一緒に初日の出を見るくろそら 年越しライブは都心から少し離れた会場で行われて、終了後には近くのビジネスホテルに全員で泊まった。アイドルだから当然なのだけれどワンフロアをまるまる貸し切っていて、まるで修学旅行みたいだった。
深夜三時くらいにホテルに着いて布団に入ったが、どうにも目が冴えていて数時間で起きてしまった。ライブの終演後には、疲れて眠そうにする人とライブの興奮で冴えきっている人とに分かれており、僕は後者だった。
しばらくベッドで横になってはみたものの眠気は全然やってこなくて、喉も渇いていたので自販機へ飲み物を買いに行くことにした。
ホテルの廊下はしんと静まり返っていた。他のフロアだったら出発する人もちらほら出始めそうな時間だけど、ライブで疲弊したアイドルたちはみんなぐっすりと寝入っている。
自販機コーナーはエレベーター脇の奥まったところにあり、ぶうんと低く唸っていた。自販機の煌々とした白い光は眩しく、暖色の間接照明に慣れていた目にはいくぶん刺激的だ。
自販機を目当てに来たものの、特に飲みたいものがあったわけではなく、僕は自販機を前にして何を買うべきか悩んだ。
寝起きにジュースや炭酸というのは健康面で気が引けるし、今の気分ではない。無難にミネラルウォーターかお茶のどちらかにしようと考え、この後また眠るつもりならカフェインの入ったお茶は避けておくべきだろうかと思いつく。そもそも、部屋に戻ったとして眠った方がいいだろうか。簡単には寝付けない感じがしているし、いっそのことチェックアウトの時間まで起きていてもいいかもしれない。それなら眠気覚ましのコーヒーやエナジードリンクも選択肢に入ってくる。寝起きが悪い方と自覚しているから、今眠ってしまったらまた起きれるかどうか少々自信がない。
ひとしきり逡巡したところに、客室の方からパタパタとスリッパの足音がやってきた。
「おや、北村さん」
足音の主は、九郎先生だった。
「おはようございます。奇遇ですね」
備え付けの浴衣が、やけに様になっている。自前の外套を羽織っているからだろうか。ぺらぺらの生地も九郎先生が着ていると、わざとそういう造りをしている代物に見えた。
思いがけない出会いに、僕の心臓はにわかに騒がしく鳴り始める。
「おはよう……でいいのかなー? まだ夜って感じがするよー」
「ふふ。遅くまで起きていましたものね。ライブが終わった時もみなさん着替えながら眠そうにされていました」
「僕は逆に目が冴えちゃって飲み物買いに来たんだー。九郎先生も同じー?」
「いいえ。私は初日の出を見ようかと思いまして」
「初日の出ー?」
「こちらの屋上が、今朝だけ開放されているらしいのです」
そう言われて初めて、今日が元旦だということに思い至った。年越しライブを終えたのだから当然年は明けているわけだけれど、ライブの非日常さに混じっていて、正月という感じがしていなかった。
「外は寒いでしょうから、屋上へ行く前に温かい飲み物を買いに来たのです。よろしければ、北村さんもご一緒にいかがですか?」
「あ、えーと……」
急な誘いを受けて、僕はつい口ごもってしまう。そうすると九郎先生は心配そうな表情を浮かべて言うのだ。
「お疲れでしょうし、無理にとは言いません」
「僕も見たいかなー。初日の出」
喉の奥に引っかかった言葉を取り出すように告げると、九郎先生は本当に嬉しそうにふわりと微笑んで、僕は胸やみぞおちの奥の方がきゅうと縮こまるのを感じた。
いったん自分の部屋に戻り、上着を羽織ってマスクを着けて、エレベーター前で合流した。九郎先生もマスクを着けていて、僕も彼も芸能人なんだなと不思議な感慨深さが湧いてくる。
エレベーターで最上階まで行った後、階段を上って屋上を目指す。普段は使われていないだろう階段は剥き出しのコンクリートで味気ない。九郎先生の清廉な目つきと、どこにでもあるデザインの白マスクと、外套の上等な質感と、薄手のポリエステルの浴衣とがちぐはぐで、非日常感が増していく。たどり着いたドアはすすけており、『特別開放中』との張り紙があった。
ドアを開けた途端に寒気が流れ込んできて、僕は思わず身震いした。
「さ、さむいねー」
凍えんばかりの寒さに口がまわらず、つっかえてしまう。
「え、ええ。身に沁みるような北風ですね」
流石の九郎先生も今ばかりはガタガタ震えている。いつもは暑さも寒さも平気そうな様子で振る舞っているけれど、夜明け前の寒風はそんな高潔さも崩してしまうみたいだ。
「も、申し訳ございません。これほど寒いとは思っておらず……。もう戻りましょうか」
「僕なら平気だよー。せっかく屋上まで来たんだから見てから帰ろうよー。日の出までもう少しでしょー?」
屋上は、広さのわりに人はまばらだった。この寒空では仕方ない。明け方の空は白く、同じ日が傾くのでも夕暮れ時とは違っている。街灯の少ない街並みでは、僕たちのいるホテルだけぴょこんと飛び出したように背が高くて辺りがよく見渡せた。
僕たちはぽつぽつと話をしながら夜が明けるのを待った。寒くて流(りゅう)暢(ちょう)には話せないので、いつもよりゆっくりな口調で。先ほど買ったばかりのホットの緑茶が、手のひらにじわりと温もりを与えてくれて、ありがたかった。
「最近はどうですかー?」
と、思春期の子どもを持つ親みたいに話しかけてしまう。今日のライブこそ一緒のお仕事だったけれど、この頃はお互いに忙しくて九郎先生と顔を合わせるのは久しぶりだった。
「そうですね……年末ですから、特番に呼んでいただくことが多かったです。猫柳さんや華村さんには及びませんが、私が話した場面を使っていただくことが増えてきました。以前に比べてバラエティ番組に慣れてきたのではないかと。それから、新曲の収録とそのお披露目ライブのお仕事もありました。年の瀬が忙しいのは、アイドル冥利に尽きますね」
漠然とした問いにも、律儀に返してくれるのが九郎先生らしい。
「ふふ。引っ張りだこだねー」
「北村さんも活躍なさっていましたよね。先週ゲスト出演されていたラジオ、拝聴しました」
「ああ、あれかー。どうだったー?」
「トークスキルが上がっていたと言いましょうか……絶好調でしたね。特にリスナーの方からのお便りを小気味よく返す様子は、聞いていて愉快な気持ちになりました。パーソナリティの方もお上手で――あっ」
九郎先生の向く先を見てみると、いつの間にか夜が明けかかっていた。建物と建物の隙間に、熱されたガラス玉みたいなオレンジ色の朝日が顔を覗かせている。
初めのうちは細い線のような形だったのが、みるみるうちに大きく丸くなっていく。太陽が昇っていくに従い屋上のあちこちからカシャカシャと、ちょっと無粋な感じのシャッター音が上がった。
初日は、昼間にみる太陽よりも赤くて大きかった。鋭く伸びる陽光を冠のように纏った姿は、どこか神々しさを感じさせる。
「綺麗だねー」
「ええ。心が洗われるようです」
九郎先生は朝日を見てしばらく感動していたが、おもむろに携帯を取り出して朝日にかざした。カシャ、と僕の隣からもシャッター音が起こる。
「写真撮るんだー」
その動作が意外で、思ったことが口から出てしまった。
「猫柳さんと華村さんに送ろうかと。猫柳さんはまだお休みでしょうし、華村さんもお仕事中らしいですから。意外でしたか?」
「ちょっとだけねー」
僕も写真を撮って二人に送ろうかとよぎったけど、別の考えが浮かんだので取りやめることにした。
「ねえ。その写真、僕にも送ってよー。携帯の充電切れてたみたいなんだー」
言いながら、首から下げた携帯ストラップに触る。運良く画面は内向きになっていた。
「もちろんです。後で送信しますね」
九郎先生は何にも気にせず快諾し、再び朝日に向き直る。初日に照らされた横顔はまだほの暗く、昨夜のようにスポットライトに追われてもいないしステージカメラに抜かれてもいない。屋上にいる他の人たちも、みんな初日の出に夢中だ。
(きっかけが欲しかったんだ。)
言い訳っぽく、僕は心の中でつぶやいてみる。
忙しくなって、なんとなく疎遠になってしまっていた。だから出演者一覧に名前が並んでいるのを見た時には胸が弾んだ。ライブへ向けた準備で久々に過ごせたのも束の間、本番も終わってしまったし元の日々に戻るのかと、僕にしては珍しく湿っぽい気持ちに浸っていた。そしたら最後の最後で偶然出(で)会(くわ)して、舞い上がりそうになってしまった。
友人同士なんだから、さみしかったのなら素直にそうと言えばいい。九郎先生も笑ったりするような人じゃないのはわかってるけれど、「また遊ぼうね」なんて、大人になってから言うのは気恥ずかしい。
「初日の出……」
九郎先生はそれだけ発し、突然表情を険しくさせた。よこしまな気持ちを見透かされたのかと、僕は一瞬どきりとする。
「初日の出……染まりゆく空…………」
九郎先生はややうつむききがちにぶつぶつ呟く。
「な、何のことー?」
「一句詠んでみようと思ったのですがなかなか思いつかず……。北村さんは、この景色を何と詠まれるのですか?」
困り眉ではにかみ、僕にそう尋ねる。
「ええと……」
とりあえず思案してみたもののどきまぎしたのから立ち直れず、いつもみたいに言葉がすっとまとまらない。さらには、それに乗っかってしまおうなんて、よこしまな気持ちが一回り大きくなる。
「……僕もすぐには思いつかないやー。いいのが浮かんだら送るねー」
「ありがとうございます。では私も、不心得ながら返歌を考えましょう」
今日は、最初から最後までらしくないなーと自分自身に苦笑してしまう。次の話を取り付けるほどがっつくなんて。
「九郎先生、あけましておめでとう」
今度は九郎先生が面食らう番だった。
「ふふ。まだ言ってなかったなって思って。そんなにびっくりしないでー」
「そういえば……。改めまして、あけましておめでとうございます」
照れ隠しみたいに挨拶を交わしたら、急に眠気がやって来て、僕は小さくあくびした。
「無事に初日の出も見れましたし、部屋へ戻りましょうか」
「うん。今日は誘ってくれてありがとうー。新年早々いい思い出になったよー」
次の約束ができた途端に眠くなるなんて、まさか寝付きが悪かったのってさみしかったのが原因だったのだろうか。そうだとすると、僕ってあまりに単純じゃないだろうか。
自分のわかりやすさが少々恥ずかしく、だけどそのおかげでいいことがあったのも事実だった。一緒に見た朝日や九郎先生が句を詠もうとしてくれたこととか、振り返ると胸の辺りがじわりと温かくなる。単純なのもそれはそれで幸先がいいんじゃないかと僕は都合良く捉え直すことにしたのだった。