月が綺麗ですね「知らない振りをしていたんだ」
ぽつりと零すビームが天を仰ぐ。空には星がなく大きな満月だけがぽっかりと浮かんでいた。
「何をだ?」
彼の隣で同じように空を見上げる。
「いつだったか、兄貴と一緒に夜空を見に行った事があっただろ?あの時アンナが言った言葉の意味」
彼がまだ『アクタル』だった頃。共に寝静まった喧騒の街デリーを抜け出してバイクで月の見える丘へ向かった事があった。
此処なら月を掴めるかも、と笑いながら飛び上がって手で空を切るアクタルの姿に目を細めていた。
その時零すように口から出た言葉。
「月が綺麗だな」
だが、あの時俺が見ていたのは月ではなく君だった。
綺麗だ、と讃えたのは月ではなく、『星』の名を持つ青年だった。月明かりの中でやけに白いクルタが映えていて、煌めく黒曜石の瞳は、まるでタイガーアイのような色に見えた。
美しい景色や風景を見ても心を動かされる事のなかった俺が、はっきりと"惹かれている"と自覚してしまった瞬間だった。
だが、想いは隠す事にした。それこそ墓場まで持って行く気だった。果たすべき使命があるのに、邪な感情に振り回されてはいけない、敬虔なムスリムの青年に劣情を抱くなど烏滸がましい、アクタルに伝えてしまえばこの友情は壊れてしまう、逃げる理由なら幾らでもあった。
彼の正体が『ビーム』だと告げられた時も、こんな気持ちは潔く手放してしまおうと、己の心を殺し鞭を振るった。
それなのに――。気高く決して屈しない強靭な精神を前に俺は『ビーム』に対しても惚れ込んでしまった。
彼を救う決意をしたのは、自分の命に代えても守りたかったからだ。志半ばで散った父の言葉よりもずっとビームは俺の中で大きな存在になっていた。憎まれたままでもいい。恨まれたままでもいい、ただ、生きて欲しかった。
「……あの時と同じ月だ」
反逆罪で投獄され地下牢へ幽閉され静かに死を待ちながら俺は鉄格子越しに夜空へ手を伸ばした。
月なんて掴める筈などないのに、それでも痩せこけた指は虚空を掴もうとしていた。
「君は、無事に逃げ仰せれただろうか」
マッリを連れて逃走している以上英国軍は必ずビームの捜索をしているだろう。それでも彼が故郷に帰れる事を祈らずにはいられなかった。俺の事は忘れたっていい。君の存在が、いずれこの国に武器のない革命を齎してくれる。
民衆と、俺の心を、動かしたのだから。
日に日に意識が途切れがちになる。
もはや飢えすら感じず、ただ視界が闇に沈みそうになる。
その時聞こたのは――あのリズムだった。
「…ビーム!?…ビームなのか!?」
天を仰げば、あの時のように、月明かりに照らされた君の姿があった。
目に大粒の涙を浮かべ咽び泣きながらビームは後悔と謝罪の言葉を幾度も繰り返した。だが俺は、ビームがそこにいて、再会出来た事の嬉しさの方が大きかった。
「兄貴(アンナ)をシータの元に連れて行くと誓った。白人の根城を焼き払ってでも。行くぞ」
伸ばされた両手を握り返す。それからは無我夢中だった。
共に戦い、一緒に狙うべき獅子を倒し、ようやく全てを終えた頃にはすっかり夜が明けていた。
緊張の糸が切れてふらりと倒れそうになった俺をビームはしっかり抱き留めて支えてくれた。
そして君は、読み書きを教えて欲しいと口にした。
あまりにも謙虚でささやかな望みだが、ビームは己の無知を恥じたからこそ懇願したのだろう。
「あの時、ラーマはおれに『月が綺麗だ』って言っただろ?」
ビームの言葉に俺はどきりとする。
「おれ、色んな本を読んで意味を調べたんだ。そしたら……」
ああ、とうとう気付かれてしまった。ビームが言葉の裏に隠した真意など汲み取る筈がないと決め付けて迂闊に口にした言葉の。
「――言うな、ビーム」
俺は観念して俯きながら手をきつく握った。
「拒絶していいんだ。君は優しいから俺の想いを無碍にしたりはしないだろうが、同情で応える気でいるならやめておいた方がいい」
すると。
するりと頬を撫で額に額を擦り付けられた。
「おれは、もう知らない振りなんかしたくない」
「ビーム、」
「おれは、嬉しい。兄貴がおれを愛してるんだって分かって。アンナが、おれの事を案じて、敢えてその感情を秘めておこうとしてくれた事が」
暗闇の中潤んだ瞳が俺を捉える。
「でも、信じて欲しい。おれは、同情や憐憫なんかでこんな事を言う訳じゃない」
背中を力強く引き寄せられ抱き締められた。
月が、眩しい。
目の前が滲んで見えるせいなのだろうか。
「月が、綺麗ですね」