「いって」
ガシャン、と音がしたかと思うと、続けて聞こえてきたのは耳馴染みのある声だった。痛い、そう言ったように聞こえた。腰を沈めていたベッドから弾き出されたかのような勢いで立ち上がると、声のした方へと駆け寄る。
「どうかしたんすか」
見慣れた背中に声をかけると、癖毛を揺らしながら空色の瞳がこちらを向く。
「待って、こっち来ないで」
空色の瞳が警告の色を浮かべながらそう告げる。――こっち、来ないで? 今までに言われたこともないような言葉に思わず身体が強張る。近付くのも許されないようなことが今までにあっただろうか。いや、思い当たる記憶がない。それなのにこんな朝から急にどうして? ついさっきまでどんな会話をしていた? ぐるぐると思考を巡らせる中、空色の瞳がゆるりと細まり、形のいい唇が困ったような笑みを浮かべた。
「マグカップ割っちゃった。危ないからちょっと待ってて」
……何だ、そんなことか。サーヴァントである俺に、割れ物ごときで近付くなとはこれまた過保護な。むしろ割れ物の後始末なんて、サーヴァントに押し付けてしまってもいいのに。
いや……待てよ。
「マスター、怪我したんすか?」
先程、痛いと聞こえたことを思い出し、マスターの手元を視線で探る。返事を待たずとも分かった。左手の薬指に赤い傷。
「うわ、見つかった」
まるで悪戯を咎められた子供のようにマスターはその背に赤色を隠し、俺と向き直る。その顔は今から掛けられる言葉を察しており、それに対しての答えを先んじて弁解するような色滲ませていた。
「……マスター」
それを理解した上でも、俺には言わなければならないことがある。
「いや〜……マンドリカルド、心配するかなって。大した傷じゃないし、ね?」
まるで俺を制するかのように、マスターが早口気味にそうまくし立てると、小首を傾げて見せた。マスターがよくやる魅了魔術のようなものだ。しかし残念ながら俺にはもう効かない。
「ね、じゃないっすよ」
腰に手をやり、わざとらしく息を吐いて見せる。なぜ俺たちのマスターはこんなにも手が掛かるのだ。傷一つくらいさらりと見せてくれればいいのに。
「ほら、見せて」
手を差し出せば、渋々といった様子で肉刺もタコもひとつもない指先が伸びてくる。きれいな指先には赤色が一際目立つ。傷に触れないように気を付けながら、出来るだけ優しくその手を取った。
「ほら、まだ血ぃ出てる」
傷口から滲み出す血液がぷつりと玉のように膨れ上がったかと思うと、なめらかな肌の表面を横切っていく。血が滴るところを見ると、絆創膏と圧迫止血が必要なように見えた。
「舐めれば治るって、こんなの」
我らがマスターは往生際が悪く、そんなことを言っている。舐めれば治る。とんでもなく前時代的な発言だ。前時代の記録でしかない俺が言うのも何だが。だがしかし。
「――舐めれば治る?」
往生際が悪いマスターに、少しばかり悪戯心が湧き出した。舐めれば治る。ほう、そうか。そう言うならば。
「試してみるっすか」
言うが早いか、制されるよりも早くその指先を口に含んだ。傷口に塩を塗ってやるつもりで、わざと鉄と塩の味の濃い場所を舌でなぞった。「って」と小さな声がする。いい気味だ。これに懲りたら怪我をしたらすぐさま医療班の元へ駆け込むことだ。
そんなことを考えていると、ぐらり、と突然地震が起こったかのように脳みそが揺さぶられる感覚がした。
「――あ」
口の中の鉄と塩の味が、やけに脳に響く。舌がびりびりとしびれるような感覚がして、そこから次第に全身へと痺れが広がっていくように身体が熱くなっていく。これは――
「やば、すんませ……」
慌てて口からマスターの指先を開放した。……無意識のうちに体液による魔力供給を受けてしまった。受け止める覚悟も出来ないままの身体には微量の魔力でも脳を痺れさせるのには充分で、身体が力を持て余して熱を持っているのが分かった。
「マンドリカルド……」
マスターがいつになく真剣そうな面持ちでこちらを見る。そして俺の唾液がついたままの左手を伸ばすと、俺の頬をくすぐるような穏やかさでそっと撫でた。
「顔、真っ赤だ。魔力供給にびっくりした?」
熱を持った身体には触れるか触れまいかという指先がむず痒く、思わず眉をしかめる。するとマスターがずいと顔を近付けてきたかと思うと、耳元で囁くように囁いた。
「――もっと、魔力、欲しい?」
ずくずくと全身が熱くなっていく。期待に鼓動が早まる。ああ、どうしたって逆らえない。サーヴァントである限り。
「……はい」
い、と言い終えるより早く、温かく柔らかな唇が、俺の乾いたそれを塞いで声を飲み込んでいった。