子供の泣く声が響いている。
今しがた細い若木のような腕に差したばかりの注射針を鉄製の容器の中に戻しながら、フィガロは単純に元気な子供だな、という感想を抱いていた。若い生命は小さな痛みも大きな危機のように捉えて、助けを求める声を上げるエネルギーを惜しまない。隣では子供の母親が決まり悪そうに身体を竦めていて、時折その小さな背中に触れていた。我が子の行儀が悪いと思っているのかもしれない――医師としてはそんなことは気にならなかったのだが。医者の処置を受ける時の子供というのは、得てしてこんなものである。
「痛いの我慢して、よく頑張ったね。ちゃんと毎日薬は飲むんだよ」
子供にねぎらいの言葉をかけながら、フィガロは傍らの薬の包みを取ってそれを紙袋に入れると、母親に向かって差し出した。
「朝と夜でいいんでしょうか」
まだ少しおずおずとした様子の女に、南の国の親切な医者は、人好きのするその笑顔を崩さないままに頷いて答える。
「そうだよ、お茶とかじゃなくて、お水でね。――三日もすれば熱も引くはずだよ」
結局子供はフィガロがなんと声をかけてやろうと泣き止まず、母親は恭しく薬の包みを受け取って子供にも頭を下げさせると、それから何度も礼を言って、いくばくかの硬貨を机の上に置いて診察室を後にした。
扉が閉められた後も甲高い泣き声は建物全体を震わさんばかりに響いていて、フィガロは思わず苦笑を浮かべた。それを聞きながら、ふと彼は自分がどうしてシュガーでもその口に入れてやって泣き声を止めてしまわなかったのだろうと考えた。それは時折彼が年端もいかない患者に対してやることで、風邪をこじらせて食欲を失っているらしいあの子供にはうってつけの処置であったように思えたのだが。
それなのにそうしなかったのはどうしてだろうか――そう思った時、ふいに外から漏れ聞こえてくれるそれが、警報、あるいは何かの訪れを告げる報せのようにも聞こえた。
子供は午前中の最後の患者だったので、フィガロはひとまず外の看板を引っ込めて休憩中であるという意思表示をすると、台所に行って食べかけのサラダを口に入れた。立ったまま食事を済ませようと思ったのは、休憩の間に読んでしまいたい手紙があったからだった。北の国に住んでいる師匠筋の双子から送られてきたもので、ひどく可愛らしい封筒に納められたそれはテーブルの上にちょこんと載っている。
大して空いてもいない腹に形式ばかりの食事をお茶と一緒に流し込むと、フィガロはそこらに放り出していたペーパーナイフを取って封筒にあてた。綺麗な線を描いてそれは厚紙を割き、中から透かし模様のある紙が現れる。
星の模様の透かしの愛らしさとは裏腹に、そこに書かれていたのは非常に深刻な報せだった――それもちょっとやそっとのことでは動じないような、二千年を生きた魔法使いに目を見開かせるのに十分な。そこに綴られた少々古臭い言い回しを何度もためすつがめつしながら、フィガロは報せが意味するところを考えていた。
――三か月たっても賢者はまだ現れない。こんなに長い間賢者が現れなかったことは、長い歴史の中でも今までになかったことだ。
星の模様の上でのたくる文字は次のようにも言っていた――賢者が訪れない原因を探さなくては、賢者の魔法使いの立場は非常に悪いものになる。
その不都合な報せを、フィガロは鎮まり切った冷静な頭で整理した――賢者の魔法使いの立場が悪くなるというのは、恐らく魔法舎が位置する中央の国中枢からの圧力が増すであろうことを指しているのだろうが、一方で賢者が訪れない原因というのは、残念ながらさっぱり、予測すらつかなかった――大いなる厄災と戦う魔法使い達を導く為に訪れる旅人については、謎に包まれている部分が多い。
後者についてまだ何の手がかりも得られていないことについては、フィガロとしても歯痒いと思っていることは確かだった。この異変は何も最近明らかになったことではない、もう二か月も前からフィガロは同じような報告の手紙を師匠達から受け取っていた。
しかし永く生けれどフィガロが賢者の魔法使いの任を与えられたのはここ一年ほどのことだ、賢者が交代する際に何が起こるのかということについては、師匠から聞きかじった程度に過ぎない。そう言ったことから、この件に関する調査については彼らに殆ど任せきりになってしまっていた。
何しろフィガロが賢者の交代について身をもって知っているのはたった一つの事実だけだ。知っているのは、自分達がこの星の旅人を忘れてしまうということだけ。
フィガロには、つい三か月前まで行動を共にしたはずの賢者に関する記憶がほとんどない。ところどころ、曖昧な記憶はあるものの、はっきりと思い出せることは指折り数えることができるほどに少ない――あるのはただ、自分がその人物に対して穏やかな感情を抱いていたかもしれないという微かな記憶、それだけだ。
そして誰かが時折自分の手を取ったような気がする、たったそれだけ。
手紙を受け取った翌日は雨が降った。一瞬のうちに去ってしまう激しい嵐ではなく、しとしとと静かに降りしきる冷たい雨で、窓からそれを眺めたフィガロは柄にもなく、それを誰かが泣いているようだと思った。曇天は彼の気分を高揚させることはなく、患者に向ける笑顔もいつもよりいっそう真実味を欠いていたかもしれない。
雨のせいか遠くからやってくる患者は少なかったが、午後に診療所を開ける頃になると、珍しい来客があった。ちりんちりんと鳴り響く入り口のベルの音を耳にして玄関に向かうと、開いた扉の向こうにいたのはこの近隣では比較的大きな農場を持っている男と、それから見たことのない、若い青年だった。
「すまねえな先生、他にいい日が見当たらなかったもんで」
雨合羽から水滴を滴らせながら、男は人の良さそうな顔のあちこちに皺を寄せてそう言った。何度かフィガロの診療所にも来たことのある男で、土地持ちではあるが善良な人物として認識していた。
「この子が今度から俺の持ってるあそこの小屋と畑の世話をすることになったんだよ。だから挨拶させておこうと思って」
そう言いながら男はずいと傍らの青年を前に押し出して、「これがフィガロ先生だよ」とその肩を叩いた。
大きな手で肩を叩かれた青年は哀れにも少々よろけそうになっていたが、恐らくそれは彼が両手に大きな籠を抱えていたからだった。籠には布の覆いがかけられていて、その隙間からみずみずしい林檎や蜜柑が肌を覗かせていた。男が果樹園を所有していたという話は聞いたことがないので、恐らく買ったものなのだろう。彼の前髪や上着からはぽたぽたと水滴が垂れていて、前髪を伝った水滴はやがて彼の睫毛にも足を延ばしてそのまま零れた。
奇妙な既視感と、何かがぽっかりと胸から抜け落ちたような感覚と、それからまつ毛から零れたその水滴を拭ってやるべきかどうかという考えが訪れたのは、ほぼ同時のことだったので、どれが最初に心に浮かんだのかはわからなかった。何故目の前の青年に対して心の奥がそんな風に動いたのかはわからなかった――見たところ取り立てて特別なところのない人間だった。
綺麗な顔立ちはしていたが、平凡と言えば平凡で、特別な地位にあるわけでもないようだった。ただ見開いた濃い色の目の奥がとても穏やかなのは印象に残った。ある一定の年齢を越えれば人の性質は顔立ちに出ると言うが、もしそれが正しいのならばこの青年は悪意の欠片も持たないような、心根の優しい人間なのだろうと思った。
「――すみません、お仕事中でお忙しいかとは思ったんですけど、ご挨拶をしておきたくて」
青年は少しばかり申し訳なさそうに、困ったような笑顔を浮かべて言った。
「忙しくはなかったから気にしなくていいよ――この雨だもの、薬を貰いに来る人もあんまりいないしさ。――最近引っ越してきたの?」
単純に好ましい相手だと思ったので、フィガロは愛想よく答えたが、そうすると青年の顔に浮かんだ躊躇いの色は少しばかり強くなった。
「ええ、まあ――この辺に住むようになったのはごく最近です」
「この子な、行き倒れだったんだよ」
歯に衣着せぬ表現でもって男はそう口を挟んだ。
「あんまりこう、昔のことなんかは覚えてねえみたいなんだ。それで先生に紹介しておいた方がいいと思ってな、いつ具合悪くなるかもわからねえし」
「記憶がないの?」
男のそれに負けず劣らず、なんの覆いもない言葉を投げかけてフィガロが首をかしげると、青年は暫く眉を寄せて迷った様子を見せた後に、「よくわかりません」と答えた。
「多分嫌なことでもあったんだろう――ちょっとまだ不安定なみたいで」
男は余程青年のことを気にかけているのか、まるで口添えでもしようとするようにフィガロにそう言った。南の国の住人がおせっかいなのは今に始まったことではないので驚きもしなかったが、ひょっとしてこの男には昔亡くした息子でもあっただろうかと考えをめぐらせた。
「まあ何かあったらよろしく頼むよ。――それと、うちから届け物がある時は今度からこの子が行くから」
よろしくお願いしますと頭を下げながら、青年は機会を見計らったように手元の籠を差し出した。引っ越しの挨拶と言ったところだろうか。大きな籠を受け取ると、水滴の滴る冷たい手に指先が触れた。傘も差さずにこれを運んで来たのかと思うと、タオルの一つでも貸してやらないのは可哀想なような気がした。
「――こんなにたくさん気を遣わなくても良かったのに。――それにしても随分雨に降られちゃってるけど、拭くものを貸そうか? 」
「あ、ありがとうございます――好きなものが入っているといいんですが」
洗い立てのタオルを取って来てやろうと中に引っ込んで、食卓に籠を降ろしたところで、籠の上から布巾が滑り落ちた。目に入って来たのは予想していたとおり色とりどりの果物で、中にはこの土地では季節外れな、高価な果物も混ざっていたが、ふとその中でもあるものが強く目を引いた。茶色くころころと赤や黄色の間を転がる、小さな栗の実だった。
戸棚から清潔なタオルを取って玄関に戻ると、青年は軒下で男と共に雨をしのぎながら、鈍色の空を見上げているところだった。その横顔は白く鈍った日の光に照らされて奇妙に青白く見えた。青年はフィガロの足音に気付くと、すぐに振り返って僅かに微笑んだ。
「――これ、どうぞ使って――ほら、あなたも」
フィガロがタオルを差し出すと、男の方は首を横に振った。
「ああ俺はいいよ。これを着てるから――お前が借りたらいい」
「だったらお言葉に甘えて――ありがとうございます」
男に促されるままに青年はタオルを受け取って、いささか遠慮がちにそれで身体を拭いていった。白いタオルに包まれてくしゃくしゃになった紺色の髪の毛が頬を縁どる様子はどこか色めいていて、思わずその様子に見入った。もとより美しいもの、初々しいものは好んで愛でたくなる性質ではあるが、この平凡な人間にそれを見出した自分にいささかながら驚いていた。
「俺の好きなもの、入ってたよ」
首の辺りにタオルを差し入れた青年に、フィガロはそう声をかけた。
「良く見つけたね。この辺りじゃこの時期にはあまり採れないと思ったけど」
「行商人から買ったんです」
青年は穏やかに微笑んで目を細めた。フィガロが贈り物を喜んだことを嬉しく思っている風に見えた。
「高価だったろう? ――いいんだよここは南の国なんだから、そこまで無理して見栄をはらなくても」
フィガロの言葉に青年は笑って首を横に振った。
「ご近所に見栄を張ったわけじゃなくて――俺がそうしたいと思ったからそうしたんですよ」
「どうして?」
青年の言葉に少々引っかかるところを覚えて、フィガロは思わずそう問いかけていた。疑問を投げかけられた方の青年の方はしばらくじっと考えるような風でフィガロをまじまじと見ていたが、やがて僅かに口の両端を上げて口を開いた。
「あなたを篭絡したいと思って」
その毒の感じられない顔立ちにそぐわない生々しい言葉遣いは、フィガロの耳に奇妙に残った。その言葉が耳の奥に残したしこりのようなものは、青年を初めて目にした時の違和感によく似ていた。
「――お医者さんのご近所さんなんて、よく顔を売っておいたほうが得ですから」
付け加えられたその言葉を一緒にしてみれば、それは少しばかり胡椒の効いた罪のない軽口、高価な贈り物をされたご近所の罪悪感を和らげるための親切な一言に聞こえた。けれどそれを口にした時の彼は、何とも形容し難い、降りしきる雨だれのような表情をしていたように見えた。
青年の名前は晶といって、彼の住む小さな家はフィガロの診療所から数百メートルほどのところにあった。南の国の郊外の基準で言えば、ご近所さんの部類に入る。土地持ちの男が言っていたようにそこは本来男のもので、晶はその家と周辺の畑の面倒を見ているようだった。
近所に早く馴染むようにという男の気遣いだったのか、晶は良く卵だの野菜だのを診療所まで届けに来た。貰えるものはありがたいのでそのまま貰っておいたが、そうするうちに言葉を交わす機会も増え、会えば立ち話をする仲になった。
初対面の時から好印象を抱いた相手のことである、ちょっとしたお茶の相手として、記憶について相談に乗ってやるなどと口実を付けて自宅に招くようになるまでに、そう時間はかからなかった。平和な南の国の生活は快適だが、時に時間を持て余すのだ――どこからともなくやってきた素性の知れない青年というのは、そういった日常に加えるには程よいスパイスだった。
晶は控えめかつ穏やかで、話しやすい青年だった。驚くべきことにフィガロが魔法使いだと知っても恐れることもなく、ただ淡々とその事実を受け入れていた。自分のことは多く語らず、フィガロの話を聞いているだけのことが多かったが、無口というわけではなかった。ただあまり自分の素性について話したいと思っていないように見えた。
ぽつりぽつりと、これまた雨だれのように少しずつ語られた僅かな情報から察するに、晶はどういう事情からか帰る場所を失い、放浪の身の上となっていたようだった。
ある時フィガロがいずれこの場所を後にして帰る場所を探すのかと聞いたところ、彼は静かに首を横に振った。
「帰れないことはわかっているので――しばらくはここに身を落ち着けようと思っています」
「南の国はいいところだからね、ゆっくりするにはいいと思うよ。でも、帰れないってどうしてそう思うの?」
「帰る方法がもうないからです」
フィガロが出してやったお茶のカップにゆっくりと口を付けて、晶はそう答えて微笑んだ。その表情は一瞬奇妙に年月を経たそれに見えた――彼のみずみずしい肌とは似合わぬ、古びてすり切れてしまったようなそれに。
「じゃあここに永住するつもり?」
「それはどうでしょう」
その問いにもまた曖昧な笑みで答えて、彼は視線を少しだけ遠くに彷徨わせた。
「――一年くらいはここに住もうかと思っています。その後のことは考えていないけれど」
「考えてないって、随分いい加減に生きてるなあ」
真面目な見た目に似合わず放浪癖でもあるのかと少々意外に思って眉を上げると、フィガロは頬杖と共に晶の顔を覗きこむように少しだけ身を乗り出した。
「将来の目処が立たないと人間は不安なものじゃない?そもそもどうして南の国に来ようと思ったの? ――行き倒れる前のことは全然覚えてない?」
一度好奇心の蓋を開ければ、疑問は堰を切ったように口から溢れ出した。矢継ぎ早に繰り出される質問に晶は苦笑して、「そうですね」と小さく答えてから言葉を選ぶようにゆっくりと瞬きをした。
「――話せないことも多いですけど、でもあなたに嘘はつきたくないですから。ここへ来たのは、大切な人の傍にいる為だったような気がします」
「好きな女の子でも追いかけて来たの?」
あどけないようにさえ見える年若い青年の口から、意外なほどに情念の籠った言葉が漏れ出たことに心臓がどきりと震えるのを感じながら、フィガロは重ねて尋ねた。
「そんなところです」
けれど晶は物事を曖昧にして風呂敷を畳んでしまおうとする時のあの言い方で返して、視線を床に落とした。
「大切な人の傍に最後までいられたらいいなと思っていたんです、そのことははっきり覚えています」
それきり彼はこの話はもうおしまいだとばかりに、長いまつ毛を伏せて黙ってしまった。
誰かを追いかけて来たとは言うものの、晶の周囲にそれらしき人物は誰も現れなかった。彼の生活の中に存在するのはむしろフィガロと、彼が引き合わせた魔法使いや近隣の人々くらいのもので、話に上った若い娘らしき姿は一向に見当たらなかった。
誰かさんを探しに行かなくていいのかとフィガロが揶揄い混じりに尋ねると、晶はいつも笑って首を横に振った。そしてフィガロの方もどことなく彼のその反応に安心していた。
穏やかで好きな時に遊び相手になってくれる友人が近くに住んでいるのは気分の悪いことではなかった。できれば自分がこの地に飽きてどこかへ居を移すことになるまで、彼がずっとそこにいればいいなどと身勝手なことを思った。
そして晶がやって来てから一つの季節が過ぎて、二通ほど、双子の魔法使いから報せが届いた。
この不思議な青年は今も南の国の小さな農園の片隅に住んでいる。
夢の中で俺は、一人自宅である診療所の裏手側の私室で、ぼんやりと座っていた。少し雑然とした部屋の中で、俺は丸一日何も食べていなくて、皺くちゃの白衣を来たまま、呆けた顔をしていた。全身から力が抜けてしまったような気がしていて、漏れて来たのは「あーあ」という不貞腐れたような声だけだった。
を落ち着きなく歩き回っていた。突然思い出せなくなったあの子の名前や顔を頭から引っ張り出そうとしては失敗し、苛立っていた。どんどん頭の中の思い出の映像が薄くなっていき、記憶が虫食いだらけになっていくことへの不快感に耐えながら、俺は苦い後悔とも戦っていた。
俺は部屋の中をうろうろしながら、「あの子を都合よく使うつもりなんかなかったよ」と何度も繰り返していた。誰もそこにいないのに、まるでその場にいる誰かに言い訳するような調子で繰り返すのだ。誰かにそう指摘され、責められたのだろうか、あるいは小指の先ほどに残っていた良心が生み出す呵責に耐え切れなくなったのだろうか、ともかく俺はひたすら言い訳を続けていた。多分、それを指摘したのがあの男の子本人ではないだろうことはわかる――、多分彼は何か自分から言うような人じゃない。
俺は椅子から立ったり座ったりしては、時折情けなく顔を覆ったりしていた。らしくもないと心の中で自分を馬鹿にしたように笑って、それは時折口まで漏れ出た。
夢の中の俺が脳内で悶々と考えていたのは、とにかく自分があの男の子を、賢者様を傷付けたのだということだった。俺は自分が賢者様を都合のいい抱き枕だかつっかえ棒だかみたいにしていた自覚があって、それを賢者様に気付かれてしまったことについて悔やんでいた。それについて賢者様が長い事どこか違和感を持っていて、恐らくは少し傷付いていて、結果的に俺のことは選んでくれずに、元の世界に戻ってしまったことについて、ふてくされていた。
もし手の届くところにいたならば、傷付けたことを謝罪することだってできただろう、けれどその相手もう世界のどこにもおらず、会うことも出来ず、次第に姿さえ忘れて行くのだ。そんなつもりじゃなかったんだよなんて、クズみたいな男がよく使う言い訳を垂れ流すこともできない――もう弁解の機会は与えられないのだ。相手はあとかたもなく消えてしまった。
もう何を言おうが届くことはないのに、相手はどこか手の届かない場所で生きているらしいという点は、喉の奥の後悔を恐ろしく苦いものにしていた。死別とはまた、少しだけ異なる奇妙な感覚だった。その子がちょっとだけ快適にしてくれた生活だけは、俺の手元に残っているという点も、より胸の痛みに貢献した。
もうちょっと丁寧に一緒の時間を過ごせば良かったのだろうかとか、そもそも身体の関係を持つべきではなかったのだろうかとか、思い返すことは色々あったが、行き着く結論は結局いつも同じだった。
彼ともう会うことはないのだ。もう一人でどこかへ消えてしまいたくなるような夜があっても、彼が手を引きに来てくれることはない。
どうせ数週間もすればいつものように忘れる、いつもと同じことだと、俺は今まで繰り返して来た無数の別れと同じように頭の中で処理しようとしていた。けれど、もう誰も俺を引き取めにきてくれないのだと思うと、ふいに恐ろしくなった。自分が冷たい石になる時、
けれど、俺の手を引きにきてくれるあの子はもういない。