異常事態(序)『異常事態』
藍思追と藍景儀は、大体いつも一緒にいる。
それは周知の事実で、近しいものならば彼らがより親密な仲であることを知っている。
まあそれをよしとしない者もいるのは当然のことなのだが、ただその中に金氏の若き宗主が名を連ねているというのは、知る人ぞ知るところである。けれどそれを知ったところで、よく藍景儀とやり合っているのを見ている皆の中に、とくに疑問を持つ者はいなかった。
二人の関係をよしとせぬ理由を知っているのは、ただ一人、藍思追だけである。
ある、夜のことである。
合同夜狩りといえば知ってのとおりだが、姑蘇藍氏と蘭陵金氏が同じ狩り場になる場合、決まって金凌と藍景儀の口喧嘩が起きている。
個人の問題ではあるのだが、あまりに毎度のことになるので、両氏の間では、顔を合わせればケンカするが、ケンカするほど仲が良い、ということで常識となっていた。
今夜もまた、例外ではない。
「だから!いつもいつも引っ付きすぎなんだよお前らは!自立しろ!!」
「なんでお前にそんなこと言われなきゃなんないんだよ!」
「もう、やめてったら…」
「お前も何とか言えよ思追!」
私闘こそしないものの、今夜も今夜とて、口喧嘩の耐えない二人である。
例に漏れず、金凌が景儀に皮肉を言ったことが始まりだった。思追がいないと何も出来ないのか、という売り言葉に買い言葉で、今に至る。森の開けたところまであともう少しだというのに、なかなか歩みが進まない。
「もう帰るだけだからって、毎回こんなに騒いでいたら叱られてしまうよ」
思追は困ったように笑っているが、口元が若干引き攣っているため、相当我慢をしている様子である。まあまあ、と宥めようとする手も些か元気がない。
「俺と思追の仲がよくて何が悪い!」
「だからなんで思追なんだよ!」
「なんでって何だよ!?」
「なんでも!!」
要領の得ない問いかけにイラつきを隠せない景儀と、説明こそしないが、思追とばかり仲良くしすぎだと文句を言う金凌。最早幼児の喧嘩である。ひらりひらりと躱しながら思追と景儀のいる場所から遠ざかる金凌。誘い込まれていることに気づいているのかいないのか、追いかける景儀。
困り顔の思追から少し離れたところまでくると、とうとう胸ぐらを掴み合ってバチバチと睨み合う。宥めようとしていた手を腰に当てて二人を見守っている思追へ向けて、金凌は目だけでニヤリと笑うと背後へ倒れる素振りを見せた。
思追がハッとして駆け寄ろうとしたが、時は既に遅く。
「うわぁっ!?」
景儀の服を掴んだままであったので、背中から地面へ倒れ込む金凌に引っ張られて景儀もドサリと倒れ込んだ。
金凌をクッションにして事なきを得た景儀だったが、思追としては大変よろしくない。全くもってよろしくない。
仰向けに寝転んだ金凌の上で、景儀は体を起こす。
「いてて…おい、なにやってんだよ。大丈夫か?」
まさか金凌が自分から後ろに倒れたとは思っていない景儀は、怪我してないか、痛いところはないかと尋ねる。
単純な景儀に笑ってしまいたくなるのを堪え、金凌はわざと顰め面をした。自分の腹の上にのしかかる重みと感触をしかと味わいながら、う、と呻いてみせる。
「怪我は、してない…」
「そうか、ならよかった」
ホッとした表情を浮かべる景儀に、金凌は我慢できず、ふ、と微笑んでしまう。
「なに笑ってんだよ」
つられて、景儀もふふ、と笑う。あんなにいがみ合っていたのが嘘のように、二人の周囲がほがらかな雰囲気に包まれる。
「景儀!!」
その空気を裂くように、険しい顔で思追が駆け寄ってきた。
「大丈夫!?」
「あ、思追!」
振り返った景儀は、金凌の腹の上に跨ったまま退こうともせず、笑顔で思追の名前を呼んだ。思追を見ている景儀には気付かれぬよう、金凌はフン、としたり顔で笑う。
ピシリ、と固まる思追だったが、すぐに我に返り景儀の腕を掴んで立ち上がらせる。
「気をつけないとダメだよ!」
「まぁまぁ、金凌が下敷きになってくれたから、俺は大丈夫だぞ」
「だから!ダメなの!!」
「お、おう…」
中々見ることのない剣幕で叱られた景儀は、無意識のうちに一歩、二歩と後ずさっている。
「な、なんでそんな怒ってるんだよ…金凌だって、怪我はしてないって」
「……藍景儀」
どこが余計だったのかは分からないがら余計なことを言ってしまったのは確かだ、と景儀は確信した。
二人の仲だというのに、冷たい笑みで藍景儀などと呼ばれたら、もうこれは相当お怒りなのであろうと分かる。
金凌もそれは分かっているのだろうが、よっ、と軽々立ち上がり臆せずにものを言う。
「ま、そんなに怒るなよ思追」
「…金凌、分かってるよね?」
「それはこっちのセリフだな」
ビリビリとした空気が漂い始め、今度は景儀がおろおろとする番。
「お、おい、いきなりどうしたんだよ?思追まで、おかしいぞ?」
些か背の低い自分は火花を散らす二人の視界には入っていないようで、無視されてしまった。
「過ぎた真似はしないでくれるかな」
「はっ、自分だけが選ばれてると思うなよ」
「私のものだよ」
「いいや違うね、余地があるうちは手を出させてもらう」
なんの話をしているのかサッパリな景儀は、思追に掴まれたままの腕がギリギリと締め上げられて痛いことを言おうか言うまいか迷っている。
ちょっと腕を引いてみたものの、微動だにしなかったので二人の会話が終わるのを待つべきか。うーん、と顎に掴まれていない方の手をあてて考える素振りをする。
それを目にとめた金凌の目元が笑う。
「なにそれ、かわい……」
「ちょっと!」
「おわっ」
思追はぐいと景儀の腕を強く引っ張って自分の方へ引き寄せた。体が触れるところまで引き寄せてから掴んでいた手を離すと、勢いでよろけた景儀をひらりとした袖で隠すように抱き留める。
「なんだよ、見せろよ」
「だめ」
ムッとした顔の金凌が思追を責める。
目の前が白い衣で覆われた景儀は、垂れ下がる袖を下に引いて顔を出す。
「もう、二人ともなんなんだよ!金凌も、俺のことほったらかして思追とばっかり話して!思追のことが好きなのか?」
だから俺に喧嘩ふっかけてくるのか?と問えば、思追と金凌は物凄い反射神経でバッと景儀を振り返り、
「「はあ!!??」」
と合唱した。そろってすごい剣幕である。
「な、なんだよ……そんなに強く言わなくたって…」
思追の腕を上に持ち上げ、すごすごと袖に隠れる景儀。
((可愛い…))
思追と金凌が、お互いに同じ感想を持つことは珍しくない。
思追と景儀は恋仲であるが、金凌も景儀のことをそういう意味で好いていた。
ただ、恋心を自覚するのが遅く、すでに思追の手中にあったため、この様にアプローチをかけるしかないのである。
思追とばかりいるな、自分とも仲良くしろと言いたいのだが、元々所謂ツンデレ要素の強い金凌であるから、上手く伝えることができない。
そして、友人として思追のことは好きだし、頼りになる。仲良くしていたい。
されど、こと恋路の邪魔になると感じるとこのように喧嘩ばかりしている。そして、手に入らないという事実に沸々と湧き上がる嫉妬、渇望。
しかしいつかチャンスが巡ってくるのなら、と性懲りも無く毎度必要以上に接触を試みているのである。
ピィ、と微かに笛の音が聞こえた。藍氏一行が帰路に着く合図である。
「なぁ、もう行こうぜ」
くいくいと思追の袖を引っ張り促すが、ニッコリとした笑顔が逆に怖い思追と、斜に構えて見下すような視線の金凌とが睨み合っていた。
「も〜。仲良くしろってば!いつも思うけど、思追と金凌の喧嘩ってなんか本気すぎない?怖いんだけど!」
俺と金凌の喧嘩なんかかわいいもんだと愚痴る。
二人の背後に龍と虎でも見えてきそうな雰囲気に、分かった分かった!と景儀は言う。
「三人で!!三人で仲良くしようぜ?な?夜狩りの点数とかそういうの抜きで…あっ、そうだ!金凌今度また泊まりに来いよ!昔みたいに、三人で一緒に寝ようぜ!な?」
思追と金凌は、ギョッとした。
そうなのである。景儀は、金凌の好意に全く気づいていないのだ。
思追が、なんてことを言い出すのか、という顔で恐る恐る景儀を見れば、我ながら名案!とでもいった風にニコニコとしている。
金凌も呆然としてしまった。自分の恋心が、全く伝わっていないという事実を突きつけられたも同然であるから。しかし、この少年らしい笑顔を振りまく好いた相手と同じ部屋で一晩を過ごせるのなら、いいかもしれない。思追にばかりいい思いはさせてやらない、という気持ちが大きくなる。
若き宗主を務めているだけあって度胸のある金凌は、ニッと笑うと、うんうん、と景儀の提案に同意した。
「いいな、それ!来週は用向きがあって姑蘇に寄るんだ。ぜひ二人の部屋に泊めてもらおう」
「……そうだね。楽しみに、しているよ」
「おお!来週だな」
思追もいつものように微笑んではいるが、目が全く笑っていない。
昔のように三人水入らずで過ごせる約束を取りつけらた景儀は機嫌がよい。
「じゃ、お前らが喧嘩するとすぐ本気になって怖いから、俺が真ん中な」
いいだろ?と首を傾げて問う景儀。
愕然とする思追。
おいおいいいのかよ、と若干ぎこちない表情になる金凌。景儀の隣で夜を過ごせることは嬉しいが、あまりにも危機感がないし、思追の真っ黒な嫉妬にも気づいていないのだろう。これには、金凌の方が心配になってくる。
二の句が継げない二人を交互に見やり、景儀はニカッと笑って言った。
「俺を挟んで寝れば、万事解決!」
「「どこが!!?」」
風に揺れてザワザワとさざめく周囲の木々のように、一週間後の夜へ思いを馳せて思追と金凌の心も波立っていた。
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