魔が多すぎる。あなたの親方が大好きなのは、あなただけじゃないもんね」
頭上から矢継ぎ早に降り注ぐ声に、神は身を捩り頭を振る。何故かへたりと座り込んだまま、逃げ出すことは出来なかった。
「......僕は、ぼくは」
「自分の気持ちをコントロールして大切な人が傷つかないようにする──それを徹底してきたあなたは、本当に偉いよ」
そっと、神の体に何かが触れる。
「えらい、えらい。よく頑張りました」
帽子越しに頭を優しく撫で、己を抱きしめる手に腕に、神は憔悴しきった顔で困惑の眼差しを向ける。
「な、何を──」
「えらいねぇ。大丈夫、だいじょうぶ。誰も、頑張ってきたあなたを責めないよ」
ゆっくりと、背中を撫で擦られる。次第に神は不思議な感覚に陥っていった。
胸を占めるこの暖かさは、まるで──。
(あの子の手から伝わる、あたたかさのよう)
「落ち着いた?」
「......」
少しの間逡巡し、神はこくり、と頷いた。
「うんうん! ようやく素直になってくれてメルシカ感激っ」
おどけた調子の言葉と共に、少女はぎゅう、と神を抱きしめる腕により力を込める。その拍子にふわりと強く香る、菓子の甘ったるい匂いと、微かに混じるインクの独特な匂い。
くらくらと眩暈がして、神は倒れ込む形で、少女にそっと身を預けた。
「やっぱり、素直な子はかわいいね! もちろん、暴れちゃう子もいいんだけど──」
くすくす、と心底愉しそうに笑みを零しながら、少女は白く細い指先で、神の顎下をくすぐる。
「こうやって、ちゃんとおとなしくなってくれる子、私は好きだなー!」
「......」
神は何も言わない。ただ、伝わる温もりと心地よさを、目を閉じて享受している。
「あっ、寝ちゃダメ!起ーきーて!」
「......あ」
体を揺すられ、はっと目を開く。しかし、神の意識は未だふわふわと覚束ない。
「まあ、仕方ないかー。我慢するのってすっごく疲れるもんねえ。わかるわかる」
少女はふんふんと勢いよく頷く。
「でもさ、親方とずっと二人きりでいたいってすっごくささやかな願いじゃん? あなたは今までずっといい子にしてきたんだから、ちょっとのワガママくらい受け入れてくれるって!」
「......それでも、あの子に迷惑をかけることには変わりな──」
「そもそもぉ」
神の言葉を遮って、少女は嗤った。
「あなたの親方も酷いよね」
「──」
霞み始めていた、朱と金の入り交じった鮮やかな色彩の目が見開かれる。
「だって、あなたの姿を見るまで、昔大事にしてた万華鏡(あなた)のこと、覚えてなかったんでしょ? ひっどーい!」
「......ぁ」
神は、少女の言葉に激昂しただろう。──常ならば。
今の神に判断力というものは無いに等しかった。故に、少女の言葉は神の中にすんなりと入り込み、神の心を犯し、蝕み始める。
「しかも、せっかくちっちゃい頃からの友達と再会できたのに、あなたのことはほっといたまま別の奴とイチャイチャしてるんだもんね? つらいよねえ。ひっどいよねえ!」
「そ、れは」
「あなたは親方に迷惑を掛けたくなくて必死なのに、相手は好き勝手にしちゃってる。......さぁて、悪いのはどっちでしょう?」
「ぅあ、ァ、アア──」
少女の言葉を、神には否定できなかった。
それは──愛しい親方に対するたった一つの憤りは、神が常に、無意識下で抱き続けてきたものだったからだ。
少女の言葉を切っ掛けとして、自覚させられた感情に引き摺られるかのように、神は、深く昏く、澱んだ場所に堕ちてゆく。
(僕は、君のことが大好き)
深く。
(僕は必死で、君のことを傷つけたくなくて、君に喜んでほしくて、それだけを願っている)
深く。
(でも、きみは?)
ふかく。
(きみがぼくに、あいをささやいてくれたことが、いちどでもあった?)
ふかく。
(きみは、ぼくのことをみてくれない。きみのきれいなめにうつるのは、いつもあのひいろとあおいろ)
ふかく。
(いつまでたっても、ぼくは、きみのいちばんにはなれない)
ふかく───。
絶望の極点へと、堕ちてゆく。
「......」
すっかり力の抜けきった神の姿を見、確信を得たのち、少女は明るく言った。
「うふふっ、分かりきったこと聞いちゃってごめんね!」
反応はない。だが、少女は満足していた。
次が、最後の一仕事。大事な仕上げだ。
「さっきの──一番最初の話だけど、聞かなかったことにしてあげる! ......だから 」
神の柔らかい頬を両手で包み込み、少女は嗤った。
「どうしたいのか、言ってみて?」
何の感情も失った、それでも虚しく輝く瞳で、神は少女を見つめ返す。
「……」
「ね?」
にっこりと心からの笑顔を見せ、少女は続きを促した。
はやく、はやく。ここまで、おちてきて!──そう、無邪気に言わんばかりに。
「......僕は」
はっきりした口調で、神は言葉を紡ぎ始める。
「僕は、あの子と一緒にいたい。いつまでも、ふたりっきりで。でもそれを邪魔してくるものが山ほどあって困ってるんだ」
神はわらった。誰かを、己を、呪うように。
「僕には、力が必要だ。あの子に近づくこの世全ての邪魔な存在を、消し飛ばせるような」
一歩、一歩と闇を湛える孔の淵に歩み寄り、そして───。
「そのために──僕は、君の手を取るよ」
神は、暗いくらい、取り返しのつかないマゼンタの絶望の中へと、自らその身を投じたのだ。
堕ちた。
確信が目の前の形となって現れたことに、少女は躍り上がるような愉悦を抱かずにはいられなかった。
「ふふっ、うふふっ! やぁっと自分に正直になってくれた!」
きゃあきゃあと、外見に違わない幼い歓声を上げて、少女は嗤う。
「それじゃあ早速、ジャークパワーあげるね! さ、手を出して!」
「......う、うん」
マゼンタ色に染まった少女の手が、ぎこちなさの残る動作で差し出された柔らかい手をとる。途端、神の体が硬直する。
「、ううっ」
「しんどい? ごめんねぇ、でももうちょっとの辛抱だから」
安心させるように、少女は神の、万華鏡を形どった異形の犬耳へと甘く囁き、空いた片手で頭を優しく撫でる。
絶え間なく流れ込む、身に馴染まない不浄な力にぴく、と震えた神の丸い指に、少女は己の細いそれをゆるりと絡ませる。
「ぁ、」
「うわー、ふわふわでぷにぷにでかっわいい~!」
すり、すり、するん。
幾度となく、少女の指は神のそれをなぞり、時にきゅう、と握り、掌を合わせたかと思うと、毛に覆われた丸い指の間を、熱を帯び震える手の中心を、弄ぶように愉しげに這う。
「、あっ」
切り揃えられた爪先が、己の指の付け根をかり、と掻いた瞬間、神はひくりと小さな体を震わせた。
「えっ、今の声かわいい!もっと聞かせて!」
「......も、もう、いい、でしょ?」
息も絶え絶えに、神は少女を諫める。しかし、すっと表情を消した少女はこてんと小首を傾げ、残酷に言い放った。
「んー、でもまだ馴染んでないよね?」
「……っ!」
図星だ。正直、いくら気持ちが向いたからといって、穢れた力は神にとっては根本から嫌悪するものであり、相性など良いはずがないのだ。
「あっ! 今『早く終わらせてほしい』って思ったでしょ?」
「……もう、十分に力は伝わったはず。あとは、だから」
「しょうがないなあ。出血大サービスね! あなたがもぉーっと、この力になじめるように──」
神の言葉を容赦なく遮り、少女は天使のような、神からすれば悪魔にすら見える笑顔を見せた。
「中から直接、いれてあげる」
「──ん ゛ぅっ!?」
突然口を押し開き侵入したマゼンタの細指に、神は未だなお輝きを帯びた目を見開く。
「んう゛っ、んぶ、げほっ」
指先から喉奥に流し込まれる
「吐いちゃだーめ! ちゃんと受け入れてくれないとずっと苦しいままだよ?」
「けほっ、んぐ、んぅっ」
「お口の中、やわらかくてあったかいねー。歯も思ってたより鋭くてかっこいー!」
でもぉ。
少女はくすくす、嗤いを零した。
「もうこんなにとろとろ、どろどろになっちゃってさ。力なんて少しも入んなくて、そのあぶない歯で、私の指を噛みちぎることすらできないんだよね? うふふっ、かっわいー」
「えぅ、んぅ……んっ」
普段は意図的に見せないようにしている鋭い歯列を、たおやかで強引な侵入者を押し返そうとがむしゃらに動く舌を、悪寒と熱に浮かされ震える上顎を、少女の指は手遊びのそれのような動きで緩慢に、執拗になぞり続ける。
「あぅ、んっ、んーっ......、……っ」
もはや声すらなくした神の小さな体が、ピクン、ピクンと絶えず痙攣する。
それにつれて、じわり、と相容れないはずの力が体に染み入り始める。ぞくり、悪寒の中に心地よさが入り乱れ、神の口からはひゅ、ひゅ、と掠れた息が漏れた。
「フーッ、フーッ……はーっ……はぁ……」
「ん、落ち着いた?あらら~、お口の周りよごれちゃったねー。うん、今私すっごくゴキゲンだし、きちんと拭いてあげましょう!」
少女は身を捩って、ポケットから薄いハンカチを取り出す。
「よいしょ、っと。よーしきれいになった!ふふっ、前よりずーっと素敵だよ!」
少女はいたずらが成功した子供のような笑顔で、神を──神の、新たに作られた器官を指先でつぅ、と撫でる。
マゼンタに彩られた、鋭利な二本角。
「どう?今の気分は」
「……」
「あらら、まあ聞くまでもないかな」
幽鬼を思わせる気迫を纏い、緩慢な動きでゆらりと立ち上がった神に、少女はコロコロと笑いかける。
「これからあなたが何をして、どうなるのか……ふふ、考えるだけでもワクワクしてきちゃう!楽しみにしてるね!」
その言葉が耳に入ってるのかいないのか、神は一言も言葉を発することなく、少女に背を向ける。
悪しき力に魅入られた神は、風が強く吹くなか、ただ一点を濁った緑色の眼差しで見据え、駆け出していった。
風が強く吹いています。
家の前にある街路樹の葉っぱたちがぶんぶんと振り回されて、今にもどこかに飛んでいってしまいそうです。おまけに、風が窓を乱暴に叩く音が酷くて、眠ることもできません。
ついそわそわしてしまって、メガネを片手に布団からのそのそと這い出た私は、窓の外から明るい光が差していることに気がつきました。
「......あ」
その正体は、大きくてまん丸な満月でした。
強い風で雲が流されてきて、時折陰ってしまうけれど、それでも月は明るく輝き続けています。
私とは対照的に、今もぐっすり夢の中なメギネやスノーキッドを起こすのもなんとなく忍びなくて、私は眠気がやって来るまでの間、一人で月を楽しむことにしました。
(そういえば......)
最近、カレイディはこの時間、よく外に出掛けています。そして、朝になるといつの間にか戻ってきていて、私の傍で小さく寝息を立てているのです。
(こんな綺麗な月だから、もっとよく見える場所に行ってるのかな)
今この場所にカレイディがいてくれたら、一緒に眺められたのに──そう、残念に思った瞬間でした。
「......カレイディ?」
ふっと目の前が暗くなります。窓の前、屋根の上に見知った影が降り立ったのです。
「おかえりなさい。今、ちょうど一人で寂しかったんです。一緒に月、見ませんか?」
「......ミライちゃん」
男の子とも女の子ともつかない、いつも通りの穏やかな声で、カレイディは私の名前を口にします。
にわかに、私は違和感を抱きました。
月の逆光でわかりづらいのですが、いつものスモードとどこか雰囲気が違うのです。先ほど「いつも通り」と感じた声だって、今日はどこか、どこか──。
「ミライちゃん」
もう一度、カレイディは私の名前を呼びました。
(──え?)
違和感が、確固たる形になって私の頭を揺さぶりました。
「......カレイディ。もしかして、怒ってる?」
逆光で見えづらいけれど、カレイディは微笑んでいるようでした。でも、声は。声は──確かな怒りを孕んでいたのです。
「流石だね、ミライちゃん」
「ねえ、もしよかったら、何に怒ってるのか教え──」
「ミライちゃん」
三度、カレイディは私の名前を呼びました。その瞬間、私の体が宙に浮きます。
「!? か、カレイディ?」
ふわりと浮いた体に、柔らかい布が触れました。恐らく、カミズモードになったカレイディに抱きかかえられたのでしょう。
「カレイディ、本当にどうし──え?」
目の前の光景に、私は目を疑いました。
見上げるそこにはカレイディの顔があって、その中央で輝く二つの瞳は──鮮やかな、緑色なのです。
近づいたことでよく分かりましたが、彼の黄色いケープは今、暗い色に染まっていて。
そして極めつけは、額から伸びる──禍々しい、マゼンタ色の二本角。
「そ、そんな、うそ、」
「ねえミライちゃん。ミライちゃんは、僕のことが好き?」
「......へ?」
突然の質問に、私は戸惑いました。
「そ、それはもちろん......大好きですよ」
「よかったぁ。僕も、ミライちゃんのことがだいすきだよ」
このやり取りの間も、カレイディはずっと、笑顔のまま怒っています。
どうして、が頭の中を埋め尽くして、何も考えられなくなってしまいそうで。私はもう一度、カレイディの名前を呼びます。
「カレイディ、」
「ふふっ。僕たち、両想いだね。だから」
一際強い風が吹いて、カレイディの体が傾きます。
そのまま私を抱き寄せて、カレイディは囁きました。
「これからはずっと、ふたりっきりでいようね」
視界が暗くなって、それからふっと明るくなります。その一瞬の間に、私は、きらきらと輝く懐かしい世界へとおちていきました。