黒き森の赤き女じめじめとした暗い森に嫌でも目立つ大きな花が咲くのを知っているだろうか。
その森はどんな真夏の暑い日差しさえ遮ってしまうほど木々が茂り、一歩足を踏み入れれば嫌な湿度が肌にまとわりつく。
そして、その花はそんな暗い森の中でも浮き出て見えるほどの鮮やかな赤い花で、大柄な大人が両手を広げても足りないほどの大きさがある。
その花の異常さは大きさだけではない。
牡丹ようなの花の中心には、青緑色の肌をした若い女性の上半身が”生えて”いるのだ。
そう、それは人ではない。その瞳は青白い色をしていて、暗闇ではよく光る。
爪に見えるそれは長く、鋭い。
一度その植物の目に捕らわれれば、二度と森の外に出られないとも伝えられている。
僕は一度、それを見たことがある。
いや、会ってしまったと言ったほうが正しいかもしれない。
あれはまだ僕も小さかった頃。両親が仕事で家にいない時、いつも一人で遊んでいた。
そんなある日のこと。
僕は家の近くにある山の中へと入って行く小さな道を見つけた。その先に何があるのか確かめたくて、幼いながらの冒険心がくすぐられたんだと思う。
けれど今思えば、あそこは近づいてはいけない場所だったのだろう。あの時は好奇心が勝った。
しかし、いくら歩いても周りは同じ景色。自分がどの方向から来たかもわからなくなり始めた頃に、その植物は姿を現した。
「こんなところに……なんで?」
目の前にあるのは明らかに人の背丈より大きい植物だ。
大きくて真っ赤な赤い花。
今までに嗅いだことがないくらい、とてつもなく甘い香りがする。
それも、ただの花ではなく木と言ってもいいほど大きく育っているものだ。
それが何故この森の中にいるかなど分かるはずもなく、僕はしばらく呆然としていたように思う。
そして、ふとその植物を見上げているとあることに気づいた。
「……うそ……」
その花の中心から、女性がこちらを覗き込んでいた。
その女性の身体からは一筋の水のようなものが流れていて、地面へポタリポタリと落ちていた。
しかもそれはどうやら雨なんかではないようで、落ちた先からすぐに乾いているように見えた。
…………泣いていたんだ。
彼女は確かに涙を流し続けていた。
ただそこにあるだけの巨大な赤い花のようでありながら、女性の形をしたその人はまるで生きているかのように悲しそうな表情をしていた。
それからというもの。僕は何度もそこの森へと通った。
彼女がどうして泣いているのか気になった。何を思って涙を流すのかを知りたかった。
けれど結局、その女性は一言たりとも喋ることなかった。
いつもは少し離れたところから眺めているだけだったが、ある日、僕は彼女に触れたくなってみた。
すると僕の手が届く距離まで近づいた瞬間に急に動き出して襲いかかってきたのだ。
「―――ッ!?」
あまりの出来事に声も出ず固まってしまう。だが幸いなことにも彼女の攻撃はすぐに止まった。
理由は簡単だ。僕の手が植物の蔓によって捕らえられ、そのまま空中に浮かされてしまったからだ。
僕は怖くて動けないながらも彼女を見つめると、彼女は何か言いたげな様子だった。
それでもやはり何も言葉にしてくれなかったが。
「……っ!……ぁ!」
口の動きからしておそらくは「ごめんなさい」と言っているような気がした。
「なんで謝るの?悪いことなんてしていないのに。君はただそこに咲いていただけなのに……」
思わず口からこぼれ出たその言葉を聞いていた彼女は驚いて目を大きく開き、そしてその後優しく微笑んでくれた。
その時から僕は毎日のように彼女に会いに行くようになった。
僕が来ると必ず嬉しそうにしてくれる彼女にだんだんと惹かれていき、いつの間にか恋をしてしまっていたようだ。
彼女と会うたびに話すことがどんどん増えていった。それは他愛もない日常のことばかりだけど、彼女と一緒ならどんなことでも楽しく感じられた。
そんな日々がいつまでも続けばいいと思っていた矢先のことだった。
次の日から父さんや母さんには森へ行くことを禁止されてしまった。
それじゃあ会えないじゃないと思った僕は両親の目を盗んでいくために
学校をズル休みしてこっそり行くことにした。
けれど行ってみるとそこは前と違っていた。
あの時の暗い雰囲気とは似ても似つかない、鬱蒼とした森には眩しい太陽の光が降り注いでいたのだ。
それに何より彼女の姿が見えない。何本かの木が積まれ、重機が何台か停められていた。
その変化に疑問を持ちながら奥へ進んでいくと、やがてとある場所に着いた。……そこには大きな真っ赤な花があった。
ただしそれはいつもの森の奥深くにあったわけではなく、僕がよく遊んでいた近くの小さな丘の上でひっそりとその花を咲かせていた。
それを見た途端、僕はいても立ってもいられなくなって急いでそこへ走った。
丘の上でその花を見上げる。その中心には一人の美しい女性がこちらを向いて座っていた。
「やっぱり……また会えたね……」
そう言うと、彼女は一瞬驚いた顔をしてからすぐに優しい笑顔で返してくれた。
僕はそれがとても嬉しくてたまらなくてつい泣き出しそうになるのを我慢しながら、ゆっくりと彼女を抱きしめた。
甘美な香りが鼻をくすぐる。
…ああ、やっと分かった。この胸の中の感情は……。
あの時言えなかった言葉を伝えるため、もう一度会いに来てよかった。
僕は今、間違いなく幸せを感じられているのだから。
それからしばらくして森に開発の手が入り、あの丘も住宅地となった。
当然、彼女の姿が見えなくなった。
もう会えないのかもしれないと思うだけで苦しくなるけど、いつか会えるという確信めいたものを感じていた。
だって大人になった僕は今もまだこんなに幸せなんだ。
これから先、辛いことや悲しいこともあるだろう。
けれど彼女がいると思うだけでも僕は耐えられる。
僕は今日も明日も明後日もその先の未来でも、君のことをずっと想い続けるよ。
―――――
あれからどれくらい時間が経っただろうか。私は今、とある森の中にある小さな小屋に住んでいる。
ここには窓がないせいで昼間も夜も分からない。
けれど、あの人のことだけは鮮明に思い出せる。
彼が私を愛してくれたあの日々のことも全て。
あれは夢ではなかった。彼は確かにあの場所にいた。
私があの森の植物だと知ったうえで、あの場所から離れられないと理解したうえで、 それでも私の側にいたいと強く願ってくれた。
「ありがとう。あなたのおかげで私の心はまだ生きています」
あの日以来、雨が降ったことはない。
一日中同じ環境であり続けるこの小屋の中に捕らわれて、なお、彼が来ることを待ちわびている。
そして、ようやく扉が開かれた。
「ああ、やっと会えたんだね」
「はい、おかえりなさい」
こうして私は再び彼のものになる。
永遠に続く二人の時間を、今は心の底から楽しんでいこうと思うのであった。
―――「さあ、おいで。愛しのマイ・スイートバニラ」――
*あとがき* 最後まで読んでいただき本当にありがとうございます!m(_ _)m 少しでも面白いと思っていただけたら★やレビューをしていただけるとモチベになります。
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