夏の日に嫉妬のようなものをする美園の話 ――最近、遥が気に入っているものがある。
それはつい先日のこと。
スタジオ練習を終えてジャイロアクシアの面々と別れた礼音は、少し服でも見ようかと最寄りの商業施設に足を踏み入れた。しかし思うようなものが見つからず、館内をうろつくことしばらく。
視界に映り込んだ雑貨店に、ソレが置いてあった。
礼音自身はそれほど興味のないものだったが、ふと頭の中に年下の恋人の姿が思い浮かんだ。
近頃、遥はいつにも増して気怠そうにしている。夏になると毎年のことだが、気温が高くなるにつれて食欲を落として体調を崩しやすくなる。いっしょに時間を過ごす場所も、もっぱら礼音がひとり暮らしをしているアパートの自室。ぐったりとベッドで横になっている姿も記憶に新しい。
そんなことを思い出すと、ソレに関心が湧いた。
もしかすると、遥にとって気休め程度にはなるかもしれない。根本的な解決にはならないが、体調を崩している遥をただ見ているだけというのも落ち着かない。
そう考えてソレを買って帰ったのが、一週間ほど前のこと。
「そろそろ寝るか」
今夜も泊まりに来ていた遥に声をかけると、スマフォを眺めていた視線が礼音に向けられた。そのまま、ん、と小さく頷いて、遥がその場に立ち上がる。
ここ数日は温かいものを食べさせたり、アイスばかり食べないよう注意したりと多少喧嘩のようなものをしながら過ごしていた。遥の夏バテの原因は、その大方が食生活だ。今年こそはなんとかしようと思い立った甲斐あって、今日は少し顔色がいい。
それはいい。
それはいいのだが。
「電気、消すぞ」
ダブルサイズのベッド。
その上に腰を落ち着けて、礼音は壁側に目を向ける。
すでに横になっている遥の両腕に、今夜も収まっているソレがいた。
水色と白のペンギン――の抱き枕。一週間ほど前に美園が雑貨店で見つけた、接触冷感素材のペンギンだ。最近では珍しいものでもないが、触れるとひんやり心地好いぬいぐるみのようなもので、遥が少しは快適に眠れるだろうかと買って帰った。
初めは遥のリアクションも薄かったが、実際に抱いて眠ってみると悪くなかったらしい。翌日からの泊まりの夜は、眠っているペンギンを抱いて遥が眠っている。
気に入ってもらえたようで、嬉しい気持ちも当然ある。
それはもちろんなのだが、ペンギンを持ち帰ったその日から、就寝時に遥がくっついてこなくなった。
夏場は暑いといっても、基本的に冷房をかけて就寝している。眠る時は多少距離を置いていても、ふと目覚めると遥の寝顔がすぐ傍にあったということも珍しくなかった。もしくは、そろそろ寝ようかとベッドに横になった時点で、ごそごそと近寄ってくることもよくある話だった。
それが抱き枕を買ったことでぴたりとなくなってしまい、薄ら寂しい。
そんなことを考えて遥とペンギンを眺めていると、訝し気な瞳が礼音を見上げた。
「消さねぇの?」
「……いや、消す」
これではまるで、自分が買ってきた抱き枕に嫉妬でもしているようだ。
それはさすがに格好がつかない。遥が気に入って使ってくれているなら、それでいいと喜ぶべきだろうに。
そう自分を納得させながら、リモコンを手に取る。それと同時に遥がその場に起き上がった。照明を消そうとしている礼音の腕を掴み、眉を寄せて口を開く。
「らしくねぇな。言いたいことがあるなら言えよ」
そう言ってじとりと見つめられると、誤魔化そうという気も失せる。
そもそも礼音自身、隠し事が得意な質ではない。恰好がつかないとは心底思うが、このままひとりで悶々としていても、遥の不審を買うだけだろう。下手に時間を置いてしまうより、今言ってしまった方がいいのかもしれない。
打ち明けるにしては、本当に恥ずかしい話だが。
「……笑うなよ」
そんな風に一応前置きをしてから、ここ数日考えていたことを遥に説明した。
直後、珍しい遥の笑い声が室内に響いた。可笑しそうに目尻を緩めている表情は可愛いのだが、今はそれよりも気恥ずかしさが上回る。ぐっと顔に熱が灯るのを感じつつ「だから笑うなって言ったんだっ」と、思わず声を上げた。
「笑うに決まってんだろ」
明らかに楽しげな様子で、遥がにまにまと見つめてくる。
そのまま掴んでいた礼音の腕をするりと撫でると、遥がゆっくりと体を近付けてきた。どことなく艶っぽいものが滲んでいる笑みは、何度向けられても慣れが来ない。体の動きがぎこちなくなる。好きな相手のことなのだから、仕方がないと思いたい。
少しずつ悪戯っぽい色の瞳が目の前に迫ってくる傍ら、ペンギンの抱き枕だけが呑気に目を閉じていた。
「あんたとしかできないことの方が、よっぽど多いけどな」
遥は呟くような声でそう言うと、そっと触れるように口付けた。
すぐに離れていった唇の感触に、礼音はううとまた違う恥ずかしさを覚えて口元を手で覆う。確かに、遥の言うことはもっともだ。抱き枕に取られてしまったことといえば、眠る時の遥のほんのひとつの動作だけ。そう思うと、自分の感情がひどくこども染みているように思える。
そうして口を噤んでいる礼音を眺めて、遥は満足そうに目元を緩めていた。
「ぬいぐるみなんかに嫉妬してんの、だっせぇ」
「うるさいな……」
揶揄う遥の口調は、心底機嫌が良さそうだった。
ださいと言われても、寂しいものは寂しかったのだ。遥が泊まりに来るようになってから、この部屋で過ごす時間はお互いだけのものだったから。まさかそれを自分が買ってきたペンギンに邪魔されるなんて、少しも思っていなかった。
ペンギンからすれば、とんだ言いがかりだろうが。
それにしても、遥が楽しそうがにまにまと笑っているので、やられっぱなしというのも気分が良くない。
「おまえだって、ぬいぐるみって柄じゃないだろ」
買ってきておいてなんだが、本当に遥が抱き枕を抱き枕として使うとは思っていなかった。せいぜい背もたれか枕代わりになるだろうと思っていたのに、案外まっとうな使い方をされて驚いたくらいだ。
そう思わず言い返すと、次は遥がむっと眉を寄せる。
「それはあんたが買ってきたから――」
そんなことをほとんど言ってしまってから、あっと気が付いたように口を噤む。そのままじわじわと顔を赤らめて、不機嫌そうにそっぽを向いた。
その様子を見て、そうかとようやく理解した。遥がペンギンの抱き枕を毎晩使っていたのは、ただただ使い心地が良かったからというだけではなかったらしい。そうして気付いてしまうと、途端に表情が緩んでしまう。
「俺が買ってきたものだから、大事にしてくれてたんだな」
「……ハズい言い方すんな」
そう呟くと、遥はペンギンを掴んで、礼音に背を向け横になった。
恥ずかしいというなら、それよりも気恥ずかしいことを自分で言っていたと思うのだが。自分が意図していないところで好意的な言葉を口にすると、どうにも照れてしまうらしい。
可愛いなと、ほんのりと赤い遥の耳元をゆっくり撫でる。同時に、くぐもったような声がんっと微かに聞こえてきた。抱き枕を抱える腕にも、僅かに力が籠って見える。好きだとか可愛いとか、そういう気持ちが積もり積もると、どうしてもその体温をすぐ傍で感じたいと思ってしまう。
それならばと、ふと気が付いた。
リモコンで照明を落とし、遥と同じ方向を向いてベッドに横たわる。そのまま両腕を伸ばして、丸まっている背中をぎゅっと抱きすくめてみる。すると、心地好い体温と慣れた石鹸の匂いがした。
「……なん、だよ」
「イヤか?」
ぎこちない声で尋ねてくる遥に、そんな言葉を返す。
すぐに「イヤじゃねぇけど……」と、語尾が消え入りそうな声が聞こえてきた。
初めからこうしていればよかったのだ。遥から来ないなら、自分から近づいていけば良いだけの話だったのに。いつも遥から近寄ってくれるからと、そんなことを無意識のうちに思っていたのかもしれない。
「……好きに、すれば」
そうしてぽつりと呟かれた言葉が、堪らなく嬉しかった。
(END)