4.がぶりあれはそう、出来心だった。
色々と忙しかったんだ、その言い訳が通るには難しいだろう。
寝坊した、電車を乗り過ごした、食事を食べ損ねた、書類を書き損じた。
それらの理由であれば…一般的には通ったかもしれない。
久々の自由登校で見つけた炭治郎は、一時間目から登校したわけではなかったようで耳には目立つピアスが揺れたままだ。
トミセンに追いかけられても知らないぞ、なんてあちらこちらから声をかけられては「毎日足腰は鍛えてますんで!」と返事をしている。
その後姿をみつけた義勇は、いつもよりは破棄なくフラフラとした足取りで追いかけていった。
そんな速さでは追いつけるわけもなく、階段のある角を曲がった所で少し歩速を上げる。
角にたどり着いたときには、踊り場から階段を降りる横顔が一瞬だけ見えたが降り続けている速さには義勇の速さは届かないようだった。
義勇が踊り場にたどり着いた頃にはすでに部室棟への廊下のある先へ曲がっていくのが見えた。
「たん…かまど」
いつものハリのある声とは打って変わって、とても静かな…ともすれば、実家のパン屋や外で『義勇さん』として聞く時の声量だったに違いなかったそれを拾ったのは、やはり炭治郎だった。
「え、冨岡先生?」
驚き振り向く炭治郎は、いつもならよくきく聞く鼻ですら義勇を察知することができなかったらしい。
「びっくりした、全然気づきませんで…」
詫びる必要もないのに、眉根を寄せて早足で駆けつけてくれる炭治郎はそこでやっと気づいた。
「先生、めっちゃくちゃ疲れてますね」
眼の前に立ってやっと、うっすらと『疲弊』の匂いがしたようだ。
いつでも匂いの薄い義勇は、今までだって抜き足忍び足も合わせてこそっと傍に立ってはピアスを徴収してきた。
今日は、その薄さが自発的ではなく随分と疲弊しすぎてしまい込んでいるものだったらしい。
「疲れて…るかも、しれない」
卒業を目前に、体を動かしたい3年生に付き合って道場へ赴いたり、期末テストの作成や受験生のケア、やることは多岐にわたる。
その3年生の一人である炭治郎は、登校日を選んで登校しているのは知っていたけれど今週の義勇は2,3日『も』炭治郎に会えていなかった。
「そういう時は、小さなご褒美が助けになるんですよ」
そう言いながら、下を向いてゴソゴソとポケットを漁っているようだ。
実家のパン屋に行ってもタイミングが悪く店先には居ないし、登校したってご褒美もない。
仕事は毎日積まれて行って…そう、疲れていたんだろう。褒美だって欲しい。
その下を向いたせいであらわになったうなじが、妙に白く艶めかしく見えた。
見えてしまった。
義勇は喉を鳴らす音が、耳の奥で響いた気がした。
「あ、あったあった。飴ちゃん、ありました!」
がばりと顔を上げた炭治郎の喉元も、育ってきた喉仏や肌の張りも全部。
美味しそうだな、と思った時には「ひぃいやあああ!」という叫び声で我に返った時だった。
涙目で首筋を抑える炭治郎は、見る間に顔を真っ赤に熟らせていく。
「なん、え、な…え?」
流石の炭治郎も声が出せないようで、2,3歩後ろに下がった後へたりと廊下に座り込んでしまった。
「た、たんじ…」
驚いた義勇は、自分が何をしたかも理解していないまま、それでも目の前にへたり込む炭治郎へ手を貸そうとした所でものすごい勢いで首を高速で振る炭治郎にたじろいだ。
「だめ、だめ!義勇さん、今おかしいから、だめ!」
いつもなら学校だ、と窘めたい所だが随分と恐慌状態に陥っているようだ。
「ええと、ごめん」
美味しそうだと思った時には、自分は何をしただろうか。
義勇はその瞬間を反芻しようとする。
かっちりと着込まれたYシャツに、然りと締められたネクタイのその上に見えた首筋を、思い出す。
でもここは学校だ。
ましてや自分は教師で、炭治郎は生徒だ。
触れることはまかりならん。
手で触れなければいいだろうか。
そう、そうして義勇はここぞとばかりの悪手を取ったのだった。
それから3日、土曜の夕方にパンを買いに行った際にもまだ、義勇は避けられていた。
あの、炭治郎にである。
親友や弟妹から見れば、可愛らしい反抗期程度にしか見えないようだ。
レジに立つ炭治郎を見つけた義勇は、パンより先にレジへと足を向けた。
その時、炭治郎は至って普通だったのだ。
「義勇さん、いらっしゃいませ!」
首筋に貼られた、大判の絆創膏以外は、いつも通りだった。
「こんにちは。ごめん、まだ痛むか?」
そう言って首筋へ手を伸ばした義勇を見るやいなや、また顔を真っ赤にして2,3歩後ろに下がっていく。
「だめって、言ったでしょ!」
あれから炭治郎は、『ぎゆうさん』に会うたび真っ赤になって極端に距離を置こうとする。
もちろん、物理的距離だがそう遠くもなく、炭治郎の中ではまた別に葛藤を抱えているのだろう。
手を添えるでもなく、無言でダイレクトに首筋をガブッとかじりつかれたのだ。
幼い頃に、可愛い可愛いと頬を擦り寄せつむじにキスを贈られていたのとはわけが違う。
「かじり虫の義勇さんは、当分触っちゃだめです」
別に痛みはなかったとは伝えてあるのだ。
血だって滲んでない、そんな歯型も残っているわけでもない。
それでも、硬い歯とぬるりと這ったなにかを思い出しそうで、絆創膏で封じている気になっているのだ。
今はまだ、この正体に気づいてはいけない。それだけはわかるので。
「心配なだけだ、痛みは出てないか?」
それなのに、学校と随分と差が激しい幼馴染は、心から心配そうに顔を覗き込んでくるから困ったものだ。
「痛くない、ないです、だいじょーぶ」
うまく回らない口に、更に顔に熱が集まるのを感じてもう・・・
「これは戦略的撤退です!!」
だなんて叫んで、奥の釜へと逃げ込んでしまう始末。
義勇はどう挽回したらいいのかと、額を抑えて俯いた。
いつもなら一文字に引き締められたその口元は歪んでいて、知るものが見ればとても楽しそうに映っただろう。
「ああ本当に、どうしてやろうか」
ーーー
お題:疲れていた日、ばったりあった炭の首筋が酷く美味しそうに見えて、無言でガブッとかじりついてしまった義。以来、炭に常時警戒されるようになってしまい、事態をどう挽回しようかと頭を悩ませている