ヒョク「ヒョン、驚かないんだ」
「え?何に」
ハン・ジュウォンはほろ酔いの時――特に自分の前では――素直で融通の利かない、生意気な弟分のままだ。
「僕の好きな相手がドンシクさんでも」
あんな地獄を経験したのに案外けろりとしていて安心したら、恋愛相談なのか何なのかわからない報告をされている。ドンシクを表す言葉や、想いを伝えるべきかを悩む様は、古い時代のインテリが酔って詩を詠むようだった。
どれだけ焚き付けてもどの美女にも興味が無かった男が、まさか、執拗に調査して容疑をかけて、逮捕までした男に惚れるなんて。
そう思ったものの、ドンシクとジュウォンの間の空気は特別なものだと知っていたから、自分でも意外なくらいすんなり受け入れた。
「全然知らない女性に急に恋したって言われるよりは、有り得る。俺もあの人のことは、かっこいいと思うし」
「そういうものかな」
「ドンシクさんとお前なら有り得ると思う」
「有り得る?」
イ・ドンシクは文学的な形容の似合う男だ。『罪』『過去』『傷』『痛み』『業』『毒』。そんな言葉がそのまま人になったような、独特の雰囲気がある。謎解きが好きなジュウォンが、そのミステリアスでクレバーな色気に惹かれるのもわかる。
謎を解きたくなるような、惑わされたくなるような、そういう危うさが魅力だ。
「まあ俺なら、精肉店の彼女がいいな。選べるような身分じゃないけどさ」
あの人もミステリアスでクレバーだ。
「それは、僕限定の話?ヒョンがってこと?」
「俺がドンシクさんも守備範囲かって?」
ヒョクは女好きと言えるだろう。結婚願望もあるが、後腐れなく、いろんな女性と付き合ってみたいと思うタイプだ。
顔のいい人間は男女問わず好きだが、男に恋したことはない。
出会った頃、ジュウォンは華奢で声も高く、今より更にかわいらしかった。そのため、ごく稀にジュウォンとの仲を勘繰られることもあったが、惑わされたことは無い。
そんなことになったら即解雇されただろうから、ある意味適任だったと言えよう。
「守備範囲?ヒョンはへテロセクシャルでしょ」
「俺だって、お前がゲイだとは知らなかった」
そもそもジュウォンは人間が嫌いだ。
作家や偉人を称えることはあるから、人間が嫌いというのとは少し違うのか。人付き合いが嫌いなのだから、結婚を前提とした交際なんて考えられなかった。
それでも感情の熱さはあるから、例えば、尊敬する偉人くらい頭のいい女性と出会えば、いつか夢中になることもあるのではないかと期待していた。
「それは自分でも知らなかった。ゲイなのかどうかもまだ、よくわからないし。ヒョンがドンシクさんなら有り得ると思うのが色気のせいなら、ヒョンだってわからないよ」
「あの色気は、俺には手に負えない。だから、俺なら精肉店の彼女だ。実家も自営業同士で話も合いそうだし、年も近いから」
ジュウォンから聞く限り、性格もタイプだ。
「色気が無い方がいいってこと?そういえばずっと美人だって褒めてたね。僕には、ユ・ジェイ氏の方が手に――いや、どっちも手強くて手に負えない。本当に紹介して欲しいなら、話してみる?下心なんて見せたら、冷たく突き放されそうだけど」
「紹介してくれるなら有り難い」
ただジュウォンの兄貴分だというだけなら、警戒もされないだろう。
仕事柄、お互い社交辞令は心得ているだろう。まずは無難な会話をするだけでも、彼女を知りたい気持ちはある。
「お金持ちのお嬢様にしか興味がないのかと思ってた」
「彼女は社長だろ」
「財産じゃなく、役職が大事?」
美人でも、浮気をしないタイプだとありがたい。ユ・ジェイは多分、真っ直ぐな人だ。
そういう人に好きになってもらえる男になるのは、多分これからだが。
「そうじゃなくて、若いのに独りで店を切り盛りしてるのは凄いだろ。尊敬する。お前は彼女に失礼なこと言って喧嘩したらしいから、そういう風に意識するのはお互い難しいのかもしれないけどさぁ」
「……ドンシクさんに言ったことの方が、酷いことだったと思う」
急に凹み始めた。ああ、間違いなくこれは恋だ。恋する人間の情緒の乱れだ。他人の自分が答えらしきことを捻り出したところで、彼らの恋路には関係がない。二人の間にしかない答えを、出す前にこねるだけ。
でもそういえば、ジュウォンの情緒はいつも乱れていた。
気性が荒いのは父親譲りだし、猪突猛進で無謀なところが恋愛に向いていたら、もっと違う印象の変人だっただろう。
「ドンシクさんは警察官だから、そういうことへの耐性は彼女よりあるだろ。人殺しって言われるのには慣れてたんだろうし。男同士だから、パワーバランスも女性相手とは違う」
「自分が彼女に相当酷いことを言ったのは、もうわかった。僕を許しても、暴言自体を許したわけじゃない。僕の特性を理解してくれて、無視されないし、協力もしてくれる。ただ、見ててイライラするから、けしかけてるだけかもしれないけど」
「俺は、そういうところもいいと思う」
自分は思ったより、彼女に惹かれているのだと自覚する。
自覚しようがしまいが、彼女の気持ちがわからないどころか、彼女はヒョクを認識すらしていないのだが。
「少し前のあなたなら無理だったかもしれないけど、確かに僕よりは相性いいのかも。今度、肉を買いに行く時について来れば。家業の話も良さそうだし、経営とか、法律の相談に乗ってくれれば頼りにされるかも。まあ、下心を利用されて終わるかもしれないけど」
「なんだ急に。協力的だな」
「ヒョンが僕のことばっかり面白がるのは不公平だ」
「だって、面白いだろ」
「ドンシクさんに振られたら、マニャンの人たちとは縁が切れて、また、ヒョンしかいなくなる」
「別にいいだろ。普通に――友人か兄弟みたいなものだと思えば」
「これから僕といて、ヒョンに何かメリットある?」
そうそう、出会った頃からこういう生意気な子どもだった。顔のかわいさなんて逆効果でしかなかった。ヒョクより頭のいい奴はいくらでもいたが、その生意気さに耐えようと思う学生が少なかったのだ。
「刑事と検事なら、いくらでもあるだろ。お前は――いいやつかどうかはわからないけど――俺の知る中では一番、信用できる人間の一人だ。少なくとも、事件解決や正義についてはな。自分の考えを貫ける強さがあるし、情に流されて悪事を働く汚さもない。潔癖症だからな。目的のためなら人を利用するずるいところもあるけど、今までのことはお互い様だからな」
「自分勝手で独りよがりだった。手段を選ぶ良識も見失って」
ほろ酔いではなく、泥酔し始めている。いつも酒が回る前に家に帰していたから良かったが、楽しく飲むのには向いていない。
「俺だってお前を散々、利用した。俺の弱さや狡さに比べたらマシなもんだよ。巨悪を追い詰めるためだったわけだし」
「父さんのこと、好きだった?」
酔っているのか何なのか、こちらを見ず遠い目のまま、ジュウォンはそう問う。
「俺が憧れていたのは力そのもので、あの人自身ではなかった。ずっと前からね」
本当は、ジュウォンとの繋がりの方が大事だとわかっていたのかもしれない。
「力に憧れるのは悪い事じゃない。僕も――強くなりたい。ドンシクさんの強さに憧れてるだけなのかな」
「それもあるだろうな。でも、お前はちゃんとドンシクさんを好きだと思う。お互い罪悪感とか依存関係みたいなものもあるんだろうけど、許せないことと、大事にしていることが同じなんだなって感じがする。人をどこまで許して、助けて、信じるか、ずっと考え続けてるんだろうなって」
「僕は全然、人を信じられなかったのに?」
「うん。だから、そういうところ?自分がそうだったから、そこから抜け出す方法を知ってる人だろ。人に期待してないところは似てるけど。お前は信じてもいい大人が周りにいなかったから、信じなくて正解だったわけだし」
ドンシクはジュウォンの手に触れて、逮捕してくれと言ったらしい。
誰かの手を取ることさえできなかったジュウォンの呪いを解いたのは、間違いなくあの人だ。恋なんて通り越して深い愛情で結ばれているのに、そこに恋慕が絡んだら、迷うし怖いだろう。
「全然人を信用しない同士だから、上手くいくってこと?」
「人を信じられるレベルの高さが一緒っていうことかなって――うまく説明できないな」
「ああ……わかった。確かにそうかも。僕が疑うことに対しても当然って感じだから」
「だろ?普通の女の子にそんなことしたら、すぐ振られると思うけど、ドンシクさんは別に嫌そうじゃないし、かわいいとか言われるんなら、ジュウォナの子守りも苦じゃないんだろ。余裕あるよね。最初から敵だなんて思ってなかったんだろ、どうせ。あの人の敵はずっと、カン・ジンムクと、お前の親父さんだった」
「子守りか――」
ジュウォンはむくれて、また悩んでいる。たとえルックスも頭も良くても、相手の好みがわからなければ、強気になるのは難しい。当たって砕けても無視はされないとは思うが、気の迷いだなどと優しく諭されるのも辛い。それでも、悩んでいるだけでは進展することはない。それが恋だ。
「お前は社会人としては大人だけど、人間としてはまだ子どものままなんだよな。周りの人間に恵まれなかったせいで、無邪気な子どもにもなれず、自由で馬鹿な若者でいられなかった。金持ちの子ってそういう子が多くて――お前はその中では、まだやり直せるところにいると思う。ドンシクさんも自分がそうできなかった人だから、放っておけないんだろうな。姪御さんの面倒も見てたんなら、誰かに頼られて誰かを守ることが、彼が未来を生きるために必要なのかも」
「なにそれ」
「今からお前も含めて、みんなでドンシクさんと一緒に、子どものハン・ジュウォンを育ててあげればいいのかな。ドンシクさんもそうすることで、足りないものがわかるし、お互い支え合えるはず」
「――そういうものかな」
「マニャンの人たちも皆、多分そういう風にお前を見守ったり、支えようとしてるんだ。今言ったら振られると思うのは、自分に足りてない部分があると思ってるからだろ?距離を縮めて、自分も成長したら、何かいい方に変わるかもしれない」
「ヒョンも?」
「当然。俺はお前の家庭教師だから、お前を教え導いてやるよ」
「ヒョンは――いい人なのかな」
酔っているのかいないのか、純朴な眼差しがこちらを見た。
「今までは違ったかもしれないけど――少なくとも、お前にはそうなれるよう頑張るよ。これからは」
過ちに気付いたら、やり直すべきだ。成長して――いい方に変われることを信じて。
「ヒョンは努力家だし、検事としても尊敬してるよ。あなたを良くないことに利用してしまったのは僕だ。本当に、すみませんでした」
急に謝られ、胸が温かくなる。恨んでいたら、こんな風に一緒に飲んだりしない。
「目的を隠されるのは嫌だったけど、はっきり協力を頼まれていても断らなかったと思う。金持ちや権力者に憧れていたのは、腕力のない自分がヒーローになる近道に思えたからだ。実際は、どんどん遠ざかってしまった。力が欲しかったのはヒーローになりたかったからなのに、それを忘れてた。お前が先に、ヒーローになっちゃったな」
自分も酔いが回ってきたせいか、素直な気持ちが紡がれていく。
「ヒョンはそのままでヒーローになれる。僕に言ったよね。露地育ちが勝つと。あなたがいなかったら、あなたの決断がなかったら、父を追い詰めることはできなかった。それはあなたの強みだと思う。これからも信用してます」
手を差し出され、熱い気持ちが込み上げる。ジュウォンには、絶望から希望を見出す力がある。たとえそれが強引で無謀でも、賭けてみたいと思わせる純粋さに惹かれるのだ。
「……ありがとう。改めて、よろしく」
次に会った時は酔っていて覚えていないかもしれない。それでも、身が引き締まる思いがして、ジュウォンとの縁が大事なものに思えた。
「よろしくお願いします」
イ・ドンシクは、彼の気持ちに気付いているだろう。元相棒への愛情の強さもわかる。
「じゃあ今度は、マニャン精肉店に連れて行ってくれ」
彼らの間にあるものが温かく明るく育つよう願うのは、ヒョクだけではないようだ。
そういう気持ちならきっと、ユ・ジェイやマニャンの人々と共有できる気がした。