悪食の匣今日はね、先生を、殺しちゃった。
理由は……特になくて。ただあの先生ならあんまり抵抗しないで殺されてくれるかもって思って、実際そうだった。僕の背丈じゃ、最初は腹にしか刺せないから、まずは脇腹から刺して、先生が倒れたらあとはもう一生懸命、ぐさぐさやった。疲れちゃったけど、おかげで「これ」が手に入ったんだから、苦労の甲斐があったよね。
多目的室の掃除当番は楽でいい。何せ、教室と違ってそこまで汚れてないし、先生もいないから、さっさか掃いて適当に時間を潰しておしまい、でいい。僕はその日も掃除という名目の暇つぶしのために、掃除用具入れを開けて、「匣」を見つけた。
「なんだこれ? オルゴール?」
ホウキやちりとりと一緒に木箱が置かれていた。大きさは大体B5のノートと同じくらい。教科書なら5、6冊は入りそうな厚みがあった。
誰がいつそんなものを置いたのか知らないが、僕はそれを拾い上げて、留め具を外した。
期待に反して、中身は空っぽだった。仕切りもなく、小物を入れるにしても不便そうな箱。僕はがっかりして、木箱を元に戻した。大方、捨てるにしてもそこそこ大きいから、処理に困った誰かがここに放置したんだろう、と適当に当たりをつけ、箱のことは意中から消えてしまった。
だけど、時は進んで放課後。僕は再び多目的室にやってきた。もちろん、掃除なんかのためじゃない。ちょっと慌てていて、偶然あの箱を思い出したからだ。
友達から借りた本を、汚してしまったのだ。わざとじゃない。本を持ったままふざけていて、運悪く水たまりに落としてしまっただけ。ほとんど新品同様だった本は泥まみれで見る影もない。新しいものを買って返せば、弁償は出来る。だが「くれぐれも汚すな」と釘を刺されていた手前、水たまりに落としたから新品を買ったよ、なんて言うのはちょっと気まずかった。出来るなら、汚してしまった本はなかったことにしたい。
そんなことを考えていたとき、例の箱のことが頭をよぎった。仕切りもないあの箱なら、濡れた本を入れて隠すにはちょうどいい。
誰にも見つからずに多目的室につき、濡れた本を箱に収めると、僕はようやく人心地つけた。これでまずバレることはない。今週の掃除当番は僕で、掃除当番以外が多目的室の掃除用具入れを開けることはまずない。
僕は来たときと同じように人目を気にしながら、そそくさと校舎をあとにし、書店を目指して走った。
翌日、不思議なことが起こった。
僕は何食わぬ顔で新品の本を友達に渡しながら、「面白かったよ」と笑みを作る。
「え? オレ、お前に本なんか貸したっけ?」
僕は困惑で言葉に詰まった。1ヶ月も2ヶ月も前の話じゃない。本を借りたのは昨日で、もっと正確に言うなら15時間前だ。さすがに貸したことを忘れるはずがない。
「あ、でも、それオレも読みたかったんだよな〜! 借りてもいい?」
「う、うん……」
友達の注意は食い違った会話よりも本に向けられており、僕もそれに従った。とにかく丸く納まったのだと自分に言い聞かせるが、友達が「本を貸したこと」どころか「自分で本を購入して読んだ」ことさえ忘れている様子なのが、どうにも不気味で授業が始まってもさっぱり頭に入らなかった。
掃除の時間になると僕は平静を装いながらも早足で多目的室に向かった。高鳴る心音に急かされて、多目的室に着くまでの短い足労でも額に汗が浮いた。顔が熱いのに、背筋は冷えるばかりで、暑いのか寒いのかもよくわからない。
「匣」は前日、僕が置いたのと寸分違わず、そのままになっていた。おそるおそる手を伸ばし、留め具を外す。
「ない……」
確かに濡れた本を入れたはずなのに、水のシミも、泥の汚れも箱の中には存在しなかった。間違っているのはお前の記憶の方だ、とでも言わんばかりに現実から僕の過ちが消えていた。
「ふっ……くく……あははは!」
気づくと、僕は笑っていた。胸中から嘘のように恐怖心が消えていた。それどころか奇妙なまでに興奮していて、麻薬的な高揚感に陶酔していた。
こうして、僕は「悪食の匣」を手に入れたのだ。
その日の放課後は割れた窓の破片を入れた。次の日は壊れたスマホ、盗んだ財布に、潰れたカエル。
そしてさらに次の日、つまり今日。僕は「これ」を手に入れた。
殺すの自体は難しくなかったけど、切り離すのは至難の業だった。肉は切れても、骨を断つのは一苦労で、蹴ったり踏んだり叩いたり、とにかく必死だった。
放課後の教壇が、夕暮れよりもなお赤い。白衣もすっかり血を吸って、もはや白い部分のほうが少ないくらいだった。
僕はずたずたになった右手首を拾い上げて、恍惚と眺めていた。血濡れの黒い手袋はつけたままにしておこう。その方が、先生らしいから。
「ごめんね、先生。でも明日にはちゃんと生き返るからね、大丈夫だよ」
僕の言葉を聞いているのは、目ざとくやってきて、乾いた瞳の上を這っている蝿だけだった。
翌日、先生は当たり前にそこにいて、「おはようございます」と生徒たちに声をかけていた。僕も素知らぬ顔で挨拶を返す。今日は誰にしようかなと教室を見渡しながら。
もう放課後や掃除の時間を待たず、昼休みに多目的室に行くようになっていた。ポケットサイズの悪事を携えて、まるで子猫に餌でも与えに行くかのように。
今日は金曜日で掃除当番は最後の日だ。今日にでも持ち帰ってしまおうと考えながらいつものように「匣」を掃除用具入れにしまった。背後から声をかけられたのはその時だ。
「ここにいたんだね」
「……ウラモン」
赤い瞳が逆光の中で光っているように見えた。男性としては少し高めのかすれた声が多目的室に響く。
「殺されたのがボクで良かったよ。おかげで気づくことができた」
そう言って嘆息する彼を見て、僕の脳は沸騰したように熱くなっていた。どうして覚えてるんだ、とかそんなことはどうでもよかった。昨日と同じものを入れるのは芸がないけど、仕方がない。殺さなくちゃ、なかったことにしなくちゃ。
ポケットに忍ばせたナイフに手を伸ばしたとき、背後からガシャンと金属質な音がした。にわかに振り返ると、大口を開けた鉄の箱が僕に向かって倒れてきていた。逃げる間もなく、飲み込まれ……。
「危ない!」
先生の声と同時に、僕は床を転がった。先生に突き飛ばされたのだ。
わけがわからず先生を見ると、バタバタと暴れる掃除用具入れを必死に押さえつけていた。
「ウラモン先生……! 何その手!?」
先生の右手が白く光っていた。どうやらその右手の力で掃除用具入れを抑えつけてるらしい。
先生は掃除用具入れを引きずり出すと、横倒しにして、体重を乗せて戸を押さえつけた。暴れても無駄と悟ったのか、静かになった掃除用具入れは横倒しだと棺桶のようだ。
先生は息をつくと、左手で汗を拭った。
「このまま強制送還といきたいところだけど……」
つぶやきながら、先生は僕を見た。瞳が半月のように細められる。
「その『記憶』はなかったことにしたほうがいいね」
伸ばされた手に視界を塞がれ、僕の意識はスイッチが切られるようにブラックアウトした。
月曜日。
給食が終わると、掃除の時間だ。今週は廊下係。濡らした雑巾を絞っていると、手ぶらで多目的室に向かうクラスメイトが見えた。僕は慌てて声をかける。
「おーい、ホウキとちりとりを忘れてるよ! 多目的室には掃除用具入れなんかないんだから!」