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    ikasamikumo

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    ikasamikumo

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    捏造設定もりもりさみくもです。和風異世界パロファンタジー半獣雨さんと人間のちぃ雲さんによる何かバーンとしてドーンとした犬河ドラマを目指して執筆中です。何でも許せる方のみご覧ください。
    2022年12月に「狗の草子 序」として加筆修正版を発行。サンプルとしてご笑覧下さい。

    #さみくも
    basketFish

    壺中犬一、
     其は惨憺たる有り様であった。八足門の構えも空しく邸内の至るところに転がる死体を血に昂る半獣達が臓腑を喰らい、引き摺り出し、欲望の全てを叶えんと暴虐の限りを尽くす。其は全く地獄であった。

     吐き気を催しそうな光景に眉一つ動かさず、五月雨は邸内の生体反応を探った。今日が初陣の彼が命じられた役割は斥候である。紫色の瞳を伏せて、そこかしこで上がる絶鳴の吐息を数える。
    「殲滅したか」
    「恐らくは」
     戦闘可能な成体の反応はもうなかった。ただ、違和感を一つ覚える。
    「中央の塗籠のあたりに、何やら反応が」
    「確認せよ」
    「は」
     庭先からも火の手が上がったようだ。ぱちぱちとはぜるような乾いた木材の焼ける音にかきけされそうな、小さな気配がする。

     邸の中央部にある塗籠は真っ先に確認して女を一人殺めた。子でも隠していたのだろうか。人の子であれば朝方までには燃え尽きるであろうこの邸と共に焼け死ぬだろうし、万が一脱出できたとしても邸を取り囲む半獣の群れに喰われるだけだ。しかし、命じられたからには遂行せねばならぬ。叔父である現狗神の命は狗属である五月雨には絶対である。

     塗籠に足を踏み入れる。ぬるりとした血の海が広がっていた。先ほど殺めた女人がうつ伏した状態で倒れている。
    「…」
     五月雨は再び違和感を覚えた。このひとは、怯えきって動けないままの他の女人と違い、無謀にも小太刀で五月雨に切りかかってきたのだ。武芸の心得のない女人の僅かな抵抗ではあったが、咄嗟のことと一太刀のもとに切り伏せた時は、空を掴むような手をして仰向けに倒れた筈だ。
     敵といえど勇敢な者に対する敬意もあり、遺体をそっと抱き上げると、足に小太刀が当たった。女人を上座のほうに寝かせると、先ほどから気になっていた妙な気配がつよまった。足元の、先ほどまで女人の遺体がうつ伏していた部分を爪先で探ると段差がある。

     隠し戸か何かがあるのだろう。この女人が最期の、息が途絶える瞬間まで守ろうとした子だろうか。そこで今夜初めて、五月雨の目に憂いが浮かんだ。五月雨は母を知らぬ。物心がつく前に産褥で亡くなった。以来、母の妹が乳母として五月雨を育ててくれていたのだが、彼女ももうこの世にはいない。

     微かな気配は段々と弱々しくなっていくように思えた。佩いていた直刀を突き立てて、段差をたどって弾く。人の力では両腕でも持ち上げるのに苦労する程の隠し扉が軽々と空いた。

    「だぁれ?」

     幼い、たどたどしいような発音が五月雨の鼓膜に届いた。届いてはいるのに認識できぬ。

     予想していた通り、小さな子供がそこには籠められていた。石灰で塗り固められた棺のような空間に、戦場には不釣り合いな色彩が在った。子供は立ち登るような紋様の桜重ねに包まれている。髪の色も瞳の色も春を思わせる色で、五月雨はまた、あの春の夜に亡くした叔母のことを思い出した

     一句も告げずにただただ押し黙る五月雨に、子供は首を傾げるような仕草をすると桜色の髪がふわりと揺れた。

    「子を隠しておったのか」
    「は…」
     背後から響く重々しい声に五月雨は一瞬、息を詰まらせる。耳がよく、偵察能力に長けた五月雨は普段、ものの気配に驚くことはない。どの方向からどれくらいの時間をかけて己に近づいてくるものが在るかを正確に聞き分けることができるからだ。

    「先の陣議ではこの邸には男子が二人と女子一人。斯様な幼子の話はとんと聞かぬ」
    「…縁者でしょうか」
    「さて」
     狗神が腰の直刀に手をやる瞬間、五月雨がその手を押さえた。
    「生かしておいたとて半獣どもに嬲られるよりは」
    「私が、」
     長である自身の命に背いたことがない五月雨が、言葉を遮ったことに狗神は意外そうな顔をした。
    「私が、始末いたします。この子の母も私が殺めました故」
     狗属の、人の子にとっては異形に見える様態の狗神と五月雨の会話を聞いているのかいないのか、桜色の子供が石灰の床から出ようともがきはじめた。
    「是」
     狗神は刀から手を離すと、悠々と尾を揺らして塗籠から出ていった。
    「は」
     その背に向かって一礼すると、五月雨は振り返った。

    「…ま」
     幼子は、起き上がると、傍らに横たわっている女人をじっと見つめている。
    「かあさま…かあさま…?」
     小さな手を伸ばそうとするのをこれ以上見ていられず、五月雨は幼子の目を塞いだ。
    「…」
    「母様、母様」
     掌に感じる涙の感触を感じないようにしながら、母を呼ぶ幼い声が半獣に見つからないか、耳をすませて周囲を伺う。まつろわぬ神となり百年を超えて、本来は神として在ったものたちが半神半獣になり下がりつつある。特にここ数年は半獣たちの残虐性が増した。今、死人たちを蹂躙し、内臓を引きずり出している彼等も、数十年前はもっとまともな思考を持っていた。

     この戦は終りのない輪廻のようなものだ。

     人に棄てられたから殺し、殺されたから神を追い、互いに互いを食い尽くすまで終わらないというのか。

     目を塞がれたままの幼子を抱き上げると、五月雨は狩衣の懐に抱え込んだ。くぐもった泣き声があがり、小さな抵抗をはじめるのを物ともせず塗籠を出る。振り返ると幼子の母が静かに横臥している。胸元以外に外傷はなく、美しい、眠っているような顔をしていた。泣きじゃくる幼子を片手に抱えながら、五月雨は重い音を立てる塗籠の扉を閉じた。腕に抱いている幼子の母。子を守るために必死に立ち向かった女人の遺体を半獣達に玩具にされるのは嫌だったからだ。せめて、夜が明けるまでこの扉が持ってくることを願いながら、五月雨は闇夜に姿を消した。


    二、

    「兄さま、五月雨兄さま」
     仔犬のように袖にまとわりつこうとする幼子を片手で掬い取るように抱きあげると、花が咲くように笑う。
    「はい、雲さん」
    「おかえりなさい」
    「ただいま戻りました」
     嬉しくてたまらないという様子の雲と鼻をくっつける。彼からはいつも甘い花のような香りがした。
    「今日は何をしていたのですか?」
    「乳母が仮名草紙を持ってきてくれたの」
    「面白いおはなしでしたか」
    「あんまり…」
     小首を傾げて正直に述べる口元が愛らしい。どこをつついても柔らかい幼子の頬を撫でる。
    「それでは今夜は私とどんな面白いことをしましょう」
    「兄さまの尻尾にさわりたい」
    「どうぞ、御随意に」

     普段の五月雨を知るものがいたならば、目をこすりそうな光景に違いない。常に冷静沈着、寡黙な武芸の達人は、その辺りを歩くだけで殺気をまとわせていると専らの評判だ。

     あの夜、狗神の指示のもとに行われた夜襲の日に、五月雨は泣き疲れて眠ってしまった幼いにんげんの子供を連れ帰っていた。屋敷内の奥深くに結界を貼り、子を隠す。狗属や神獣の中には気に入った人間を贄として我が物としたり異種婚姻を結ぶものもいたが、この子供のことだけは秘さなければならなかった。子の名はわからない。男子であることと皇統に連なる一族の者であることだけは確かだった。あの夜、この子供の母親が抜いた小太刀はこの国の皇統の血をひくものしか手にできない意匠であったし、子供自身の霊力の高さからもそれは伺えた。

     古代、未だ祭政一致した政事が行われていた頃、帝たる一族は、その霊力の高さ故に神々や神獣たちをよく祭り治めることができたからこそ、にんげんでありながらこの国を支配することを許された。それだのに、今や政治は人のためだけのものになり、祭祀は形骸化し、神々はそれに対して怒りを顕わにした。その怒り自然災害であり、神使たる神獣や幻獣たちによってこの国に災いをもたらした。ひとは、神獣を駆逐し、神の社を焼き、神々とひとは、そうしてこの百年、相争っている。

     五月雨は狗神となるべき五家の筆頭「雨」の家に生まれた。先代の狗神であった父に武芸を教わり、正しきまつりごとの道へと人を導くのが己の務めと、大いに稽古に励んだものだ。生母は五月雨を産むとすぐに亡くなった。父はその後、妻を娶ろうとしなかったため、幼い五月雨の養育は、母の妹であった叔母が乳母としてあたってくれていた。
     叔母が嫁していた家にも同じような年ごろの子があり、五月雨は兄弟のようにその子たちと育った。戦時のこととて、常に緊張感の漂う環境ではあったが、それなりに平和に暮らしていたものだった。あの夜までは。

     先代の狗神である父を狙って、ひとの軍隊が屋敷を夜討ちしたのだ。ふいをつかれた父を、一族を皆殺しにされた。乳母だった叔母も乳兄弟だった従兄弟たちも、全て。乳母に庇われた五月雨のみが残された。
     乳母の夫であった叔父はその折、遠征に出ていたため難を逃れることができた。慟哭する数少ない生き残りの家臣に囲まれて、声を発すことのできなくなった五月雨を、養子としてくれたのはこの叔父だった。叔父は父の跡を継ぎ、狗神として今も狗属を率いている。狗属の、特に雨の家に関係するものにとって、「ひと」という存在は復讐すべき敵なのだ。

     ひとしきり五月雨の尻尾にじゃれつき、満足したのか子供はおとなしく床に伏している。腹ばいになって尻尾をみつめているので、目の前にくるように動かしてやると、また花が咲くように笑う。

     この桜色の子供は、父と叔母の、一族の仇の家のものだった。

     あの夜、泣き疲れて眠った子供は、一昼夜の間、目を覚まさなかった。枕辺にありながら、何故自分はあの時この子供を殺さなかったのか、五月雨は幾度も考えた。二日目の朝、子供が目をあけた瞬間、五月雨の心から迷いが消し飛んだ。春がそこに在った。あの夜感じたように、この子供の瞳の色はこれまで見たこともないような美しい桜色の虹彩とそれを縁取る朱鷺色が調和し、揺れている。大きく見開いた目の子供としばし見つめ合い、五月雨は我に返った。

    「…あ」
    「…」
     呆けたような瞳の子供がこちらを見ているのか不安になって声をかける。血の気の失せた顔で目ばかりを見開いた様相はまるで人形のようだった。
    「御加減は、いかがですか?」
    「……」
     五月雨のことを見てはいるのだが、どうにも焦点が合わない。
    「名前は」
     何を問いかけても恐らく耳に届いていないのだろう。何の反応もしない子供は、身の上に起きた悲劇に心が耐えられなかったのだろうか。自身にも覚えのある心の痛みを与えてしまったのは、紛れもなく五月雨だった。長の命令だったから、仇の家のものだから、子の母を斬った。そのことは疑いようもない事実であった。

     ぼんやりと五月雨のいる方向に視線を向けていた子供は、ほどなく目を閉じた。規則正しい呼吸音が聞こえる。眠ったようだった。

     それから数日かけて、子供は回復を見せるようになった。朝に晩に、眠っている子供に声をかけ、目があけば体を起こしてやり、水を飲ませる。初めは口内に入りきらない水が口の端からぽたぽたとこぼれおちる。物言わぬ子どもは人形のようにされるがままだった。
     それでも根気強く五月雨は、子供の世話をした。起床と思しき時間になると、子供の身体を起こして夜着から着替えをし、抱き上げて御簾越しの庭を見せてやる。午後になれば子供を懐に抱いたまま、手習いをし、書を読んた。時折、子供に字の説明をしてやる。冷たい手足が哀れに思えて、夜半ともなると必死で手でさすり、懐に入れてあたためる。
     七日目、もう、これ以上はもたないか、と半ば絶望するような気持ちで子供を抱き上げると、ぴくり、と子供の首筋が震えた。桜色の瞳がゆるゆると動いて、五月雨を認めると乾いた唇が奇跡のように動いた。

    「…だぁれ?」

     擦れた、甘い声に五月雨は何故か泣きたくなるような心持を覚えた。

     幼子はあの夜のことはおろか、自身に起きたことも、名前すら憶えていなかった。名を問われても泣きそうな顔で懸命に思い出そうとしているのが哀れで、子供に名を与えることにした。あの夜、子供を目にしたときの、春色の雲が湧きたつような様相を思い起こして「雲」と名付けた。

    「くも」
    「えぇ。朝に夕に、空に沸き立つあの美しい雲ですよ」
     あどけない瞳がひた、と自身に向けられているのを見ると、五月雨は腹の奥がむずむずするような喜びを覚える。自分のやっていることは、罪滅ぼしなのかただの自己満足なのか、思い悩むときもある。しかし、雲のうるみがちな大きな目がこちらを見る瞬間、この美しいものがこの世にすがるべきは自分しかいないという仄暗い喜びに胸が躍る。

     人形のようにくたくたと力の入らなかった手足も、御簾の内の狭い空間を歩きまわれるほどには回復をした。そうなると、雲はじっとすることができずに、ぱたぱたと五月雨の後をくっついて回りたがった。五月雨の大きな紫色の尻尾をむんずと掴み、頭上に生えている三角形の耳を引っ張る。少女のような優しげな見目の割に元気のいい子供は懼れることなく、わざと勢いをつけて五月雨に身体を預ける。

    「にいさま、にいさま」
    「はい、雲さん」
     今日も抱き上げられて御簾越しに庭を見ながら、雲は五月雨の首に抱き着く。
    「あっちが見たい」
    「はい」
     乗り物のように五月雨を動かし、高いところから庭を眺めるのが雲は大好きだった。本当は外に出たいのかもしれない。しかし、一族の仇のにんげんの子供を惣領の忘れ形見である自分が匿っていることが知られでもしたら、末路は見えている。自身が降格もしくは追放されることは一向に構わない。だが、この子供は生きたまま八つ裂きにされ、骨も残さず食われるだろう。


    三、

     五月雨は次期狗神と目されており、執務や部下の鍛錬も行わねばならぬ。自身の武芸も磨いて、狗属の中で頂点と周囲に認められなければ、属の長となることはできない。五月雨が幼い頃からの到達点であったし、それは当然、日々行うべきものだった。
     しかし、雲という幼子を手に入れてからの五月雨は、自身の中に惑いが生まれるようになった。己が手で殺めてしまったひとの子を養育する。そこに供養であるとか慈悲であるとかの大義名分はある。それ以上に、五月雨はこの幼子にひとかたならぬ執着を抱くようになっていた。春色の子供は限りなく優しい花のような容姿をしていた。たおやかな桜のような髪や瞳、小さな手足も、柔らかな頬も。五月雨の頭上に生えている三角形の狼耳や尻尾にも臆することのない雲は、ひととして生きていた時のことを全て忘れ去っていた。幸い、雲自身は記憶がないこと以外は至極健康であった。五月雨が密かに好むところの和歌などにも素養があったし、真名も仮名も一通りの心得はあった。うつくしく、また賢い子ではあったが、生来の彼は五月雨を慕う甘えがちな子供だった。
     五月雨が雲を膝に乗せて体をゆらゆらとさせると、喜びはしゃいだ後、急に糸のきれた傀儡のようにくったりと眠ってしまう。執務から戻った五月雨が御簾をあげると几帳に隠れていて、わっと飛び出してくる様などは、無邪気な幼い子供そのもので、雲の笑った顔を見ていると五月雨はほんの少し、自身が背負っているものが軽くなるのを感じる。

     夜、夜具を延べるために膝をついていると雲がやってきて、ぎゅ、と五月雨の頭に抱き着くときがある。そうすると、ちょうど五月雨の半分ほどの大きさの雲の腹に顔がうずまるのだが、その瞬間が一番、心が休まった。幼子をこの屋敷に連れてきたときの、人形のようなあの生気のなさから、今、こうして柔らかい肌のぬくもりと、子供の呼吸を確かに感じられると、いつもなんともいえない心持になる。雲も、五月雨がその体勢でいると安心することがわかっているのか、普段のやんちゃぶりから一転して、おとなしく五月雨に身を任せる。母が子にするように、五月雨の頭を撫でさえもする。雲の小さな手はあたたかで、柔らかなその体をつなぎとめるように、五月雨も黙って雲の身体を引き寄せる。冬の、いっとう冷える夜は、衾の中の小さなぬくもりを手繰り寄せて、身を寄せ合う犬のように眠った。

     やがて正月も過ぎ、五月雨は十八歳となった。為すべき執務内容は一段と多く、多様なものとなる。そうなると、これまでの通りに雲の傍にばかりいるわけにもいかず、かと言って一人で放っておけるほど大人しい子供でもなかった。五月雨の霊力によって外界からは隔絶させているものの、闊達な幼子は気をぬくと色んな場所に入り込んでしまう。以前も五月雨の留守中に危うく結界をはるための呪物を壊しかけていたのだ。

     こうなっては致し方ない。五月雨の留守居を守れるものを雲につけねばならない。人選には苦労しなかった。五月雨が十五の折に与えられた屋敷内には信用のおける用人が在ったのだ。
     雲の乳母として選ばれたのは半成の寡婦だった。半成とは神獣に嫁した人、もしくは神獣と人の子で、長らく神気に触れるため長寿を得るが人としての機能は徐々に失われることが多かった。このひとは五月雨の生家に長らく仕えた家臣の妻だったひとで、出自についてはもうわからぬが、御巫をしていたところを見初められたらしい。五月雨は後に寡婦となったこのひとを邸に留め、家政を任せていた。
     乳母は常に面布をつけ、声を発さない。恐らくは半成となった時に発声の機能を失ったのだろう。立ち居振舞いの優しい雅やかなひとで、雲もすぐになついたようだった。このひとには子がなかったから、自身の出自に近しい存在である雲をたいそう可愛がった。


     五月雨が適齢期である十六を過ぎた頃から、舞い込むよいになった婚姻の話が近頃増えた。名家である雨の家の長子、次期狗神としての器量、武芸に優れ、才長けた御曹司は注目の的だった。そんな折、ぽつりぽつりと奇妙な噂が流れだした。家臣の寡婦の半成を屋敷の奥深くに囲っているという、下世話なものだ。
     実際にその寡婦は雲の乳母として屋敷の奥深くの他の者には言えないことを任せているのだが。これには辟易とし、五月雨は一計を案じた。曰く「雨の家の長子は許嫁を迎えた」「半成の寡婦は五月雨の許嫁の世話役を務めている」。五月雨とて雲がひとであってしかも男子であることは認識をしている。だが、好奇の目や様々な家のものたちからの結婚の打診を断ることに苦心していたこともあって、家人を使って噂を広めさせた。噂というものは勝手に広まっていくものである。いつのまにやらちまたには「御曹司の屋敷の奥深くに住まう高貴の娘」「次期狗神が手づから育てるほどの可愛がりよう」「御執心の許嫁」等が喧伝され、属の娘たちや親をひどく落胆させることとなった。

     その頃より、五月雨の住まう屋敷では新屋の増築を行いはじめた。連れてこられた時よりは体力が回復し、それなりにやんちゃな子供であった雲を、いつまでも狭い一室に閉じ込めておくわけにもいかなかったからだ。入念に垣間見を避けるような造りのそれは、まさしく深窓の姫君を迎えるにふさわしく、属のものたちはやはり許嫁の噂は本当だったのだと囁きあった。
     新屋は小さい内庭もあり、四方を高い塀と障壁でふさいだ入り組んだ造りである。五月雨に抱かれて檜の香も新しい屋に入った雲は、走り回れる場所が増えたことをたいそう喜んだ。噂のこともあって、雲の桜色の髪は伸ばされ、少女の着るような衣服が与えられた。柔和な顔立ちの雲は、おとなしく座っていさえすれば女童に見える。妻というには幼すぎるが、取り取りの色彩に飾られたその愛らしい姿は五月雨の目を喜ばせた。

     その後はしばらく、五月雨も安心して執務を行うことができたし、雲は乳母と共にその留守居をよく守った。乳母に様々な芸事や手習い等を教えられ、日に日に成長をみせる。幼いばかりの子供は、そうして大切に養育されていた。


    四、

     雲の髪が背丈ほどに伸びる頃には、一見すると少女の如く成長した。子めかしい性質は変わることはなかったが、外見はめっきり大人びて、日々その姿を見守っている五月雨でも時にはっとすような美しさと憂いを帯びるようになった。ただ、彼は外見からは想像もできない程、自身が男子である事実に拘っており、五月雨が雲の容姿を戯れに女性の美しさとして形容しようものなら、そっぽをむくようにもなった。今日もつん、と鼻をあげて五月雨から顔を背けている。
    「怒っている雲さんの鬼灯のようなそのお顔も可愛いらしいですよ」
    「…髪、切っていい?」
    「すみません、雲さん。私が悪かったのです。もう言いません。」
     雲は何を言えば五月雨が謝るのかを知っている。五月雨は、雲の髪の一筋さえも宝物のように大切に扱った。彼は雲の身が損なわれることに関して、異様なほど反応をする。雲がもっと幼い頃、袴の裾を踏んで転んだ時は血相を変えて駆け寄り、怪我を負っていないか、それこそ衣をはぎとられて検分されたし、庭先に降りるときもじっとこちらを見つめている。建屋に囲まれたほんの小さな内庭であるのにも関わらず、雨が降る日、またその次の日も地面に降りることは許されない。
    「雲さんがぬかるんだ泥に足をとられて転びでもしたら、私は生きてゆけません」
    等と、至極真面目な表情で言われると、雲も我儘は言えずに引き下がる。五月雨は美しく優しい、雲にとってこの上もなく大切な兄だったが、その過保護さにうんざりするときもある。世間というものを雲は知らない。知らないのだから比較はできないのだが、乳母だってこんなに雲の行動を制限しない。

     彼は雲が少年らしく振舞おうとすることに対して、ひどく警戒をしているようだった。雲は外見や衣装はともかく、自分とて五月雨と同じ「雄」であると認識をしている。いつか自分も大人になったら、五月雨のように凛々しい耳と立派な尻尾が生えると信じていた。精悍な兄のような大人になったら、きっと彼が「外」で行っている仕事を手伝うのだと心に決めてもいる。

     いくら大好きな兄に優しく甘やかされ、容姿を愛されても、雲は自分自身が何か偽りに満ちたものの渦中にあるような気持ちがしていた。五月雨にそれを直に問いただすことはできなかったが、それはきっと自身が少女として育てられているからだと感じている。
    「雲さんはお体があまり丈夫ではありませんから、そんなに薄着をしてはいけません」
    「そんな端近にいては風邪をひきます。中に入って下さい」
     過剰なほどに雲の身体を露出させることや、屋外に出すことを禁じ、ただ人形を真綿にくるんで大事にしまっておくような兄に、雲はここ最近、息苦しさを感じている。兄は、五月雨は雲の欲しいものは何でも与えてくれる。それでも雲の一番望んでいるものは与えようとしない。

     雲は、いつか大好きなこの兄と並びたちたいのだ。この世で唯一、雲が知っている美しくて優しい五月雨とこの部屋の中だけでなく、どこまででも一緒に歩いて行きたいのだ。絵巻物で見た遠い国のその先や、未だ見たことがない海というものを五月雨と共に自分の足で、目で見るのが雲の夢だった。

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