お題「約束」「よく似合っている」
青色のスリーピーススーツを身にまとった男を前に、御剣は目尻を下げて感嘆の言葉をこぼした。試着室には気恥ずかしげな様子の男が一人、居心地悪そうに佇んでいる。
「僕は別に、7年前のスーツでも…」
「何腑抜けたことを言っている。キミももう部下を持つ立場なのだぞ。身なりにも気を使いたまえ」
「だったら尚更あのスーツでも良いだろ。既製品だけどぼくの一張羅だったんだぞ?そんな安物じゃなかったはずだし」
「金のことなら心配しなくて良いと言っているではないか」
「だからやめとこうって言ってるんだよぼくは」
しばし睨み合いが続き、試着室の男──成歩堂がため息を吐く。このままでは議論は平行線のまま、ここは自分が折れるしかないと思ったのだろう。今日も見事にとんがった頭をポリポリ搔きながら申し訳なさそうな様子で御剣を窺う。
「そこまで言うならもういいよ……スーツでもなんでも貰ってやるよ」
「フン。最初からそう言っているだろう。好意は素直に受け取っておくものだ」
御剣が従業員に話しかけると、従業員は試着室に入り扉を閉めた。しばらくすると体の採寸が終わったようで、着てきた服に着替え、くたびれた顔の成歩堂が現れる。慣れた様子で従業員と確認事項や会計などを済ませ、御剣は成歩堂と共にテーラーをあとにした。
「しかしまぁ、どうしていきなりスーツを奢ろうなんてことになったんだよ。多忙な検事局長サマがわざわざ時間まで作って」
成歩堂を家まで送り届ける車内で、成歩堂は疑問を口にした。というのも、昨夜いきなり今日の予定を聞かれ、特に何もないと答えたところ、今日になって理由もわからぬままにテーラーに連れて来られたのだ。
「キミが私との約束を果たしてくれるからだ」
「約束?」
「私との約束のために弁護士へ復帰してくれるのだろう?」
「ああ、そのことか……って、まだ弁護士じゃないぞぼく」
「私と約束した時点でそれは大した問題ではない」
「意味わかんないぞそれ」
大体、あんな立派なスーツまで作って落ちたら笑い話にもならないじゃないか……と隣でブツブツと不満を垂れる成歩堂を尻目に、御剣はどこか確信めいた様子で笑みを浮かべた。
成歩堂は一度決めたことは必ずやり遂げる男だ。彼が「弁護士に復帰する」と約束した時点でそれは確定された未来なのだ。御剣はそれを身をもって知っている。
「いつまでもそのような格好では部下に示しがつかん。馬子にも衣装、形から入ったほうが気合も入るのではないかね」
「失礼なヤツだな……まぁでも、それもそうか。ありがとう御剣」
納得したのか、成歩堂は背もたれに体重をかけてぼんやりと窓の外を眺め始める。それをちらりと見やると御剣はぼそりと呟いた。
「こちらこそ、ありがとう」
返事はなかった。しかし、御剣は気にする素振りもなく視線を正面に戻した。
成歩堂はここ数年見ることの叶わなかった穏やかな笑顔で景色を眺めていた。それで十分だった。御剣にはそれが、他のどんな言葉よりも嬉しかった。
数ヶ月後には成歩堂は再び弁護席に立っていることだろう。そのときこの男が着ているのは自分が見立てたスーツなのだ。そんな明るい未来を想像しながら、御剣は2人の時間を惜しむようにいつも以上に丁寧な運転に努めるのだった。