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    datdatte

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    datdatte

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    荊に覆われた洋館で、人知れず起きたとある出来事。

    #勝デク
    katsudeku

    荊館町外れのその洋館は古くからそこにありました。
    錆びて朽ちかけた門扉はそれでも堅く閉ざされていて、幾重にも荊が絡み誰の侵入も拒んでいるようでした。
    屋敷をぐるりと取り囲む生垣と鉄製の柵も、刺々しく威圧的です。
    洋館へと続く道は、どこへも通り抜けることのできない袋小路になっていて、通りかかる人もいない、そんな場所でした。





    ある日、子供たちのはやし声が近づいてきました。
    甲高い笑い声には嘲りと侮蔑が色濃く滲んでいます。
    子供たちは正面から少し回り込んだところまで進んで、生垣が僅かに低くなっている場所で立ち止まりました。
    先頭を歩いていた子供が振り返り、輪の中で小突き回され揶揄われていた子供の前に立ちはだかりました。
    涙を浮かべた小さな子供は、腕や肩を掴まれて逃げることも叶いません。
    振り返った子供が目線をさっと巡らせると、周りにいたものたちは心得たとばかりに、小さな子供の細い肩にかかっていたランドセルを取り上げました。
    そしてそれを、何の躊躇いもなく生垣の奥へ放り込んでしまいました。
    雑草が野放図に生えている敷地の中にばさっと落ちる音も聞かずに、子供たちは一斉に歓声を上げて駆け出して行きました。
    小さな子供は呆然と、生垣の向こうを見つめています。
    指示を出した子供だけがその様子を見て、暗い笑みを浮かべ、空になった細い肩に腕を回しました。
    「…大事なもんなんだろ? ま、せいぜい頑張れや」
    そう低い声で話しかけ、最後の仕上げとばかりにどん、と薄い背中を乱暴に押しました。それから小さな子供を置いて、ゆっくりと歩き去っていきました。
    小さな子供は、背中を押された拍子に前につんめのり、生垣に手を着いてしまいました。
    鋭い荊の棘が、まだ小さくて柔らかい綺麗な手を、傷付けます。
    のろのろと体を起こして、子供は自分の手のひらを見つめます。
    小さな切り傷がいくつか出来ていました。
    血が、赤い血が、ぷつ、と湧き上がってきます。
    子供は、震えそうになる手をぎゅう、と握りしめて、涙を堪えるようにもう一度生垣を見上げました。
    とても乗り越えられそうな高さではありません。おまけに上の方には鉄でできた鋭い返しが、下の方は棘を無数に隠した荊が蔓延っています。
    すっかり静まり返った辺りを、そっと見回します。どこか入れそうな場所はないだろうか、彼はそう考えて屋敷を一回りしてみることにしました。

    屋敷の周りには森が広がっています。
    鬱蒼と繁る木々は、枝葉を伸ばして暗い陰を落としています。鳥の鳴き声も、葉擦れの音も、何も聞こえません。
    子供が恐る恐る足を進める度に靴底で踏む砂利が微かに鳴るのと、段々浅くなっていく呼吸の音だけがその場にありました。
    季節は夏の盛りだというのに、辺りはとてもひんやりとした空気に包まれています。
    子供は、血の滲む手をぎゅう、と胸の前で握りしめながら、入れそうな場所を一生懸命探しました。

    丁度、真裏に差し掛かった時でした。
    ざぁ、と、まるで屋敷から湧き上がるような強い風が吹き付けました。
    濃い緑の蔓に咲き溢れていた荊の、白い花びらが一斉に舞って、子供の視界を奪います。
    驚いた子供は両の瞼を固く閉じて、風を遣り過しました。
    やわらかい花びらが、頬を撫でていくのがわかりました。
    それから荊の香りが一層濃くなったように思いました。
    しばらくして風も治り、そぅ、と瞼を開けると、先程は気付かなかった生垣の隙間を見つけました。
    鉄製の柵はその部分だけ朽ち、荊の蔓も掴まるものがないせいかぽっかりと空間を開けています。
    地面に膝と手を着けば何とかなりそうだと判断して、子供はそこを潜り抜けることにしました。
    手足を着いて頭を低くします。
    膝に尖った小石が当たって痛かったけれど、我慢しなければなりません。
    上下左右の棘に気をつけながら、ようやく生垣を潜り抜けました。
    立ち上がって、手のひらと膝を払い、目の前に聳え立つ洋館を改めて眺めます。
    石と木でできた建物は、あちこち荊が蔓を伸ばして覆っています。それはまるで人目から隠れようとしているかのようでした。
    少年はもう一度、手をぎゅっと握り直してランドセルが投げ込まれた場所を目指し歩き始めました。
    建物を回り込むと、草むらの中に沈むように落ちていた自分のランドセルを見つけました。
    ほ、と息を吐き出して駆け寄ります。
    拾い上げてみると、いつの間にか蓋が開いて中身が溢れていました。
    少年は唇を噛み締めながら、ばらばらに散った自分の荷物を拾い集めます。
    ノート、教科書、筆記具…
    宿題のプリントもすぐ近くで見つかりました。
    だけど、一番大切にしているものが見つかりません。
    それは母にねだって買ってもらった、小さなマスコットでした。
    テレビの中で活躍する一番大好きなヒーローが、素敵な笑顔でグッと胸を張ったその似姿を、少年はとても大事にしていました。
    何をするにも要領が悪く、不器用で、だからついたあだ名が木偶の棒の「デク」、そんな少年の心の拠り所でもありました。
    どんなに笑われて、虐められてもこの大好きなヒーローが側にいれば自分は大丈夫、そう信じてランドセルの内側のポケットに忍ばせていたのを、今日、とうとういじめっ子に見つかってしまったのです。
    こんなもん持ってきやがって、先生にチクんないだけ有難いと思えよ、そう一方的に言われて、この古い洋館まで連れてこられたのでした。
    そしてランドセルごと敷地の中に放り込まれ……文字通り投げ捨てられて、少年は酷く心が痛みました。これならまだ、先生に告げ口をされた方がマシだったかもしれません。
    拾った荷物をランドセルに詰め直しながら、大事なマスコットを探します。
    ない、ない、…ここにもない、こっちの草むらは…ない、あっちから投げ込まれて荷物はこの辺に散らばって、でもあれは小さいから遠くの方へ飛んでいってしまったのかも…ない、ない、どうしよう……、
    少年の目に、涙が滲みます。
    その涙が零れそうになった時でした。
    ひらり、と何かが視界の端を掠めました。
    反射的に目で追うと、それは開いた窓辺で揺れる白いカーテンでした。
    光が透けるほど薄いカーテンが、ひら、ひらとゆっくり翻っています。
    先ほど表から見た時は、どの窓にも鎧戸が閉ざされていたように見えたのに、その窓は大きく外側に開いています。
    少年は軽やかに揺れるカーテンに誘われて、数歩、近づきます。
    よく見ると、窓枠の端に、探していたマスコットが置いてありました。
    「あ!」
    少年は駆け寄って手を伸ばしました。
    でもそれを手に取ることは叶いませんでした。
    内側から白い指が伸びてきて、マスコットを一足先に摘み上げたからです。
    少年は大層驚いて固まりました。
    「……てめえ、勝手に人んちで何してやがる」
    窓枠に切り取られた影の中から声がして、その声の主が薄いカーテンの向こうから姿を現しました。
    それは少年と同じくらいの年嵩の子供に見えました。
    あらゆる方向に尖った白金色の髪の毛、抜けるような白い肌、通った鼻筋に薄く色づく唇。だけど一番目を引くのは、ぎゅっと寄せられた眉の下にある赤い瞳でした。
    髪の毛と同じ白金色の睫毛が、陰を落として瞳の中に複雑な色合いを生み出します。
    「…綺麗、」
    少年は思わず呟きました。
    「ア?」
    窓の中の少年の眉が跳ね上がります。
    「あ、いやあの、ごめんなさい、その、それ、僕のなんだ…」
    焦ってしどろもどろになりながら、手に握られたマスコットを指さします。
    「…ふーん?」
    赤い目を眇めて窓の中から見下ろしてきます。
    「あの、返して…。勝手にお庭に入っちゃったのは、ごめんなさい!」
    少年は言いながら勢いよく頭を下げました。
    すると、きちんと閉じられていなかったランドセルの蓋が開いて、詰めた荷物がすべて滑り落ちてしまいました。
    「あ、」
    少年は慌ててノートや筆記具を再び拾い集めます。
    すると、くつくつと、堪えきれないといった風な笑い声が聞こえてきました。
    顔を上げると、窓の中でもう一人の少年が肩を揺らしています。
    「…おっまえ、間抜けなやつ…ふ、あはは、」
    とうとう大きな声で笑い出した相手を見て、少年もなんだかおかしくなってきて一緒に笑い声をあげました。
    一頻り笑い合った後、目尻に滲んだ涙を拭いながら窓枠の少年が口を開きました。
    「これ返して欲しけりゃ裏に回って入ってこい」
    そういってすっと窓から離れました。
    外からは窓枠が高すぎて、室内の様子を窺い知ることはできません。
    少年は、わかった、と返事をして、もう一度裏庭へ向かいました。
    それにしても、さっき建物の壁は荊の蔓に覆われて入れそうなドアなどなかったように見えたのだけれど…、と少年は思いました。
    果たして。
    少年が駆けて戻った先に、窓の中にいたもう一人の少年が木製の扉を開いて待っていました。
    その扉の周りは切り取られたかのように荊は這っておらず、どうしてこれに気づかなかったのだろう、と少年は不思議に思いました。
    「おっせえ」
    文句が飛んできます。
    「ごめん、これでも急いだんだけど…」
    「いいから入れ」
    「…お邪魔します」
    小さなドアからそっと室内に足を踏み入れます。
    そこは台所でした。
    古いけれど手入れの行き届いた作業台や棚、鍋などの道具類が、使いやすそうに配置されています。床は板張りで鈍い艶を放ち所々ぎぃ、と鳴ります。
    「こっち」
    赤い目の少年がすぐに台所から出ていくのを慌てて追いかけます。
    少し暗くて長い廊下を歩いて、開けっ放しになっているドアの中へ入っていく背中についていくと、そこは先ほど窓越しにふたりが会話した部屋でした。
    「……ここ、ずっと空き家なんだと思ってた」
    少年の呟きに、赤い目の少年が振り向きます。
    「ンな訳ねえだろ。ちゃんと住んどるわ」
    少年の言葉通り、古いなりに手入れの行き届いた室内は調度品もきちんと揃っていて住み心地も良さそうです。塵や埃など少しも積もってはいません。
    「そっか、勘違いしてた、」
    ごめんね、と、眉を下げて謝る少年を、赤い瞳がじっと見つめます。

    「……見つけた、」

    なにを? と首を傾げた少年に、赤い目の少年はぐいっと手を掲げました。
    「これ、俺が見つけた」
    「あ、それ、僕の大事なお守りみたいなもんなんだ、……返してくれる…?」
    「返してやってもいいけど、…お前、勝手に俺んちに侵入したよなぁ?」
    「そ、それは…本当にごめんなさい」
    「ごめんで済めば警察はいらねえんだよ。わかんだろ」
    不穏な言葉を口にしながら、すぅ、と細められる赤い目に、少年は真っ青になります。
    「……、ご、ごめ…、ぼく……、」
    動揺する緑色の目に、涙が溜まり始めました。
    その涙がもう少しで溢れ落ちる、というその瞬間、弾けるような笑い声が響きました。
    「嘘だ、バーカ!」
    返してやるよ、との言葉とともにマスコットを投げて寄越します。
    「わ、わっ、ありがとう…!」
    少年が不器用に、慌ててマスコットをお手玉していると、赤い目の少年は口を閉じてその様子を見つめます。
    赤い目には、相変わらず影が落ちて複雑な色合いが浮かんでいます。
    「…その代わり、明日もうちに来い、」
    低く小さな呟きを、少年は聞き逃しませんでした。
    「いいの…?」
    「俺が来いって言ってんだからいいんだよ!」
    ば、と勢いよく振り上げられた右手に、少年は思わず目を瞑り肩をすくめます。
    しかし予想した痛みも衝撃もなく、あったのは髪に触れる暖かい温度だけでした。
    赤い目の少年の手は優しく癖の強い髪に触れ、その感触を楽しんでいるようでした。
    「お前の頭……鳥の巣みてえだな。なんか住んでたりしねえのかよ」
    「そんな訳ないだろ?!」
    頭を撫でられながらも少年は反論します。
    その様子に赤い目の少年はまた可笑しそうに喉の奥で笑いました。
    恥ずかしくなって手を振り払おうかとも考えましたが、自分の髪に触れる手の温度と、柔らかく細められた赤い目を見ていると、何故か反抗する気も失せていき、そのまま委ねるように少し首を傾けてしまいたくなります。
    「…君、撫でるの上手だね、」
    「撫でるの上手ってなんだ」
    また、ふは、と笑い声を上げて赤い目の少年は癖の強い髪の毛にくる、と指を絡めて軽く引っ張りました。
    いたいよ、そう小さく抗議する少年に向かって、「てめえは、」と尋ねてきます。
    そして小さく頭を振って少年に向けてきました。
    「君の髪に、触ってもいいの…?」
    「おー、」
    じゃ、じゃあ、そう言っておずおずと伸ばされた手を見た瞬間、赤い目の少年は声を上げました。
    「怪我してんじゃねえか!」
    「あ、忘れてた。生垣に手をついちゃったんだ、」
    「……っ、来い!」
    少年の手首を掴んで、部屋を出ます。
    「え、えっ、待って、もう血も止まったし、痛くないし、大丈夫だよ…っ、」
    少年は引き摺られるように歩きながら、赤い目の少年に訴えます。
    「黙ってろ!!」
    しかし激しい剣幕で怒鳴られて、少年はびくり、と肩を揺らしました。
    それに気づいて赤い目の少年は立ち止まり、振り返ります。
    「……手当、しねえとだろ、」
    手を引かれていた少年は、振り返った少年の顔を見て驚きました。
    眉を寄せ、口を引き結び、少し青褪めて、まるで自身が酷い痛みを堪えているかのようでした。
    「…うん、」
    少年が小さく頷いたのを見て、赤い目の少年はまた歩き始めました。手首は強く掴んだままでしたが、歩調はゆっくりと落ち着いたそれになりました。
    「怒鳴って、悪かった」
    前を向いたままの少年が、ぼそりと呟いたのを受け取って、「ううん、」とその背中に返します。
    少年が向かったのは先ほど通ってきた台所でした。
    「ほら、洗え、」
    水栓を開いて、促されます。
    少年はこくりと頷いて、手を差し出しました。
    少しの血と土で汚れた手のひらを、冷たい水が滑り落ちていきます。
    「痛えか、」
    近くの棚から布巾と薬箱を取り出してきた赤い目の少年が、心配そうに尋ねます。
    「ううん、痛くないよ」
    少年は、にこ、と微笑みました。
    「…これで拭け」
    「でも、血が着いちゃう」
    「いーんだよ、そんくらい。怪我人は大人しく従っとけ」
    赤い目の少年の口調は乱暴でしたが、その表情は本当に自分が痛みを堪えているかのようで、とても心配しているのだとわかりました。
    「…大袈裟だよ、」
    平気だ、と伝えたくて冗談めかして口に出してみましたが、赤い目の少年の顔色は冴えません。
    「手、こっちに向けろ」
    言われる通りに手のひらを上に向けて赤い目の少年に差し出します。
    薬箱を開いて、すぐに消毒液を探し出し、綿に含ませて手のひらに軽く押し付けてきます。
    「染みるか、」
    「ううん、だいじょうぶ」
    安心させようと笑顔を向けますが、それでも少年の眉は寄せられたまま……それどころか、更に苦しみが増したようですらあります。
    「…君の方が、痛そうだよ、」
    手当を受けながら言うと、赤い目の少年はそこでようやく息を細く吐き出して、表情を緩めました。
    少年の手をこわれ物でも扱うように下からそっと支え、何かそこに隠されている大事なものを見つけようとしているかのようでした。
    絆創膏を貼り付ける手つきはとても丁寧で、少しひんやりした指先が手のひらの上で動くたびに擽ったくもありました。
    最後に、少年の手を両手で挟み込むようにして赤い目の少年は口を開きました。
    「明日も、見せに来い」
    じ、と赤い目が注がれます。とても深い、赤でした。
    「…うん、」
    少年の緑色の瞳が、赤い色を映してきらりと光りました。
    窓の外から、蜩の声が聞こえてきました。
    差し込む光も傾いています。夏の盛りで日が長いとはいえもう夕方でした。
    「僕、そろそろ帰らなきゃ、」
    少年が言うと、赤い目の少年はもう一度手をぎゅ、と少しだけ握ってから離しました。
    「安全に抜け出せる場所を教えてやる、着いてこい」
    少年を誘って、屋敷の裏口から庭に出ます。
    外に出ると、蜩の声は一層はっきり聞こえてきます。
    少しだけ裏庭を歩いて、「ここから入ってこい」赤い目の少年が指さしたのは、柵に設けられた小さな門でした。よく利用されるのか、そこには荊は蔓延ってはいません。
    「鍵は開いてる、いつでも」
    赤い目の少年が呟きます。
    「わかった。教えてくれてありがとう」
    少年は、礼を言って門扉に手をかけ押し開けます。
    「そうだ、君の名前って、」
    振り向くと、赤い目の少年が笑っていました。
    「カツキ」
    「カツキくん。僕は、」
    少年が言いかけた時、また風が吹き付けて荊の花びらが舞います。
    手を目元に翳していると、背中をそっと押され門の外へ足を踏み出しました。
    「知ってる、イズク」
    白い花びらの渦の向こうからそう聞こえました。
    風が止んで、イズクは屋敷の方を振り返りました。だけどそこにはもうカツキの姿はなく、濃緑の葉と真っ白な荊の花が無数に咲き零れているだけでした。
    「…また明日ね!」
    生垣の向こうにそう声を投げて、イズクはランドセルを揺らして駆けていきました。

    傾いた日が赤く、静寂に包まれた屋敷を照らしています。





    「絆創膏、替えてやる」
    次の日の午後、約束の通り屋敷に現れたイズクを、部屋に通してカツキは言いました。
    「うん、ありがとう」
    イズクは素直に手を差し出します。
    「腫れたりしてねえかよ」
    「大丈夫だった。カツキくんが手当てしてくれたからだね」
    イズクは緑色の目に光を湛えて柔らかく細めました。
    カツキはそれを眩しいもののように見て、目線をイズクの手のひらに落とします。
    「…綺麗な手なんだから、大事にしろよ」
    ぼそりと呟きながら絆創膏を丁寧に剥がしていきます。
    イズクは目を丸くしました。
    「そんなこと…初めて言われた…」
    頬が熱くなるのを誤魔化すように視線を少しだけ彷徨わせ、それからカツキの手元に移しました。
    白い指先が、器用に絆創膏を固定するためのテープを千切っています。
    「君の手の方がよっぽど綺麗だと思うよ。指も長くて形も良くて、器用で、優しくて」
    「優しいって、思ってくれんのか」
    白金色の睫毛が、僅かに震えました。
    「え、だって、オールマイトのフィギュアも返してくれたし、傷の手当もしてくれたし…僕のこと、とても心配してくれたでしょ…? 君は優しいよ」
    イズクの言葉を聞いてカツキはそっぽを向きます。
    「…ちょろ過ぎんだろ、」
    「えぇ、僕、褒めたのに…」
    口を尖らせながらカツキの手元ばかりに注意を払っていたイズクは、カツキの耳がわずかに赤くなっていたこと、それから眉を寄せて何かを、まるで泣くのを我慢するような表情を、カツキがしたことに気付きませんでした。
    「…ほら、終わりだ」
    最後のテープをイズクの手のひらに貼り付けて、カツキは出した道具類を片付けていきます。
    「ありがとう、かっちゃん!」
    カツキの動きがぴたり、と止まりました。
    「……、」
    イズクの方も、自分の口から転がり出た言葉に驚いて固まっています。
    「…いま、なんて、」
    「あっ、ごめ、」
    「さっきの、もう一度呼べ」
    「……か、っちゃん…?」
    「もっかい、」
    「かっちゃん…」
    「もっかい」
    「かっちゃん」

    窓辺でカーテンがふわり、と揺れました。
    夏の日差しが、斜めに差し込んで部屋の中を明るくしています。
    その光が、白金色の睫毛の上で跳ねて、赤い瞳の中に陰を落とし、複雑な色合いを作ります。
    イズクはその様子に、見惚れていました。
    その赤い瞳に、何度こうして目を奪われてきたことだろう、そんなことを思いました。
    カツキの白い手が、ゆっくりと伸びてきました。
    微かに震えながら、その手が肩口を通り過ぎた、その瞬間に強い力でイズクは引き寄せられて、抱きしめられました。
    「…どう、したの…?」
    「黙ってろ」
    イズクのことを抱き竦めるカツキの体は、驚くほど熱く、しかしうなじに這わされた指だけは冷えていました。
    カツキの只ならぬ様子に、イズクは動揺しつつも特に抵抗することなく身を委ねます。
    親以外にこうして抱きしめられたことなどなかったのに、カツキの腕の中は驚くほど居心地が良い、と感じました。
    イズクはそっと手を伸ばして、自分のその心地よさを分け合うようにカツキの背中に触れました。
    触れられてカツキの肩がぴくり、と揺れましたが、イズクはそれを宥めるように背中をゆっくり撫でます。
    カツキの腕に力が込められました。そしてイズクの肩口に顔を伏せます。腕とは反対に遠慮がちなその仕草に、イズクは、ふ、と息を吐き出しました。
    それでも体勢を変えることなく、カツキの背中を撫で続けました。

    どのくらいふたりは抱き合っていたのか……イズクのうなじに添えられていたカツキの指先はすっかり体温が移り、もう冷たくはありません。
    カツキの腕が解かれて、ゆるゆると下がります。
    指が、シャツの上を滑ってイズクの薄い背中を辿ります。
    森に囲まれた屋敷の中は随分と涼しかったのですが、それでもかなり長いこと抱き合っていたふたりは、うっすらと汗をかいていました。
    その湿った感触すらカツキの指は楽しんでいるようでした。
    最後にイズクの肘に触れて、カツキの指は名残惜しそうに離れていきました。
    イズクはなんだか夢から覚めたような気持ちになりました。
    指を離すのと同時に、カツキは伏せていた頭を起こしてイズクをじっと見つめます。赤い瞳はやはり複雑な色を湛えており、それがとても綺麗だとイズクは改めて思いました。
    カツキの瞳に見惚れていると、それが柔らかく弧を描きます。
    滲むような微笑みを目にして、イズクは急に、自分の心臓が大きく跳ねたことに驚きました。
    大きくなった鼓動は血液をどんどん押し出して、イズクの頬を染めていきます。
    なにか、何か言わなきゃ、
    イズクはそう思って口を開こうとしましたが、言葉は出て来ずにただ唇は震えるばかりでした。
    そんなイズクの様子をカツキは見て、笑みを深くした後、くるりと背を向けます。
    「…あ、あの、」
    「喉渇いた。ちょっと待ってろ、」
    そう言って、部屋を出ていきます。
    白いシャツの背中を見送って、イズクはひとり部屋に佇みます。
    ひとりで立ち尽くしていると、心臓の音が大きくはっきり感じられます。
    それを誤魔化すように、室内に視線を巡らせました。
    漆喰で塗り固められた壁は夏の光を穏やかに反射しています。
    シンプルな電灯が真ん中に垂れ下がり、今は沈黙しています。
    イズクにはそれがなんという織物かはわかりませんでしたが、何色もの糸を使って複雑な模様を浮き出させた布張りの優雅な形の椅子と、向かい合わせのテーブル。その上の一輪挿しには屋敷の周りに蔓延っている荊が一本生けてありました。
    部屋の一隅には、夏には無用となる作り付けの暖炉もありました。
    イズクはふと、その上に乗っているものに興味を惹かれました。
    それは、装飾のほとんどない額に収まった一枚の写真でした。
    イズクの手のひらよりふた回り程大きなそれは、カツキの肖像です。
    少し色味の褪せたような写真の中でカツキは、体を少しだけ右側に開き顔を正面に向けて写っていました。
    その写真の人物のことを、イズクは確かにカツキだと思いました。
    だけどそこに写っているのは、自分と同じような年頃に見える今のカツキよりももっと歳を重ねた、十代後半くらいのようにも見えました。
    イズクは驚いて瞬きをしました。
    もう一度写真を眺めます。
    すると先ほどは大人びて見えたカツキの写真は、今と寸分違わない子供の姿に見えました。
    なんとなくそのことにほっとして息を小さく吐き出した時、からり、と氷の揺れる音が聞こえました。
    「…何見とんだ」
    カツキが両手で盆を支え、部屋に戻ってきたところでした。
    「あ、ごめん。素敵な写真だなって思って」
    カツキはイズクの返事には答えずに、テーブルに近づいて手に持っていた盆をその上に置きます。ガラス製の水差しの中には螺旋状に剥かれたレモンの皮と、その中身、それからミントが茎ごと沈められ、部屋の中に爽やかな香りを運んできました。
    その隣で氷の詰められたグラスがすでに汗をかき始めており、白っぽい光を落としています。
    カツキが水差しを傾けてグラスに注ぎます。
    二杯同じように満たし、次いで小さな陶器の蓋を開け、中身をスプーンで掬い取ります。
    それは琥珀色のとろりとした蜂蜜でした。
    レモン水に浮かぶ氷に、たっぷりと蜂蜜を落としていきます。
    琥珀色が氷の上を滑り落ちて、水の中で解けていきます。
    カツキはそのままスプーンをグラスの中に突っ込んで、イズクに「ん、」と言って差し出しました。
    「ありがとう…」
    礼を言って受け取ると、氷に近づいた温度が手のひらに心地よさを齎します。
    カツキが自分の分には蜂蜜を落とさずにそのまま傾けているのを見て、イズクも口に含みました。
    レモンの香りと酸味、ミントの清涼感、それから蜂蜜の優しい甘さ。
    からん、と鳴る氷の音さえ美味しいと感じました。





    夏休みが始まっていました。
    イズクは殆ど毎日カツキの元へ訪れています。
    いつもの部屋のテーブルの上に宿題のノートを広げていたイズクは、まるで今思い出した、という風に口を開きました。
    「明日、港で花火があるね、」
    テーブルの向かいに座って体を横に向けていたカツキは、眉を少しだけ上げました。
    けれど手に持った本に目を落としたまま、イズクの方へは視線を寄越しません。
    「…かっちゃんは、見に行かないの…?」
    「行かねえ」
    きっぱりと返ってきた答えに、イズクは肩を落とします。
    しょんぼりと項垂れたイズクの様子をカツキは横目でちらりと見て、唇を微かに歪めます。
    「…うちから見えるからな」
    「え、」
    「屋上から見える。しかもかなり眺めがいい」
    「そう、なんだ…」
    「来るか?」
    そこでようやくイズクの方へ向き直ったカツキの顔には悪戯っぽい笑顔が浮かんでいました。
    その笑顔を見て、イズクは自分の胸がどきどきと鳴るのをまた感じました。
    この部屋で抱きしめられて以来、カツキのふとした表情を見ると胸が高鳴るということをもう何度も経験していました。
    「…いいの?!」
    「おー、」
    じゃあ僕、露店で何か買ってくるよ何がいい? そうイズクが勢いこんで尋ねるのを、カツキは指を上げて少し待て、と制します。
    目線を何もない一点に向けたままじっと見据えています。
    イズクはその静かな横顔にすら見惚れました。
    ぱちり、とカツキが瞬きをしてイズクに向き直ります。
    「じゃあ、瓶入りの炭酸水。薄荷入りの」
    「それだけでいいの? もっと他にも色々あるのに…」
    「いい。十分だわ」
    「そう? ならいいんだけど。…ねえかっちゃん、さっき、何見てたの?」
    イズクの質問に、カツキは口の端だけを持ち上げて微笑みました。
    「…虫が、いた」
    カツキが見つめていた部屋の壁を見返します。しかしそこには特に変わったものもなく、イズクは首を傾げました。
    「もういねえよ」
    それからカツキは笑みを深くして、イズクのノートにとん、と指を落とします。
    「ここ、間違えてんぞ」





    開け放たれた窓の外から蜩の声が聞こえてきました。
    イズクは広げていたノートや教科書を閉じて帰り支度を始めます。
    「明日、露店に寄って花火が始まる前には来るから」
    「おー、気ぃつけてな」
    ん、とイズクは頷いて、リュックサックのフラップを整えました。
    ふたりして部屋を出て、長い廊下を抜け、台所を通り過ぎて屋敷の裏庭に出ます。
    夏の午後の光が、屋敷と荊を、ふたりを染め上げます。
    イズクが小さな門に手をかけた時に、カツキがふと呼び止めました。
    「なぁに?」
    振り返ると差し出されたのは、荊の一枝でした。
    「明日うちに来る時に、これを胸に入れてこい」
    どうして? と首を傾げるイズクにカツキはゆっくりと口を開きました。
    「虫除け、だ」
    射していた午後の光が、急に陰りました。
    イズクが視線を空に向けると、遠くの積乱雲が太陽と重なったところでした。
    辺りは薄暗く、だけど屋敷を覆う荊の白い花は燐光を纏ったように浮き上がって見えます。そして、カツキの赤い瞳も、深い色を湛えて静かに光っていました。
    「…わかった」
    受け取った荊をハンカチに丁寧に包んで、イズクは屋敷を後にしました。





    翌日。
    午後になってイズクは、港まで出かけ、既に立ち並んでいる露店の一つでカツキに頼まれた炭酸水を買いました。薄緑色の分厚い硝子瓶を丁寧にハンカチで包んで、リュックサックにしまいます。
    かっちゃんはこれだけでいいって言ったけど、今日しか買えないものも多いから他に何か……
    イズクは人混みの中、立ち並ぶ露店を見回します。
    果物に飴をかけて固めたもの、ふわふわでカラフルな綿菓子、チョコレートをたっぷりまとったマシュマロとナッツ…。
    イズクはいずれも好物でしたが、カツキは甘いものを好まないことを知っていたのでそれを買うことはしません。
    ふたりで一緒に食べられるものがいい、そう思って、辺りを見回しながら歩きます。
    ふと、芳ばしい香りがしました。
    誘われるように足を進めると、薄くて白いパンに野菜と香辛料をたっぷり塗した肉を挟んだものが売られていました。
    これならカツキも喜んでくれるに違いない、そう思ってふたつ買い求め、人がますます増えていく路地から離れて、カツキが待つ荊の洋館へと足を向けました。

    騒めきが遠ざかりかけた時でした。
    「オイ、」
    背後から低く声がかかりました。
    聞き覚えのあるそれに、イズクの細い肩が跳ね上がります。
    「てめえ、最近こそこそと何やってんだよ!」
    伸びてきた手に腕を掴まれ、ぐるっと向きを変えられます。イズクのランドセルを荊の館に投げ込まさせたいじめっ子でした。
    「…君には、関係ないだろ」
    声が震えそうになるのを必死に堪えて、イズクはいじめっ子を見つめ返しました。
    「俺ァ知ってんだぞ、てめえがあの町外れのお化け屋敷の辺りに潜り込んでること!」
    近づくなって言われてるのに! といじめっ子は声を荒げます。
    この町の子供は、親にも教師にもあの洋館には近づいてはいけない、と言われて育ちます。
    とても古い廃屋だから、事故が起きるかもしれない、と。
    でも、とイズクは思います。
    あの場所には、かっちゃんがいる。
    屋敷も古いけれどどこも壊れてなくて、危ないことなど何もない。
    僕は、僕だけはそれを知っている。
    そう思った時に、イズクの胸は凪ぎました。
    イズクはいじめっ子をじっと見つめます。
    「……な、んだよ…」
    イズクの静かな目に気圧されて、いじめっ子は掴んでいた腕を離します。
    港に面した広場の、時計の針が動きました。時刻を知らせる鐘の音が一帯に響きます。
    花火の打ち上げ開始まであまり時間がありません。
    「僕、もう行くよ」
    イズクはそれだけ言って、荊の屋敷のある方へ歩き出しました。
    「あ! 待てよ!!」
    いじめっ子の声が背後から聞こえましたが、人の流れに逆らうように歩いているうちにすぐにその気配は紛れて分からなくなりました。
    イズクは、詰めていた息を吐き出しながら買ったパンの紙袋を片手で抱え直しまた歩き出しました。

    港の喧騒はもう随分遠く、それどころか森と荊の館へ続く道の付近には人影も見当たりません。
    古い街灯がぽつり、と立った脇道へ入る前に、イズクはカツキに渡された荊の枝を取り出しました。
    不思議なことにそれは少しも萎れたりせず、真っ白な可憐な花を付けて、まるで今し方切り取られたかのような姿を保っていました。
    言われた通りに、胸のポケットへと差し込みます。
    その瞬間、わずかに聞こえていた町の喧騒すら掻き消えました。
    日没後にここへ来たことはありませんが、イズクは少しも怖いと思いませんでした。
    それどころかもうすぐカツキに会えると胸の内が高鳴ります。そうしてゆるゆると登っている道を弾むような足取りで辿ります。
    道の両脇にはもう森が迫っていて、行く手を見通すことはできませんが屋敷に無数に咲き零れている荊の花の香りがここまで漂ってきています。
    夏の夜の空気は昼間よりも少しだけ湿っていて、その分香りを強く感じさせるようでした。
    いつものように道を辿り、緩くカーブを描く道を登っていきます。
    手も持ったパンの包みが、かさり、と音をたてました。

    荊の香りは、噎せ返るようでした。
    夜の屋敷はますます鬱蒼とそこにありました。
    いつもは固く閉ざされている正面の門には灯が点り、それから内側に大きく開かれていました。
    イズクは足を止め、中を覗き込みます。
    門から屋敷の正面に続くアプローチは、前日まで雑草に覆われていたのにそれが綺麗に刈り込まれ整えられています。
    野放図に蔓延っていた荊も金属製の柵に誘引してあり、それが優雅に弧を描いて長く続くトンネルのようでした。
    足元にはランプが備え付けてあり、柔らかい光が荊の白い花を照らし出しています。

    ぎぃ、と、遠くで重い扉の開く音が聞こえました。

    イズクはその音に誘われるように門の中へ足を踏み入れました。
    荊のトンネルを抜けると、屋敷の大きな扉の前にカツキが佇んでいました。
    「かっちゃん、僕、来たよ」
    イズクがそう声をかけると、カツキは、それまでどこか遠くを見つめるような茫洋とした表情を浮かべていましたが、イズクを見つめ、僅かに眉を寄せてから微笑みました。
    「…ようこそ、荊館へ」
    そういって、僅かに首を傾げてイズクを扉の中へ誘います。
    イズクが足を踏み入れると、そこは吹き抜けの大きなホールでした。
    正面には左右に分かれて美しいラインを描く階段があり、その真ん中、ホールの突き当たりには大きな飾り棚が設てありました。
    イズクの背丈よりも大きく、しかし装飾は殆どないシンプルな花瓶に垂れ下がるように荊が生けてあり、屋敷の中までもその香りで満たされています。
    「こっちだ」
    カツキが、ランプを手にしてイズクを階上へ案内します。
    磨き上げられた階段には、深いグリーンの絨毯が敷いてあり、乗せた靴の音を柔らかく吸収します。
    階段を上りきり、吹き抜けのホールを回り込むような廊下を歩いて、屋敷の正面にある大きな窓をカツキは開きました。
    広々としたバルコニーが、ふたりを迎えます。
    屋敷の周りの森は、闇に沈んで黒々としていましたが、その向こう、眼下に遠くイズクの住む町が広がっており、その光が途絶えるところ、海に開かれた港の明かりもすぐに見つけることができました。
    「そろそろだな」
    カツキの声に、イズクは頷きます。
    その言葉通り、すぐに花火が打ち上がり始めました。
    闇夜に、いくつもの花が浮かんでは広がり、そして落ちて、消えていきます。
    吹いてくる湿った風が、花火の音と火薬の匂いを僅かに運んできました。

    ふたりはバルコニーの手摺りに凭れていましたが、しばらくしてカツキは石を削り出して作られたテーブルに向かいました。
    イズクも後について、手に持っていた包みと、リュックサックの中から頼まれていた硝子瓶を取り出してテーブルの上に置きました。
    「…なんだ、それ」
    カツキはイズクの包みを顎で指します。
    「かっちゃんは炭酸水だけでいいって言ったけど、…僕が一緒に食べたくなったんだ」
    イズクは何だか気恥ずかしさを覚えながら紙袋の中から買ってきたパンを取り出しましす。
    「冷めちゃったけど、どうかな…?」
    上目遣いに尋ねると、カツキが、ふ、と笑顔を浮かべてくれたことにイズクは安堵しました。
    「旨そう」
    カツキは言いながら、緑色の瓶を開栓し、予め用意していたグラスに注ぎ込みます。
    アイスペールの氷はまだ殆ど溶けておらず、グラスの中で涼やかな音をたてました。





    最後の花火が打ち上がったのは、もう随分前でした。
    夏の夜風が、いつの間にか眠っていたイズクの髪をそっと揺らして吹き抜けていきました。
    「オイ、」
    カツキが肩を軽く叩きます。
    「…ん、」
    「寝るなら、ベッドへ行け」
    「うん、…かっちゃん、連れてって」
    イズクは薄く目を開け、微笑みながらカツキの方へ両手を伸ばしました。
    その様子を、カツキは眉をほんの少しだけ寄せて見つめました。まるで…、
    それからやれやれと言うように頭を軽く振って、イズクの肩と膝の下に手を入れて持ち上げます。全く危なげのない手つきでイズクの体を支えると、カツキはバルコニーを後にしました。
    長く暗い廊下を通って、ドアを潜ってふたりは広い寝室へと入ってきました。
    シーツの上にイズクを丁寧に下ろします。
    ベッドの脇に膝をついてカツキが乱れてしまったイズクの前髪を払うと、イズクは手を伸ばしてカツキのその手を掴みました。
    「ねえかっちゃん、」
    「なんだ」
    「…僕、君とだったら、いいよ」
    カツキは目を見はりました。それから段々と眉を下げて、イズクを睨みつけます。
    「自分で何言ってるか、わかってんのか」
    低く小さな声でそう訊ねます。
    「わかってる」
    きっぱりと言い切るイズクに、カツキは再び大きく目を見はると、今度は泣き出しそうな表情を浮かべました。
    「……帰してやれねえぞ」
    「わかってるよ」
    「ほんとうに、いーんかよ」
    再度訊ねる声は、更に小さな囁き声でした。
    「僕ら、ずっと一緒だっただろ。だから、これからも…」
    カツキの手を握るイズクの指に力が込められました。カツキはイズクの手を両手で握り返し、自分の額に押し付けます。
    それはまるで、祈りを捧げているようでした。

    ベッドサイドに置かれていたランプから、ゆらり、と炎が立ち上がりました。
    それは白く透明な炎で、ゆっくりと揺めきながら静かに燃え広がります。炎は壁や床を舐めながら広がり、ふたりを包み込みました。
    屋上や廊下、階段の途中や玄関ホール、それから荊のトンネルにも置かれていたランプからも同じように白く透明な炎が立ち上がり、広がっていきました。
    炎はとうとう屋敷全体を包み、すべてがゆらゆらと揺れてその様はまるで蜃気楼のようでした。



    ◇ ◇ ◇



    子供は、けたたましいサイレンの音で目を覚ましました。
    何台もの消防車がすぐ近くの道を通り過ぎて行きます。
    時計を確認すると、真夜中でした。
    一旦はもう一度眠ろうとしましたが、なんだか胸騒ぎがしてすぐに起き上がりました。
    窓を開けて通りを見下ろすと、また消防車の一団が過ぎていくところでした。
    山手の方へ向かっている…、
    子供は開け放った窓を閉めることもせずに、身を翻して家から飛び出しました。

    暗い夜道を駆けて、息も切れそうになる頃。
    子供の向かう先には煌々と赤い回転灯がいくつも灯っていました。
    そしてそれよりももっと、もっと大きな炎が、真っ赤な炎が立ち上っていました。
    野次馬が何人も集まってきて、その古い廃屋の前には人集りとそれを押し留めようとする警察関係者でごった返しています。いつもの静けさは欠けらもありません。
    何が起こっているのか。
    子供は眠る前に幼馴染の家からかかってきた電話のことを思い出していました。
    「息子がまだ帰宅していない。何か知らないか」
    そう、確認される内容でした。
    彼は短く、知らない、とだけ答えました。
    やけに静かな目で自分を見つめ返してきた幼馴染の顔を思い出します。
    その幼馴染とは物心がつく前から近くにいて、何をどうしたらどんな反応が返ってくるのか、知り尽くしているという自負がありました。
    でも、その静かな瞳は初めて目にするもので…そしてそこに自分が映っていないことに気づいてしまった子供は、あの時酷く傷ついたのでした。
    人の流れに逆らって歩いていく細い背中を、追いかけることもできませんでした。
    夏休みの少し前から、幼馴染の行動が掴めなくなっていました。
    あの日、あいつのランドセルをここに投げ込んでからだ…、
    子供はぎゅ、と唇を噛み締めます。
    毎日、放課後にこっそりここら辺に向かっていることは気づいていました。
    だけどいつも幼馴染を見失ってしまうのです。
    袋小路になっているこの道はどこへも抜ける場所もなく、あの怖がりな幼馴染が森の中へ入っていくともとても思えません。
    でも、細い背中を追って屋敷の辺りに来ると、いつも急に見失うのでした。
    瞬き一つした次の瞬間にはその姿は掻き消えおり……、
    それはまるで、誰かの手によって目隠しをされたような、あるいは、幼馴染だけを彼の世界から切り取ってしまったかのように思えました。
    子供は、何度も屋敷の周りを巡りました。けれども、通り抜けられそうな場所は見つかりません。
    殆ど毎日、幼馴染の後をこっそりつけては屋敷の前で見失う、ということを繰り返していました。
    昨日…日付の上ではもう一昨日のことになりますが、いつものように急に姿の見えなくなった幼馴染を探していた時でした。
    ふと、繁る荊の隙間から動く何かが見えたような気がしました。
    慌てて覗き込むと、開いた窓辺にカーテンが揺れていました。
    光が透けるほど薄く、白いカーテンが、ゆらり、ゆらりと窓辺で翻っています。
    やはり幼馴染は、この屋敷の中にいるのだ。
    彼はそう確信しました。
    でも、どこから入り込んだのだろう。彼は辺りを見回します。
    高い鉄製の柵は越えられそうにもないし、下には無数の棘を隠した荊が蔓延っています。
    子供は、他に何か見えないかともう一度窓を見遣ります。
    …すると、先ほどカーテンが揺れていたと思ったその窓は、古びた鎧戸がしっかりと閉じてありました。
    子供は、背中に急に冷たい汗が滑り落ちたような、そんな感覚を覚えました。
    じり、と後退ると、勢いよく向きを変えて駆け出しました。
    もう、振り返ることもできませんでした。

    そんなことを、赤々と燃え上がる炎を見つめながら思い出しました。
    幼馴染は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
    この、炎の中にいるのだろうか。
    彼は呆然と、その火事を見つめるばかりでした。





    夏が、ゆっくりと過ぎて行きました。
    幼馴染の行方は結局わからずじまいで、それでも彼の両親は酷く憔悴しながらも諦めずに一人息子を探し続けていました。
    いじめっ子には、わかっていました。
    町外れの洋館が焼け落ちたあの日。
    彼は遠くへ行ってしまったのだと。もうここには、戻っては来ないのだ、と。

    秋が深まっていくその日。
    朝から雨が降っていました。
    森は冷たい雨にうたれながら、熟した土の匂いを立ち上らせていました。
    傘を差した人影が現れました。
    規制線も疾うに剥がれ落ちて有耶無耶になってしまった火災現場に、近づいていきます。
    あれだけ強固に人を拒んでいた鉄柵もそこに蔓延っていた荊も見る影もなく崩れ落ち、伽藍堂のように開けた場所に、いじめっ子は足を踏み入れます。
    大きな瓦礫は殆ど撤去され、建物があった名残は基礎の部分だけがそれを伝えています。
    屋敷の跡を、少年は端からひとりで辿ります。
    そういえば、とふと思い出します。
    あの日、この辺の窓が開いて見えたんだった…
    そう思って、足を止めて地面を見つめます。
    目の端に、何か光って見えました。
    何だろうと思ってそれに近づき、しゃがみ込みました。
    崩れ落ちた壁の欠片に紛れて、白いシンプルな額を見つけました。
    辺りに散らばっている瓦礫には煤がこびり付いていたのに、その額だけは今しがたそこに置かれたように綺麗なままでした。
    少年は手を伸ばしてそれを拾いました。
    傷一つない額には、一枚の写真が納められていました。
    写っていたのは、十代後半と思しき少年がふたり。此方には横顔を見せて、互いを見つめ合うように額をつけて微笑みあっている、そんな写真でした。
    片方の人物に、見覚えがありました。
    でも、そんな筈はないのです。
    だってまだ子供の自分と、同じ歳なんだから、
    少年は頭を左右に振ります。
    それでも他人の空似だとはとても思えませんでした。
    それどころか、この写っている人物は自分の幼馴染だと心では確信していました。
    そんなはず……、
    少年はよろよろと、立ち上がりました。
    貧血でも起きたように、視界が暗くなります。
    冷えた指先から、写真を収めた額が滑り落ちます。
    それが、硬い石にぶつかって、がしゃん、と音を立てました。
    雨は、いつの間にか止んでいました。
    厚く凝った雲の切れ間から、午後の日差しが射してきました。少年の足元を照らします。
    ふと、風が吹きました。
    その風に煽られて、砕けた額の中からふたりが写った写真が飛んでいきました。
    少年はそれを追いかけもせずに見送ります。
    ふと、目の前を、白い何かが横切ります。
    細かな白い、白い何かが無数に…。
    それは、荊の花びらでした。
    夏の盛りに咲くはずの、もう既に散ってしまったはずの、無数の荊が、辺り一面に咲き溢れていました。
    噎せ返るような花の香りに包まれて少年は、ふと、名前を呟きます。
    もう自分の前からいなくなってしまった、あの細い肩を、柔らかい癖っ毛を、緑色の大きな瞳を、頬に浮かぶ雀斑を、胸の痛みとともに思い出しながら、その名前を。

    「出久…」

    風が吹いて、白い荊の花びらが舞い上がります。
    真っ白に、それは何もかもを覆い隠しました。
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