if「お前が熱出すなんて珍しいな、デンジ」
ピピピと軽快な電子音が、ごうごうとエアコンは音をたて、ろくに聞きもしない朝のニュースの音声が雑に流れ込む空間で、鳴り響いていた。
「…ちげーし…」
そう拗ねたような言い方をして、眉をしかめながらデンジは体温計の数字を見つめる。ちなみに測ったのは一度や二度ではなく、これで三度目だった。
「おい、見せてみろ」
そう言ってデンジのもつ体温計を覗き込むと、やはり37.5と示されていた。何度測っても変わりやしないのに、デンジは諦めずにもう一度体温を測ろうと体温計のボタンを押しては懲りずに脇に挟み込もうとしている。
「…デンジ、今日は学校休みな」
そう彼に言い、欠席の連絡を入れるためにテーブルの上に置かれたスマホを手に取ろうとする腕が止まった。いや、止められたというべきか。
「い〜や!行くね!オレは学校に行くね!!」
あまりにも鬼気迫った表情でらしくもないことを言うものだから、コイツはここまで学校が好きなような人間だっただろうか、本格的に病で頭がイカれてしまったのかもしれない、そんなことを頭に過ぎらせながらアキはギャンギャンとデカい声で騒ぐデンジの声をBGMに欠席の連絡を入れた。
「マキマさんと放課後2人きりで補習してもらう約束だったのによォ……」
「そうか」
なるほど、デンジが体調を崩したとしても学校に行きたがる訳だ。1人そう納得したアキは、3人分の食器を洗っていた。
「アキは今日仕事行かねーの」
「有給使った」
「なんで」
「病人を看病する人間は必要だろ」
それにお前はまだ16歳なんだから、そう言うとアキはキュッと蛇口を閉める。アキの居るキッチンから見たデンジの後ろ姿は、なんだかいつもよりひと周りぐらい小さく見えた。
「……あ、そ」
そう言ったデンジは、数回大きなくしゃみをしてから、怠ィと独りごちていた。ほら見ろ、やっぱり体調が悪いんじゃないか。
「これ飲んだら、今日はもう横になっとけ」
ずびっと鼻を啜るデンジに、アキはホットはちみつレモンの入ったマグカップを手渡す。
「おー…」
朝のニュースにすっかり飽きてしまったらしいデンジはテレビのチャンネルを変えながら、聞いてんだか聞いてないんだか、かなり曖昧な返答で、それを受け取った。
それから、マグカップの中身が半分になり、アキが読書に取り掛かった頃に、デンジはもう一度口を開いた。
「…アキは何も言わねぇの」
「は?」
「オレ、マキマさんと2人きりで過ごす約束したっていったじゃん」
前にマキマさんのことが好きって言ってただろ、そう話したデンジは残り少ない薄黄色の飲み物をちびりと飲んだ。
「オレがマキマさんとデートするって言ったら、いつものアキなら噛み付いてくんじゃん」
「あぁ…」
最初は何を言っているのかわからなかったが、なるほどそういうことか。
でも言われてみれば確かに、なぜアキはマキマの名を出されても全然気にならなかったのだろう。学生時代はあんなに好きだったのに、ほとぼりが冷めたというだけで、ここまでマキマさんの存在がどうでも良くなってしまうことはあるのだろうか。
「…なんでだろうな」
ふと、外の景色がなんとなく気になって窓に視線を向けると、結露ですっかりぼやけてしまっていて、鉛色をしている空の色ぐらいしか、アキにはわからなかった。
「答えになってねェ〜!」
そう言ったデンジは、マグカップを一息に煽ると、ごちそうさんと言って自室へと消えた。
アキにとってマキマ先生は憧れの人で、同時に意中の人でもあった。もう一度言うが、本当に好きだったのだ。学生を卒業して、大人として社会で揉まれたせいなのだろうか、信仰とも言えるほどの熱がすっかり消えてしまっていたのを、アキは少し残念に思った。