かわいいひと羊飼いの少年に羊の盗人だと誤解され散々追いかけ回された後。兄貴の弁明でどうにか勘違いだった事を納得して貰って、お詫びとして生まれたての子ヤギを抱かせて貰う事になった。
「ふわふわで可愛いな」
「でもこの子少食で母ヤギのお乳をあまり飲まないんだ。そうだ!母ヤギのミルクも貰って行ってくれよ!」
「いいのか!?あ、でも兄貴の分は……」
「――私の事は気にするな。君が持って行くといい。君の母もきっと喜ぶよ」
兄貴は牧場の柵へ器用に腰掛けたままにこにこと俺を眺めていた。兄貴は子ヤギを抱かないのか?と聞いたら馬が匂いを嫌うと良くないから、と遠回しに遠慮されちまった。
風が吹き草むらをさらさらと凪いでいく。都会の喧騒のデリーと違って此処は故郷のゴーントに近い匂いがした。
マッリもここへ連れてやれていれば、そんな感情が俺の心に暗い影を落とす。
「アクタル、重くないか?」
ヤギのミルクがたっぷり入った缶容器を持った俺。気遣わしげに俺へ背中を向けていた兄貴が立ち止まって振り向く。俺はいつものように首を軽く揺らしながら返した。
「兄貴よりは軽いぞ!」
「ははっ、言ってくれるなタンムルドゥ!」
気の置けない兄貴だからこそ出来る兄貴とのやり取りに少しだけ重かった気持ちが和らいだ。兄貴の柔らかな表情に俺はどきりとしかけて、慌てて話題を変えた。
「それにしても可愛いかったなぁ」
「ああ、可愛いかったな」
「子ヤギが「アクタルが」」
声が重なって俺は驚いて足を止めた。
可愛いって誰が?
……俺が?
「――兄貴、俺をからかってるのか?」
怪訝な眼差しを向けると、兄貴は極力真面目な声音で答えた。
「揶揄ってなんかいない。そんな訳あるか。君は可愛い、本心からの言葉だ」
恥ずかしげもなく逆にこっちが照れ臭くなる台詞を口にするもんだから俺は面食らった。
「あのなぁ、バイヤ。可愛いってのは普通赤子か小さい動物か可憐な女の子に言うもんだぞ」
マッリがもっと幼い頃はそれはもうロキが母親の眼差しであの子へ幾度も言っていた。
マッリ、私の可愛い娘。ずっと私の胸の中に、と。
「うん?そうだな」
涼し気な眼差しのまま返されて俺は頭を抱えそうになる。
さっきからまるで会話が噛み合ってない。
「兄貴の中で俺はそれと同類って事か?」
唖然としたまま問い返せば、兄貴はくつくつと笑いを堪えていた。
だって、そうだろ?
癖の強い髪に蓄えた髭に毛むくじゃらの体でクルタに隠された体は可愛いとは程遠い。
なのに兄貴は俺を可愛いと言う。
「私が君に形容する『可愛い』は外観や見た目の事じゃないよ」
「兄貴は難しい事言うな」
兄貴の言葉の真意を汲み取れなくて俺が頬を膨れさせていると。するりと軽く頬を撫でられた。
「いつか教えてやる」
そのいつかは、随分後になっちまった。
周囲に追っ手が居ない事を確認しながら集めた薪へ火を
灯す。トラックは夜の闇が上手く隠してくれている。
その荷台には大量の武器が積まれている。
これだけの小銃と銃弾だ、絶対に送り届けなければ。
パチパチと音を立てながら炎は少しずつ大きくなっていった。近くの川で捕った魚を焼きながら、燃える焔をじっと見つめる兄貴の様子を伺った。
何を話せばいいのだろう。
少し気まずい。
今となっては俺は兄貴が英国の警察だと知ってからずっと、心のどこかで兄貴と向き合うのを拒んでいた気がする。
兄貴へ心を閉ざし対話にすら応えなかった俺は森の獣でしかなかった。檻へ入れられた虎もあんな気持ちだったのだろうか。
使命達成の為に敢えてその立場に身を置いていたのは分かったけれど、偶然出会えたシータ姫が俺に明かしてくれなかったら兄貴は処刑されていた。考えただけでぞっとする。
だからこそ俺には打ち明けて欲しかった。隠さないで欲しかった。けれど、嘘をついていたのは俺だって同じだ。
また溢れそうになる涙を誤魔化すように焼けた魚を兄貴へと差し出した。
「食えよ」
「いや、それは、ビームが……」
癖なのか、兄貴は遠慮しようとする。
「アンナ、俺の為に色々犠牲にするな。自分の命も含めてだ」
兄貴はバツが悪そうに苦笑を浮かべた。
額にティカを施し、長く緩やかに癖のある髪、そしてサフラン色の衣を纏った姿はラーマ神そのものなのに、人間臭い所にほっとしている俺がいた。兄貴とて血だって出るし痛みも感じる人の子だ。だからこそ、もう絶対に死なせる訳にはいかない。一時でも殺意を向けてしまった俺のせめてもの償いのつもりだった。
「――私は、君に施しを受けてばかりだな。一生かかっても恩を返しきれない」
長い睫毛を伏せて出来た影が炎の揺らめきに照らされる。
「兄貴、礼も詫びも皆の所に着いてからだ。今は空腹を満たせ」
俺の言葉に兄貴はようやく魚を口へ運ぶ。
「それでも、君にはちゃんと謝らないと。その……、可愛いと形容した事も含めて」
俺は魚を喉に詰まらせそうになった。
「だから言っただろ。俺は敬虔なムスリムでも、その辺の修理工でもねぇって」
兄貴がアクタルとして、弟扱いしていた男は、もういない。
だから、あんな表情を向けてくれる事はきっともうないと――そう思ってたんだ。
見上げれば、あの時と同じ顔をした兄貴がそこにいた。
優しくて、温かくて、それで少し懐かしむような微笑みが。
「ビーム、君は可愛いな」
「兄貴、俺は」
俺の声を遮るように兄貴は静かに続けた。
「アクタルだろうが、ビームだろうが、君は変わらないさ。純粋無垢で、素朴で慎ましくて、それでいて素直な所が可愛い」
目を細めながら愛おしげに言葉を紡ぐものだから、頬がじわじわと熱くなってくる。
「兄貴、もう可愛いはいいだろ!」
兄貴は小さく肩を竦めた。
「悪かった。もう言わない」
途端にそれが俺は寂しく感じた。ああそうだ、俺は淋しいんだ。兄貴は故郷に帰る使命がある。俺だってそうだ。
兄貴と離れ離れになったら、こんな風に一緒に飯を喰う事も出来なくなるんだ。
俺は泣きたくなって腕で顔を隠した。
「うぅ~」
「ビーム、機嫌を直してくれ」
兄貴は立ち上がると俺へと歩み寄った。
そっと頭に大きな手が乗せられる。
「違うんだ、おれっ、」
俺は咄嗟に兄貴の手首を掴んだ。
「兄貴に可愛いって言われるの嬉しいしこそばゆいのに、別れたらもう可愛いって言って貰えなくなるの嫌だって考えちまって、俺、俺っ、」
兄貴の手の甲へ涙を押し付ける。濡れた手の甲は炎に照らされ鮮やかなオレンジ色をしていた。
「そういう所が可愛いんだよ、君は」
兄貴は俺をゆっくりと抱き寄せて背中を撫でた。
赤子をあやすように。子羊を怯えさせないように。
俺の傷を癒すように――。
「……アンナぁ」
俺は兄貴の体にしがみついた。
この肉体が炎に焼かれて消えないように祈りながら。
「参ったな。君があまりに可愛過ぎて口付けしたくなってきた」
「してくれよ、兄貴。今だけでもいいから」
頬にぺたりと添えられた指がぴくりと動く。
兄貴は俺を可愛いと言うけれど、兄貴も結構可愛い所あるんだよな。自覚ないだろうけれど。
「いいのか。私が君にしようとしてるキスは、親愛の意味でもないし、戯れなんかじゃないんだ。だから今だけなんて言うな。シータの為にこれきりしようだなんて、私は嫌だ」
焔を宿した瞳が切なげに揺れる。
唇をなぞる親指が僅かに震えている。
「事が済んでも、俺は兄貴に会いに行ってもいいのか?」
俺は両手で兄貴の熱い頬を包んだ。
「……勿論だ。ああ、やっぱり君は可愛いな」
ふっと力が抜けたように笑うと、兄貴はそっと俺の唇へ唇を重ねた――。