縹牡丹、声患い それの捕獲には随分手を焼いたと聞いた。俊敏さ、頑強さ、獰猛さ、どれをとっても他の追随を許さない個体であったと。
「掃除、頼まれてくれない?」
嗅ぎ回らなければラボから漏れる情報などその程度のもの。ささやかな噂話として、記憶の隅へ隅へと追いやられていく。本来であれば。
「何故君がそんなことを私に頼む」
「そんなに警戒しなくてもいいでしょ、課長さん」
私を海洋試験開発研究所、通称ラボへ呼び出した年若い男は、その背を向けて歩き始めた。一見代わり映えのない廊下を階層を変えながら歩き続ける。ルートを頭に入れながら、目的地は厳重に管理された施設の中でも特に秘匿された場所なのだろうと考える。しかし目隠しも拘束もされずに通されるのは初めてのことだった。内調の海洋テロ情報集約室にも顔が利くだけあって、私を無造作に入館させる権限も持っているらしい。
さて、彼は『掃除』を頼みたいと言った。いわゆる邪魔物の排除、暗殺、といったことだ。我々を管轄する人間をどう言いくるめたのかは知らない。だが『内調の人間が暗殺の依頼をした』などというスキャンダルを、この男が警察組織に掴ませたとも思えない。つまり密葬課への、ひいては警察組織への依頼というより、私自身が個人的にこの男へ貸し出された、という方が恐らく起きていることとしては正しい。彼と仕事をするのは初めてではないが、彼の口から掃除という単語が出てきたのは初めてのことだった。
「掃除というのは、最近捕まえた海獣のことかい」
「勘がいいね」
「いいや、ラボの奥まで連れてこられることはあまりなくてね。理由はそれだけだ」
隅へ隅へと追いやられていくはずだった噂話を引っ張り出す。貴重な個体であったはずなのに、もう解剖することにしたのだろうか。これまでも人と海獣とに区別をつけず、必要に応じてその命を奪ってきた。ラボに呼び出されて海獣と手合わせしたことも何度かある。それは海獣の能力を測る為であったり、対象に言うことを聞かせる為であったり、はたまた始末したいが薬物漬けで殺すよりは最小限の外傷で死んでもらった方が後の研究に差し障りがない…などという理由であるときもあったか。相手は人間を襲い慣れた海獣ばかりであったが、水中でなければそう手こずりはしなかった。薬も銃も効かないなどというのは稀だが、今回はその類いだろうか。考えながら腹が減ったなとポケットの中を探ったところで、目的地に辿り着いてしまったらしい。
「どうぞ、真鍋さん」
「……どうも、蜂名さん」
やけに恭しく開けられたドアをくぐり、さてどんなものかと視線を上げる。やや薄暗く設定された赤黒い照明と黒を基調とした室内は、捕らえられた海獣の生態に合わせたものだろう。ラボなのだから一人くらい研究者でもいそうなものだが、人の気配はなくただただ静かな水の音と、何かの設備が微かに唸る音があるだけだった。そして部屋のほぼ中央に鎮座しているこれが、件の海獣に用意された住みかなのだろうが…
「………なんだこれは」
それは見上げるほど巨大な水槽だった。巨大であることそれ自体はここでは珍しいことではない。もっと大きな水槽が見たければ一般的な水族館にいけばいくらでも…そんなサイズだ。問題は、水槽を満たす水が酷く濁っていることだった。白とも灰色とも言い難い、まるで煙のような濁り。ああ、辛うじて中で何かが蠢いているのはわかるが……あれがその海獣とやらだろうか。横にいる男へ問おうと顔を向ければ、いつの間にやらその手にはバケツにブラシにスポンジに、洗剤……?
「……ええと」
「ロッカーはあっち、着替えもそこにある。ロッカールームの横が仮眠室。見ればわかるけど最低限のものしか置いてない。ここへの持ち込みも制限があるから、面倒だけど申請書出してからにするか、バレないように持ち込むこと。一応生き物の世話するわけだからマニュアルには目を通して。全部そこに置いてあるから。あとは本人と相談しながらやって。じゃ、はい」
「…………」
突き出された道具達を受け取ったが最後、さっさと帰っていきそうな勢いを感じ、すぐには受け取らない。『そこ』と顎でしゃくられた場所を見れば背幅が十センチ程ありそうなファイルがひとつ、テーブルの上に寝そべっている。背幅に比べて少なすぎる中身は、この海獣についてわかっていることの少なさの証明だろうか。あるいは私には情報が伏せられているだけか…。
「水槽の、掃除をしろという話か?」
「掃除を頼むって言ったはずだけど」
まったくの無表情に見えるが、言葉尻からはこちらをおちょくる意図を微かに感じる。私が勘違いしてついてきていることをわかって黙っていたのだろう。閉口する私を見て蜂名直器は「殺しちゃダメだよ」と付け加える。確信犯だ。
「何故専門家に頼まない?素人の私に任せたら、その気はなくとも個体を傷つけたり殺したりしてしまうかもしれない。貴重なサンプルなんじゃなかったかい」
「素人のうっかりで死ぬような人魚じゃないから大丈夫」
人魚……海獣にも色々いるが、まさか人魚とは。水槽の中で動く影から察するだけだが、人魚にしては巨体だ。上半身に人の形、下半身に海洋生物の形をとる者のことを人魚という。さらに細かい基準もあるのだが、世間一般的な認識としてはそうだ。そして大抵の場合、人の形をとる上半身部分のサイズ感は、陸で生きる我々と変わらない。下半身に関しては千差万別としか言いようがない。長大な者も巨大な者も、やはり陸の我々と同じ規模の者もいる。だがこの水槽の主は、そもそも身体全体が我々より大きいとみえる。
「ちょっと気難しいところがあるらしくてね。彼に干渉しようとして数人病院送りになってる」
「当然薬物も効かない、と?」
「そう。ただの暴れ馬ってわけじゃなさそうだから、ラボの人間としては穏便に交渉したいんだろうけど」
水槽の掃除すらままならなくなって呼び出されたということか。……計画性のなさというやつはどこにでもあるらしい。それこそ国の息のかかった研究所であっても。
「手荒に連れてきておいて穏便に、か。骨が折れそうだ」
「そこは交渉次第だろうね」
早く受け取ってくれと言わんばかりに再度掃除道具を差し出される。小さくため息をついてそれらを受け取る。見た目通りだがとても軽い。厳めしく機器の置かれた、秘匿された施設の最深部で扱うには随分とオモチャじみて見えた。……本当にこのスポンジひとつで水槽の掃除をしなければならないのだろうか。洗車とは訳が違うと思うが……まあいい。
「任されたからには力を尽くそう」
なんにせよこんな水の中で過ごさせるのは気の毒だ。そう呟いてマニュアルを手にとる。
「……殺しちゃダメとは言ったけど、多少手荒でも大丈夫だから気長に取り組んで。そういうの得意でしょ」
「どうかな…生き物の面倒をみた経験はあまりないが」
「密葬課にはいくつか植物が置いてあるじゃない。あの感じでいいよ」
「あれでいいのか…?」
それじゃ、と一言残し男は部屋を出ていく。その背を見届けてから、背後の濁った水槽を再度眺める。
~中略~
「蜂名さんかい」
「おはよう、真鍋さん」
第三者がいる、ということ。そして同時に、真鍋さんに血の繋がりまでは明かしていないということだ。人間の形をとれることも伝えていないのだろう。……確かに顔はあんまり似てないと思うけど、気づかれないものだ。
「こんな早朝に会うには、珍しい顔だ」
「そうかな。貴方こそ、ここに染まりすぎじゃない?」
そうかな、と返した真鍋さんは水族館の従業員にしか見えない格好をしていた。水中作業用の黒いドライスーツを着て、太い腰のベルトにウエストバッグを引っかけている。濡れている様子はないから、これから潜るところか。
「他の人間がやって来る前にやりたいことがあってね」
それは朝四時前という時間に、ここへ来ている理由だろうか。何か用事でもあるのかと問われ、お魚を見に来ただけと答える。水槽に入る作業場への階段を上っていく真鍋さんの後についていく。作業場に入るなら護身術くらい使えた方がいいが…と呟く真鍋さんに自分のことは気にしなくていいと伝える。『とっても狂暴な人魚』と対面する可能性があるわけだから、当然の警告だ。
「水槽の掃除、どうだった」
「あの水の澱みは、彼の体表を覆う粘液と、その粘液に僅かな塵やゴミがついたことが原因だった。水槽自体は時間さえあれば綺麗になりそうだったが、中には彼がいるだろう。無策で飛び込むにはリスクがあった。人手を集めるにも、ここの人間はただの研究員だ。彼らを水槽に入れるほど非道にはなれなくてね……人魚の彼は彼で薬も効果がなく、人に触られたり干渉されるのを嫌う節があった」
「で?」
「水槽の水を全部抜いた」
「……………」
聞き間違いだろうか。
「………騒ぎにならなかった?」
「なった」
水位が一定まで下がった瞬間警報が鳴り響き、慌てふためく研究員達が走り込んできた。当の人魚も驚いてはいたようだが、特に苦しむ様子はなかったので作業を続けた。水中でなければ襲われても勝機はあると踏んだんだが…と、真鍋さんは淡々と説明しながら到着した作業場への扉を開ける。大雑把とも取れかねない大胆さは、生き物の世話をするには向いていなさそうだが、父には大いにウケたことだろう。現場の混乱と水槽の底を這う羽目になった父の姿は、ちょっと見てみたかったかもしれない。
「今は水を循環させる頻度を上げているから水槽の掃除はあまり必要がない」
「ふーん、で今日は?」
「今日は彼に渡したタブレットの充電と…」
ぶつぶつと呟きながら壁に掛けられていたバインダーを片手に、毎日行われている水温のチェックに始まり設備の保守点検、各機材のメーターの数字の記録、水面に異物などの異常がないか、などを記入していく。もはや清掃員というより飼育員に近い。この三ヶ月で一体何があったというのか。それにこの作業場の環境も大きく変化している。ただデータを取る為、海獣を最低限健康体でいさせる為の機材が置かれただけの空間だった。しかし今や小さな花の咲く植木鉢、様々なジャンルの本や雑誌、果物の入ったクーラーボックス、畳まれたタオルケット、大きな円を象る水槽の縁には一部吸水性のラグが敷かれている始末だ。研究員達の作業場は、今や父さんが暇潰しに寛ぎにくる秘密基地と化している。
「これ、あの人魚が欲しがったもの?」
「『欲しいのではないか?』と推測してこちらで持ち込んだものだ。彼、我々の言葉は話せないらしくてね」
あ、そういう設定なんだ。
「何か別の言語で話しているときもあるが、私には鼻歌か唸り声にしか聞こえない。残念だが」
真鍋さんは水槽の縁に膝をつくと、右手を手首の辺りまで水に浸す。そして水遊びでもするみたいに軽く飛沫をあげた。
「少し離れていてくれ」
水底からどんどんこちらへ上ってくる影を見て、水がかかったら嫌だなと一歩下がる。先ほどのそれが、上がってこいという合図のようだ。
「…………っ」
真鍋さんの身体が揺れる。その場で踏ん張るような動きをしたかと思えば、その手は父さんの手にすっぽり包まれている。掬い上げるように真鍋さんの手をとって、髪をかき上げながら顔を出す。そして包んでいた手を真鍋さんの指先に滑らせて、キスをした。指先へのキスの真似事は、海外であればままある挨拶の形だ。ある種の敬愛を示すそれが二人の間で許されているなら、なるほどそれなりの関係を築いているのだなと思った。しかし、
「名前がわからないので紹介はできないが、何か彼と話したいことはあるかい」
と僕の方を向きながら父さんの手を振りほどくと、つまみ食いを企む子どもの悪戯を叱るような手付きで、父さんの手をひっぱたいていた。叩かれた手は痛くも痒くもないだろうが、父さんは被害者みたいな顔で手をさすっていた。……許されてないのにやったらそれは怒られて当然でしょ。
「話せるの?こちらの言葉はわからないって言ってなかった?」
「我々と同じ言葉を話すのを聞いたことはないが、こちらが話す内容は概ね理解している素振りがある。ジェスチャー込みで伝わる場合もあるが…」
真鍋さんは両手人差し指で、宙に長方形を描く。そして父さんに「タブレットは?」と問い、こちらへ渡せと手を差し出した。父さんは尾の先にでも絡めて持っていたのか、水中からタブレットを取り出した。