理解者 生家にいる時のドンシクは、年相応に老け始めた男に見える。
悪い意味では無い。かっこいい男だなと思う。渋さや頼りがいのようなものが強まるとでも言おうか。低い声でぼそぼそと話し、不精髭で煙草を吸い、薄暗く冷えきった地下室のソファで寝苦しそうにしているのが様になっていた。
事件が解決してからは自室を少しだけ片付けて、自分のベッドで眠っているようだ。敵視して押しかけていた頃は、まだ時が止まったままの持ち物と、そうでないものが同居していた。
執行猶予期間だった二年間は、長いようで短い。
地下室にあった不用品、父親の部屋の物、ドンシクの部屋の要らない物を少しずつ移動し処分したようで、寄る度にその比率は変わっている。ジュウォンは一人ではユヨンの部屋にどうしても入れなくて、ドンシクに「ユヨン、この人が真犯人を捕まえてくれたぞ」と背中を押され、やっと足を踏み入れた。
ナム所長の遺した家でドンシクはしばらく、実家から荷物を全部運んでいないからと、くたびれたスウェットやランニングウェア、所長が置いてあった防寒着でくつろいでいた。
所長が足の悪いドンシクと老いていく自身のために、そこだけ奮発した良いマットレスのベッドの隅で丸くなって眠る。
ベッドは二つあるのに、罪の意識でナム所長のベッドではどうしても眠れなくて、居間で寝袋を使って眠った。「おくるみ入りの赤ん坊みたいだ」とからかわれてから、ドンシクのベッドに強引に押し入って眠れるようになった。
それでも、あの家ではナム所長に見られているような気分になり、ドンシクに強行されるまで、家族のようなことはできても、恋人らしいことは何もできなかった。
ジュウォンの部屋では――ドンシクの煙草の匂いも渋味も毒も全部洗い流されてしまう。ドンシクはどうやら、意外とその状態を気に入っているらしい。白いシーツの上できれいな服を着て、甘く深く身体を重ねる。
眠る時はジュウォンがあげた抱き枕を抱いて目を閉じている。悪夢を見て辛そうな時もあるが、よく眠れているように見える。
ジュウォンの恋人でいてくれるのはあの部屋の中だけのような気がして――幾度も、これは自分だけが見ている都合のいい夢で、目が覚めたら二人とも、父の部屋で撃たれて倒れている想像をしては不安になる。
それでもドンシクに触れ、彼が血の通った手触りのある幸せな現実だと確認しては、その幸福感が全てを上回り、満たされるのだ。
「家を……?」
ドンシクが不動産系の法律に詳しい人間をヒョクに紹介してほしいというのは、前にも伝えた。直接ドンシクとヒョクが話した方がいいということになり、マニャンに車で連れて行く道中、簡単に補足した。
退魔師ホ室長のことは言わずに、ジュウォンの好きな建築家がリノベーションしてくれることを言ったら、ヒョクは怪訝な顔でそう訊ねて黙った。
「うん。ヒョンにそういう場合の法律に詳しい人を紹介して欲しいって」
「いや、それはいいけどさ。ジュウォナお前、この前合鍵もらったばっかりだよな」
ヒョクとはよく飲みに行っているが、以前より長く飲むようになってしまった分、何もかも話してしまっている。
「それが?」
「いやいやいや、それ、お前好みの一軒家を、大好きなドンシクさんごともらうってことだろ?」
『大好きなドンシクさん』と言われ、少し動揺する。
恋愛相談ができる男友達はヒョクだけで、ドンシクの人となりを理解しているのも彼だけ。ジフンに相談するのは嫌だし、ジェイに力を貸してほしいことは減った。
ドンシク本人よりも、ヒョクの方がドンシクへの賛辞を聞き飽きるほど聞いている。
今まで散々ヒョクの好きな女性への感想を聞かされてきたから、やっとジュウォンの番が来たとも言える。
俺に言ってどうするんだ、本人に言えとは言われるが、意外と同意してもらえる。
性的な話は濁してはいるものの、どっちがボトムかはバレているだろう。最初は、潔癖症なのに大丈夫なのかと心配すらしていた。
距離感は変わらないどころか、前よりも近くなった気がする。ジュウォンが俗っぽいことに馴染んできたのを歓迎しているような雰囲気だ。
そう、この男は下品ではないが俗っぽい。でもそのぐらいの感覚が普通なのだと、やっと実感している。
「家はドンシクさんのだし……もらうわけじゃないよ」
一緒に暮らすかもしれない可能性はあるが、あの家はドンシクの家だ。
「ジュウォナ。俺がお前の家をくれって言ったらどう思う?」
ヒョクはいつもの、頭痛がするような表情でそう呟いた。
「僕の家?実家のこと?」
「どっちでもいいけど、普通はあげないだろ。結婚でもしないとさ」
結婚。今は同性でもしようと思えばできる。全く意識していないわけではないが、しても今とそう変わらないのではないかと思う。
ただ、恋人でいるよりも不安が少なくなるのかもしれないなとは思う。法律的に『僕の夫です』と紹介できるだけでも、独占欲の強い自分にとっては意味がある。でも、それが目的なのは間違いだ。
ドンシクとこうなるまで自分に必要なことだと思っていなかったし、ドンシクにとってもそうではないかと思う。
「僕はしてもいいと思ってるけど、ドンシクさんはわからないよ」
「えぇ……?どういうこと?」
今回のことが自分との関係が無ければ成り立たないという前提はあるが、ジュウォンがいなければ、詳しい親戚や友人に同様の頼みをしただろう。
「そのままの意味以外に何かある?」
「だからさ、それ、プロポーズだろ?」
「――え?」
「お前とドンシクさんの間では当然の流れなのかもしれないけど、それは、プロポーズだよな?」
「……僕がずっと一緒にいたいと常々言っているから、そうしてくれたんだと思う。ドンシクさんがそうしたいかはわからないけど、僕がしたいって言ったことに、いいですよって応えてくれるだけだよ」
「それだよ!お前のそれ!プロポーズだって!」
無駄にうるさい。検事なのだから、もう少し上手い責め方があるだろう。
「気持ちを伝えただけで、そうしてくださいとは言ってないってば」
ジュウォンは嘘つきな権力者みたいに言い逃れているわけではない。
「でもお前、ドンシクさんの時間ができるだけたくさん欲しいって言って、OKされてるよな?プロポーズに成功してるってことじゃん!」
恋人になって欲しいとは伝えた。いいですよと言われ、一緒に住んでもいいけど、ジュウォンの部屋ではなくナム所長の家だと言っていた。でも、ジュウォンの罪の意識は消えなくて、もしかしたらそれは無理かもしれないと思っていたところだ。
ドンシクがそのせいで実家を改装するなら、ジュウォンに言わないとは思えないから、ちょうど縁やタイミングが合っただけだろう。
「結婚してくださいとは言ってない」
「同じだよ!」
ジュウォンは元々よく喋る方ではあるし、酔うと止まらなくなるのは自覚している。話したことも忘れはしないが、人の恋愛話の細部をよくもまあ覚えているものだ。
「え?じゃあ、僕がヒョンと一緒に住みたいって言ったら?プロポーズ?」
ヒョクは呆れてから物凄く困惑して、ため息をついた。
「それは――シェアハウスだな」
「ほら、プロポーズじゃないよ」
ここでヒョクを言い負かしたところで、どうなることでもないとはわかっている。
「それは、俺とお前は兄弟みたいなものだからで、お前とドンシクさんは恋人同士だろ?」
「だから……同棲?になると思うけど」
現状ではそれが的確だと思う。
「今の状態が半同棲で、その、リノベーションした家に住むのは結婚と同義の同居だろ?」
「……法律の話?」
「馬鹿なの?」
「何の話?」
「おめでとうってことだよ!何が、あまり高価なプレゼントだと受け取ってもらえなくて、だよ。お前の彼氏は家くれるつもりなのに」
ああ!そういうことか。
確かに他のカップルで同様のことがあったら、ジュウォンだってそう思う。もっと感動して盛り上がるか、ドンシクにそれを問い質していないことが気になるのだ。
「……え、そういうことなのかな。ドンシクさんは僕にプロポーズしてるってこと?」
あんなに何気ない感じに言ってくるものだろうか。
チェスの最中に都市伝説みたいな退魔師の話をして、ジュウォンの好きな建築家がリノベーションしてくれるからと。
わざわざ彼に頼むために画策したとは思えないから、全部ただの偶然だろう。
「それはドンシクさんに聞かないと確かにわかんないけど、俺ならそう思うよ」
少し前の彼ならわからないが、ゲーム以外で騙し合い暴き合う関係は終わったのだ。
とはいえ、トリッキーな手を打って反応を見て、動揺に対して幸福なサプライズを用意することはある。リノベーションの件が正にそれだった。その上でさらに、恋人以上の関係を言い出すことは待っただけか。
「ドンシクさんが、僕に、プロポーズを?」
違う気がする。まだそこまでの意味は持っていない。
ただ、それを見越しての提案かもしれないとは思った。ジュウォンの心構えを待つつもりか、ドンシク自身もまだなのか。改装が終わるまでは何があるかわからないから、ジュウォンが問い詰めなければ多分、その後だ。
事件解決のため、何年も虎視眈々とベストなタイミングを待つ男だ。急かさずに、その時が来るまで待つのがいい。
それだけ、ジュウォンとの関係に真剣なのだとわかる。
「いや、もういいよ……いつか二人で話し合ってくれ」
ちらりと脳裏に浮かんだのは、ナム所長が夢枕に立って、退魔師に頼んだというくだり。
所長が家を買った時はあんなタイミングで自分が死ぬなんて思っていなかっただろうし、ドンシクをあの家に誘ってもいなかった。連名の表札は用意していたわけだが。
ジュウォンとドンシクがこうなることも――いや、パートナーを組ませたのはあの人だから、そうとも言えないか。
とにかく、ドンシクの幸せや安全を願う人間だというのは確かだ。
だとしても、ドンシクはそんな曖昧なままにはしない。
愛しているとは何度か言ったが、毎回含んでいる愛のかたちが変わる気がする。
ジュウォンもじわじわと、静かに動揺している。責任重大だと思ってはいても、楽しみの方が勝っていた。ただ浮かれているわけにもいかないと思い直す。
「やっぱり、『結婚したいです』って言って、『わかりました』って言われたとしてもさ。気持ちは伝わってはいても、ドンシクさんも僕と結婚したいって言ったことには、ならないんじゃないかな?」
ヒョクも少しはそう思い始めたのか、俺が悪かったと言うような手振りをして、窓の外を眺めた。
「わかったわかった。ドンシクさんに、『俺もです』か、『俺もジュウォニと結婚したいです』って言われないと、お前の中でそこがマッチしてないことになるのはわかったよ。ドンシクさんもそうかもしれないから、そこは話し合ってくれ。特に、状態は変わらないかもしれないけど、乾杯。めでたいけど、幸薄い俺にお前が奢ってくれ」
ヒョクはジュウォンをよくわかっている。それに、善人だ。
人の頼みが断れないのはそうだが、自分ならベストな結末に持って行けるのではないかという楽天的な野心があるのだろう。
ジュウォンはそれを本人に言うべきか迷いながら、少しだけ口角を上げた。