手を取り合うことの幸福を、これからも。 ――瞼を通して光を感じる。
その眩しさに脹相はゆるりと目を開いた。眠りから覚醒へと至る思考の停滞を感じながら、意味もなく視線を動かして己の部屋を見る。
シンプルな――他人から言わせるとシンプルすぎる――部屋。最低限の生活を送れるだけのものしかない、生活感の皆無な室内に目を走らせる。殆ど使用しないデスクと、数点の衣服がかけられたクローゼット。開け放たれた窓からは、むわりと湿度を含んだ暑さと、五月蝿すぎる蝉の声が聞こえてくる。顔に滲んだ汗を洋服の肩口で乱雑に拭いながら脹相は上体を起こした。
ガリガリと頭を掻いて見据えるのは、ベッドの真正面の壁に飾られているカレンダーだ。毎日毎日、飽きもせず持ち主によって過ぎ去った日にバツ印をつけられている月めくりタイプの冊子。開かれているページに大きく描かれた八の数字と、半分ほどバツ印によって埋められた日付を確認して脹相はそっと目を細めた。
「――今年も、やってきたな」
八月の盆。
最愛の弟に会える日が今年もめぐってきた。
僅かに上がった口角に皺が刻まれる。ギシリと軋む音を立てて脹相はゆっくりとベッドから降り立った。
◇
はじめて再会した時のことは、今でも色鮮やかに思い出せる。むしろ悠仁が亡くなってから幽霊としてのあの子に会えるまでの二年間の方が、全く記憶がないという自覚が脹相にはあった。代わり映えのしない日常。大切なものを無くした二年間は、自分の心を守るために記憶の奥底へと葬り去ってしまったのだろう。心の傷が癒えた今でも、あの頃の記憶を思い出せる気がしなかった。
年に一度だけとはいえ、邂逅できる唯一の存在に脹相は救われたのだ。それは脹相だけではない。悠仁と関わった人間、そのそれぞれが年に一度だけ会える彼の存在に救われていた。
はじめて再会した翌年に、悠仁を迎えに行った時のことはよく覚えている。あの時ほど緊張したことは、これまでも、……そしてこれからも無いだろう。
正確な時間を覚えていなかったがために、教室を確認しに行っては他の場所で待機していた他の仲間に「やはりいない、気がする……」と落胆の声を届けていた。それを聞いた他のメンバーは「いいからもう一回行ってこい」と容赦なく蹴り出すものだから何度も教室とのあいだを往復したものだ。
「さて、……行くか」
前日に花屋で受け取られた花束は、脹相の部屋の風呂場に置かれたバケツの中で一晩水に浸けられている。瑞々しい美しさで咲き誇る花々をそっと持ち上げた。ズシリと重いそれを両腕で抱き抱えて部屋を出る。
ジィー……、ジィー……。
ミンミンミンミンミーン……。
耳をつんざく蝉の声に急かされるようにして教室までの道を歩む。もう何度となく繰り返したことだとはいえ、悠仁に会える教室へ向かうこの瞬間は緊張してしまうのが常だった。
カツ、カツ、カツ、カツ――……。
静かな廊下に響くのは脹相の靴音だけだ。人の気配がしない建物の中を、脹相は花束をゆらゆら揺らして歩く。
汗がたらり、と頬を伝っては落ちていく。暑さによるものなのか、緊張によるものなのだか分からないそれが花束に落ちないように細心の注意を払いながら足を動かした。
トクトクもいう規則的な心音は、やがてドッドッドッドッという早鐘に変わる。目的の教室にの前に来ると、それはなおさら顕著だ。
(――今年も、来てくれるだろうか)
去年も約束はしてある。一度も欠かされることがなかったそれを疑うつもりはない。だが不安は心の内側から染み出すように脹相を侵食する。
午後一時半。時計で確認した時刻に深呼吸をひとつ。早鐘が響く心臓を無視するようにして開ける。
――ガラララッ。
教室の扉がレールを響かせる音が鳴り響き、ドアを開けた先にはこちらへ手を伸ばした悠仁がいる。――予定だった。
「悠仁……?」
毎年の流れはいつも一緒だ。
悠仁はここで眠っていたところ、ふと目を覚ます。その後に脹相の足音や話し声で教室の外に出ようとするらしい。その時、タイミングが合うようにして扉を挟んで対面するのだ。
毎年、毎年。それを繰り返してきたはずだった。
それゆえに脹相は困惑していた。一年間待ち続けて今年も邂逅できた弟は、何故か教室の窓から外をみつめていた。
「――……」
この静寂の中で教室のドアが音を立てれば、振り返ることぐらいするだろう。だが、悠仁は動かない。じっと外を眺めているようで、窓の外から入り込んでくる熱風に短い髪の毛をそよがせたまま、ただ外の景色を眺めていた。
何も言えない静寂が場を包む。
五分だか十分だか分からないくらいの沈黙がこの場を満たしきったあと、悠仁はゆっくりと時間をかけるようにして振り返った。
「――脹相。……一年ぶり、だな」
「ッ、」
ミーンミンミンミンミン……。
蝉の声が響く。
命の炎を燃やす音が残響し、こだまする。脹相は扉に手をかけたまま、その場に縫い留められたように動けなくなっていた。
◇
痛いほどの沈黙を破ったのは悠仁の方からだった。彼はいつまで経ってもあどけない相貌をくしゃりと歪めて笑った。
「久しぶり」
「……ゆ、うじ」
「うん」
「何故……。い、や……。いつから……」
「さっき、目ェ覚ましたときに思い出した」
「…………なに、を」
「全部」
ハッキリと告げられた言葉に冷や水を浴びせられたように背筋が凍りつく。悠仁の顔は変わらない。年齢の割に若々しいその顔も、深い飴色の瞳も、陽の光を浴びて美しく煌めく桜色の髪の毛も。いまも何もかも変わらない。
だがその代わり映えのしない姿の中に、達観した影が過ぎる。
――ああ、悠仁は、本当に。
「おもい、だしたのか……」
「おう」
「一年前のことも」
「うん」
「それよりも、前のことも……」
「……うん」
「お前が、死んだ時のことも」
脹相がそこまで言った時、悠仁は琥珀の双眸にひと匙の寂しさを滲ませて目を細めた。優しげで、だが酷く寂しそうな眼差しであった。
「……おう。全部、思い出した」
「そう、か…………」
膝が笑いそうになるのを必死で食い止める。無様な姿を見せるわけにはいかなかった。涙も、泣き言も。己の情けない姿を弟の前では見せないと決めている。
瞼にぐっと力を込めて、込み上げてくるものを食い止めた。――今は、その時ではない。
悠仁はそんな脹相の姿を目に留めて、きゅ、と眉根を寄せると所在なさげに再び外を眺めた。カーテンが真夏の風を受けてひらひらと踊り出す。窓枠に手をかけることも、寄りかかることもしないまま悠仁は景色を眺めていた。
「ずいぶん、変わったな」
「……? なに、がだ」
「色々。景色とかもそうだし」
「ああ、そうだな……。ここはもう高専ではないからな」
「……そう、なん」
「ああ。呪術高専は二十年程前に解体された。東京と京都にあった二校が合併して、こことは別の土地にある」
「思ってたよりずっと変わってんのな」
そこまで聞いて悠仁は今日会ってから初めてふはっと小さく笑った。それを見た脹相はホゥと安堵の溜息をつく。
「俺が死んでからどんくらい経ったん? 毎年一回しか目が覚めないけど、流石に何年経ったのか分かんねぇや」
「百五十年」
「ひゃ……っ!? う、嘘だろ……!?」
「正確にはそれより少ないがな。俺が受肉してから今年がちょうど百五十年目なんだ。俺が眠っていた期間と、同じ年月が経った」
「ほ、本当かよ」
「俺は弟に嘘はつかない」
「ま、じか……」
そりゃあ景色も変わるよなぁ、と悠仁は改めて外の景色を眺める。その姿が酷く新鮮だった。ここで出会う悠仁はいままで何の変化にも気付かなかった。死ぬ前の、無垢な悠仁だけがここには存在する。時間が止まったままの虎杖悠仁は、もういない。
「――じゃあ、行くか」
「へ、」
「墓参りだ。……去年も約束しただろう」
「……自分の墓参り、行くんかよ」
「毎年欠かさずに行っていたんだ。今年も約束通り行くぞ」
「うわぁ、マジで言ってんの……?」
ブツブツと文句を言いながら教室を出る支度をする悠仁を尻目に脹相は窓枠に手を掛けた。戸締りをするために窓を一つ一つゆっくりと閉めていく。
「俺、反対から手伝うよ」
「いや、いい」
「別に気にしなくても、」
「……お前はきっと、触れない」
「……へ」
「思い出しても気付いていなかったのか。お前が触れることが出来るのは、おそらくあの机だけだ。悠仁が眠っていて、目を覚ます机。あそこしかお前は触れることができない」
「え、うそ」
悠仁はそこまで聞いて恐る恐る目の前の机に手をつこうとするが、――そのままその手はすり抜けてしまう。その幽霊さながらの現象に目を丸くして自身の手を眺めた。
「ぅ、わっ!! ほ、本当かよ……」
「だから言っただろう。現にここで悠仁と再会してからお前は何も触れていない。この百五十年弱、何にも、だ」
「へー……」
「無意識のうちに避けていたんだろう。思い出した悠仁が分かっていなかったとは思わなかったがな」
これについて脹相は最初の年から理解していた。自然に回避していくから見落としていたが、悠仁は目を覚ましてから再び眠りにつくまで何にも触れることはない。毎年墓参りに行くという時に戸締りをしていく際、こうして手伝いたがることもあるが大抵は悠仁が手を触れないまま終わる。線香を手向けることも、友からの花に触れることもない。
脹相はそのことに気付いてから悠仁に触れたいという思いは封印した。気持ちのままに手を伸ばすことは簡単だ。だが、触れられなかった時に傷付くのはお互いであろう。願望は今も胸の奥底で眠っている。
戸締りが終わる頃には悠仁は自分の身体について理解したようだった。混乱はもう治ったらしく、いろんな場所を透過していくことに目を輝かせているのが悠仁らしい。「ぅおっ、見ろよ、脹相!! 壁もすり抜ける!!」と楽しげにする姿に思わず笑いが溢れた。
「あれ、終わった?」
「悠仁が実験している間に、な」
「ごめんごめん。んじゃあ、行くか。なんか持つもンある……って、持てないのか」
「ああ、平気だ。花は俺が持つし、他は全て墓に置いてある。毎年そうだっただろう」
「ん? あー……、言われてみれば?」
二人で並んで廊下を歩きながら悠仁はしばらく記憶の捜索をしていたが、そういえば、と何かに気がついたように脹相の手元を覗き込んだ。
「今年も向日葵持ってきてくれたんだ」
「ああ」
「『私はあなただけを見つめる』……だっけ?」
にひひ、と笑った悠仁に「覚えているんだな」と返せば「そりゃあ、毎年お前が持ってくる花に向日葵は欠かさないじゃん」と返ってくる。毎年毎年、俺が花言葉思い出してるの、知ってるくせに。と不貞腐れたように唇を突き出す弟の変わらない姿が眩しくて仕方がない。
「今年も綺麗だな」
「ああ、毎年厳選しているからな」
「んでもさ、……えっと」
「なんだ」
「それ、なんか今年の花束デカくね?」
それ、と指差された先は言わずもがな脹相の持ってきた花束だ。毎年恒例となった向日葵の花束は悠仁の疑問の通り、例年よりも大きい。
「……気のせいじゃないか」
「いやいや!? 流石に一回りくらい違えば俺でもわかるけど!? 何本あんだよ……。いち、にー、さん……」
本数を数え始めた悠仁から隠すように花束を抱え直せば「あっ! 隠すなよッ」と可愛らしい犬歯をだして噛み付くように言ってくる。そんな様子も可愛くて仕方がない。なに笑ってんだよッと目くじらを立てる悠仁をみて脹相は幸せだな、と思った。
廊下の開け放たれた窓から夏風が吹き込んでくる。
暑い。こんなにも暑いから、目蓋のその奥も熱いのだ。
(――嗚呼、今日は人生最良の日なのかもしれない)
脹相は差し込む日差しに目を細めた。
例年と同じ日に、今年だけ違う夏の昼下がりはこうして始まった。
◇
「そーいやさ、ここって今は高専じゃないんだろ?……見た感じ俺の知ってる建物そのままだけどさ……。ここっていまは何の施設になってるん?」
手持ち無沙汰なのだろう。墓掃除をする脹相の背中を見守る悠仁が何気なく質問を投げかけてくる。
夏場の墓場、それも日中ともなればこの場所だけ気温は高くなる。墓石が太陽光を吸ってこれぞまさに焼け石に水というやつである。水をかけて拭いても端からどんどんと乾いてくるが、それでも脹相は懸命に掃除を続けた。
日々手入れしている場所ではあるのだが、この日も欠かすことはない。何より、悠仁自身に美しく整えられている墓を見てほしいという気持ちがあった。
脹相は流れる汗を荷物と共に持ってきた手拭いで拭きながら悠仁を振り返った。
「なんの施設でもない」
「?、んじゃあ、ここって……」
「俺の土地だ」
「お、お前の土地ィ……!?」
目を剥く悠仁に向かって僅かに微笑んだ脹相は再び墓石に向かって掃除を再開する。半分ほど木陰になっているとはいえ、真夏の陽の光が背を焦がすようだ。花器の銀色に太陽の光が反射して眩しさに目を細めた。
「きちんと購入した。いまは俺の土地だ」
「こ、購入って……、こんな広い土地をか……!?」
「ああ、呪術師としての報酬の全てはこの土地に宛てた。いまはこの土地の管理と呪物の管理が俺の責務だな」
「……俺のせい?」
首筋を焦がすのは、太陽の熱か。
それとも悠仁からの視線か――。
脹相はひりひりと灼けつく熱さに向き合うように振り返った。
「違う」
「……」
「俺がそうしたかったからだ」
「……」
悠仁は気まずげに俯くとそっと目を伏せた。ザリッ、と靴の下から砂利が細かな音を立てる。そんな顔をさせたかったわけではない。だが、事実なのだからしょうがない。
脹相は木陰に置かれている水のたっぷり入ったバケツからいくつかの花束を取り出すと墓の前に飾っていく。
薔薇。
キキョウ。
カサブランカ。
スイートピー……。
和花も洋花もさまざまに入り乱れた極彩色が墓石の前を彩った。水滴が宝石のように煌めき、美しい花々を豪奢に見せる。
脹相は花が好きだ。以前――悠仁が亡くなる前はそんなことカケラも思わなかったが、この墓に供えるようになってからその考えは百八十度変わった。
花は美しい。切り花は尚更だ。命の最も輝く瞬間に切り取られた花。……まるで、悠仁を見ているようで悲しくも大切に思うのだ。
目を細めてあとはもう枯れゆくだけの命を目に焼き付けてから脹相は膝に力をいれてゆっくりと立ち上がった。振り返れば悠仁は花々を見つめている。その顔はひどく切ない。
「――その花……」
「薔薇は釘崎野薔薇からだ。真っ赤な薔薇を十三本と指定されている」
「……くぎ、さき」
「花は自分らしいから。本数は永遠の友情を意味しているらしい」
「…………」
「『虎杖が釘崎野薔薇をこの先も忘れないように』、と言っていたな」
「はは……っ、お前みたいな女子、忘れるはずないだろ……」
真っ赤な薔薇が十三本、カスミソウと共に束ねられている。女性らしい、だが一等目をひく美しさはまさに釘崎野薔薇の人間性そのものだ。
「キキョウは伏黒恵から。花言葉は『永遠の愛』」
「あ、いぃ……!?」
「と、いったらどんな顔をするだろうかと笑っていたな。『変わらぬ心』や『誠実』。その意味合いで選んだらしい」
「騙されたじゃんか伏黒……」
「和花を中心にしてくれと言われている。年に一度、自分が行けなくなってもお前のそばに自分らしい花束がほしい、と」
「……なんだよ、それ」
紫の桔梗が束ねられた花束は伏黒恵を思わせるような清潔さと気品があった。風にそよぐ花はいつも墓石の一番近くだ。悠仁の人生を隣でいつも歩いてくれた彼に相応しい場所にいつも脹相が手ずから供える。
「カサブランカは五条悟から。スイートピーは伊地知からだな」
「先生と伊地知さんまで……」
「花言葉は知っているか?」
「流石にそんなに詳しくねぇよ」
はは、と笑う悠仁の顔は嬉しいのに苦しいのだと物語っていた。白いカサブランカが熱風にゆらゆらと揺れる。大輪の花をつくる花弁が水を滴らせる様子を見ながら、脹相はかつて五条にこれからの花束を頼まれたときのことを思い出していた。
「カサブランカは『純粋』『無垢』『雄大な愛』。五条悟の考えるお前のイメージだそうだ」
「ンだよ、それ……。人殺しておいて、純粋とか無垢なんて、」
「供える意味は『祝福』だそうだ」
「しゅく、ふく……」
「悠仁の奪ってしまったこの先を、祝福したいと」
「この先って……」
「お前の存在に救われていた、と言っていた。自慢の生徒だと。『来世なんて信じちゃいないけど、悠仁のこの先の道行きが良いものであって欲しいからさ』と言っていた」
「先生……」
「スイートピーは『別離』や『優しい思い出』。伊地知からの想いが詰まっているのだろうが……、この花が一番入手が難しい。春の花だからな。苦言を呈したらひどく謝っていた」
「……ふはっ」
腹を押さえてクスクスと笑う悠仁の顔が隠れる。ぽた、と地面に落ちた雫に気づかないふりをして脹相はもう一度花束をながめた。
かつて悠仁を愛した者たちは皆いなくなった。半呪霊の脹相の年の取り方は、普通の人間よりもかなり遅い。ゆっくりと歩み続けるうちにひとり、またひとりと減っていった。
任務の途中に亡くなった者。
任務とは関係なく事故や逆恨みで死した者。
病で徐々に衰弱した者。
旅路への切っ掛けは様々だったが、誰一人として残らなかった。当たり前だ。もし老衰であったとしてもあれから百年以上が経っている。こうして脹相がここにいることが奇跡なのだ。
悠仁は泣き顔を見せまいと下手な演技で笑い続けている。思い出したのならば、記憶に残っているのだろう。彼らは悠仁が幽霊となってから毎年墓参りにきていた。
どんなに任務や私生活が忙しくとも、毎年この一日だけは全員が揃っていたのだ。
そしてあの場にいた人間のなかで来年の保証がないことを予感した人間は、必ず別れる前に悠仁へ声をかけていた。
『アンタに会えて、よかったわ』
『虎杖。……また会おうな』
『教師なんて向いてないな〜って思ってたけど、また来世でも教師やろっかな』
『虎杖くん。……ありがとうございました』
皆がそれぞれに声をかけていた。悠仁との思い出のなかよりもずっと年齢を重ねたその姿と言葉に悠仁は全く気付くことはない。皺の刻まれた顔を見てただあの笑顔で笑うのだ。
『なーにしんみりしてんの! また明日な!!』
そう言って元気に消えていく悠仁に皆が救われていた。
――お前の存在に、皆救われていたのだ。
悠仁が落ち着いてからは、二人でここまでのことをポツリ、ポツリと話した。
木陰で二人で花を眺めながら語り合う。そんな穏やかな幸福の中でも次第に太陽はその輝きをおさめていく。
風が変わる。
赤から藍へ。
ゆっくりと空が滲むように変わっていく。
別れの時間は、すぐそこまで差し迫っていた。
◇
夕暮れの中で蜻蛉が飛び始める。
赤い夕陽が脹相と悠仁を照らし出し、その影を色濃くしていた。
「悠仁」
「……ん?」
脹相をみる悠仁の瞳は優しげな色をしていた。
琥珀が濃く、揺蕩うように揺れる。この子はきっと自分がこれからいう言葉を分かっているからこんな目をしているのだ。それが切なかった。
「来年の約束は、もう、しない」
「…………ああ」
「来年は……、ここに来ない」
「…………うん。なんとなく分かってた」
悠仁はそう言ってくしゃりとハンサムに笑った。紅の光が悠仁の顔の傷を浮き上がらせるように目立たせる。それでも、悠仁の気高い凛々しさは翳らない。
「あんなにゴツかったのに、……こんなに細いんだもんなぁ。手だってさ、……こんなに皺くちゃだ。爺ちゃんと同じくらいかなって今日ずっと考えてた」
「ああ……、そう、かもな」
脹相は自らの両手を持ち上げて夕陽に翳す。見えるのはあのころの無骨な手ではない。皺だらけの細い指が紅に染まっていた。
歳をとったのだ。この百年以上の間に、ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて歳をとった。去年までの悠仁は何も気付かなかった。だが今年は脹相の姿の老いが解る。一挙一動にゆっくりした動作の、その全てを今日一日みていた悠仁にはわかるだろう。
――脹相は、あと僅かな命であった。
「此処は俺が信頼している者に預けることになるだろう。呪物の保管もされているんだ。無下にはされない」
「そんなの平気だって」
「最後に、お前と会えてよかった」
「……毎年会ってたじゃん」
「ああ。……だがようやく、心を交わすことができた気がする」
悠仁の瞳を見つめる。
達観した少年の瞳。この飴色に自分の姿が映るのは、今日がきっと最後だ。
「今までありがとう、悠仁」
俺に付き合ってくれて。お前は、自慢の弟だ。
そういって深々と頭を下げる脹相の細い身体を見て、悠仁は笑った。
「俺さ、今日一日ずっと自分のことを考えていたんよ。なんで幽霊になったんかなって。——でも、いま、なんか分かった気がする」
軋む上体を持ち上げて見上げた先にいた悠仁は、かつてのように晴れやかに笑っていた。夕暮れに照らされた向日葵の笑み。湿っぽさをどこかに忘れてきたように笑う彼の姿に、脹相は思わず見惚れた。
「俺、きっと待っていたんだよ」
「ゆう、じ」
「出会った時、俺たちは二人ぼっちだったじゃん。だから最後まできっと、二人ぼっちでいくんだよ」
「悠仁……」
ぽた、ぽた。と乾いた頬を雫が滑り落ちる。夏の陽はもう沈みかけ、夕闇に包まれようとしていた。
「一緒に行こうぜ。俺は脹相のために、ってやつ!」
カラリと笑う弟の笑顔がやけに目に染みた。
滲む視界で脹相もフッと笑うと最愛の弟を愛おしげに眺めた。
「――ああ、俺は悠仁のために。……だな」
青年のハリのある手が脹相に向かって伸ばされた。細かな傷のついた大きな手のひら。
逡巡は僅か。脹相は迷わずにその手をとって握りしめた。
太陽が沈む。僅かに紅を掃いた空はもうじきにその色を藍に染め切るだろう。
薄闇に沈んだ墓石には多くの花束と共に一人の男が眠っていた。手を硬く握った彼の表情は柔らかい。まるで幸福を見つけたような男の表情は、死の訪れを感じさせないくらいに穏やかであった。
供えられた向日葵の花が揺れている。
一際大きな花束の本数は五十本。
――意味は『永遠』。
夏の夜が、訪れる。
宵闇に沈む景色の中で、二人を見守るように花々が笑っていた。
【終】